第一話 人ではないもの
「また出たと申すか」
齋藤啓之介は、持ち上げかけた茶碗を膝の上で止めた。
報告に来た家臣が、畳に伏せていた顔を上げる。
「昨夜、呉服商の娘が。帰りが遅いのを案じて、家の者が捜しておりましたところ、騒ぎを聞きつけた岡っ引きが追いまして」
「娘は」
「行方が知れませぬ。鼻緒に赤い花を縫い取った草履が、片方だけ落ちておりました」
「岡っ引きは」
「……今朝、見つかりました」
啓之介は茶碗を置いた。
「生きては」
「おりませぬ」
庭では、植木屋が鋏を使っている。
枝を切る乾いた音が、二度、座敷へ届いた。
「これで何人じゃ」
「この一年で、四人にございます」
攫われたのは、いずれも良家の娘だった。器量がよいと評判で、嫁入りの話が進んでいた者もいる。供を連れていた娘も、戸を閉めた家から消えた娘もいた。
「奉行所は、何と」
「夜の外出を控え、戸締まりを厳重にせよと」
「閉めておった家からも攫われておろう」
「その旨は、すでに」
「その先は」
「調べを進めている、と」
啓之介は扇子を開いた。閉じ、また開く。
町では、鬼の仕業だという。
屋根を越す影を見た、川沿いで娘の泣き声を聞いた。誰が見たのか、誰が聞いたのか。確かめさせれば、誰かの知り合いの話ばかりだった。
「壁にも、深い傷が残っておりました」
「刀か」
「五筋、並んで。爪の跡だと申す者も」
扇子の骨が、一本折れた。
「父上?」
啓之介は扇子を尻の下へ押し込んだ。
開いた障子の向こうに、瑞姫が立っていた。薄紅の袖を揃え、こちらを見ている。髪には小さな花が一輪、挿してある。
「何でもない。どうした」
「お庭へ出てもよろしいですか」
「ならぬ」
「なぜです」
「……風がある」
「暖かいですよ」
「暖かい風もある」
瑞姫は庭を見た。
植木屋が鋏を止め、気まずそうに頭を下げた。
「では、縁側でお花を見ます」
「うむ。それならよい」
娘が廊下へ出ると、啓之介は家臣を手招きした。
「庭へ二人つけよ」
「はっ」
「塀の外にも」
「はっ」
「植木屋は、いつもの者か」
「先代の頃より出入りしております」
「そうか。……いや、念のため顔を見ておけ」
「父上、聞こえております」
啓之介は背筋を伸ばした。
瑞姫は縁側に腰を下ろさず、座敷へ戻ってきた。
「また、どなたか攫われたのですね」
返事をしない父の隣へ座る。
髪の花が、肩の向こうで揺れた。
「私は、ここにおりますよ」
「今はな」
「勝手に出かけたりいたしません」
「お前が勝手に出ていくのを案じておるのではない」
声が強くなった。
瑞姫の指が、膝の上で揃う。
啓之介はその手を見て、口を閉じた。
「……すまぬ」
「父上が謝ることではありません」
娘は首を横に振った。
それから、庭へ一度だけ目を向けた。
「縁側には、出てもよろしいですね」
啓之介は頷いた。
瑞姫が立ち上がるのに合わせ、控えていた侍女が廊下へ出る。
娘が縁側へ腰を下ろすまで見届けてから、啓之介は尻の下の扇子を抜いた。折れた骨を指で戻そうとしたが、もう閉じなかった。
*
万蔵藩は、城を持たぬ小藩だった。
二万数千石。国許の港を見下ろす陣屋が藩庁で、家格を並べれば上にはいくらでもいる。大坂に構えたこの屋敷も、表門だけなら隣の大藩に見劣りした。
ただし、蔵の中は別だった。
代々、港を整え、荷を集め、特産品を商人と売り広めてきた。武家のくせに算盤を弾くと笑われても、借財の申し入れは笑った側から来る。
蔵の鍵を任せられる者なら、何人もいた。
「亡くなった岡っ引きに、家族は」
「妻と、幼い子が二人」
「当座の暮らしに困らぬよう届けよ。こちらの名は出さずともよい」
家臣が筆を取る。
啓之介は閉じない扇子を、机の端へ置いた。
「夜番を増やす。門だけではなく、裏手と水際も見させよ。娘の捜索に金が要るなら出す」
「承知いたしました」
「噂を持ち込んだだけの者にまで払うな。足を使った者には払え」
「現場を見てまいりました」
老臣の樋口主膳が入ってきた。
廊下の若侍が、稽古で打たれた手首をさすりかけ、慌てて両手を膝へ戻す。主膳はその前を通り、一礼して座った。
「どう見る」
「十手ごと断たれておりました。壁の傷も見ましたが、あの間隔に五筋、一度で刻める刃物は存じませぬ」
「やはり、鬼か」
主膳は少し間を置いた。
「鬼かどうかは分かりませぬ。だが、人ではない」
啓之介の目が、主膳の腰へ落ちた。
長く使い込まれた刀だった。
「鉄砲を増やすか」
「備えは必要にございます。ただ、懐へ入られれば、最後は斬るほかありません」
「お前なら、斬れるか」
主膳はすぐに答えなかった。
自分の刀へ目を落とし、柄の端に指を添える。
「……斬らねばなりませぬ」
啓之介は老臣の手を見た。
「斬れる刀を探せ。腕は、お前のがある」
主膳が顔を上げる。
「でしたら、鬼切を」
「鬼切」
「童子切安綱。源頼光が、酒呑童子を討ったと伝わる太刀にございます」
「伝わる、か」
「古い刀には、長く人の手を渡るうちに力が宿るとも申します。あれほどの太刀ならば、試す値打ちはあるかと」
「伝説に銭を払えと申すのか」
主膳は頷いた。
「それに、よく斬れるのは間違いない」
啓之介は庭へ目を向けた。
縁側の端から、瑞姫が枝の先へ手を伸ばしている。届かず、爪先を立てた。植木屋が枝を引き下ろすと、娘は笑って何か言った。
啓之介は、その声を聞き取れなかった。
「探せ」
家臣の筆が動いた。
「誰が持っておるのか、いくらなら譲るのか。売らぬなら借りる。先方の入り用を調べよ」
「しかし、あれほどの名刀となりますと、金だけでは」
啓之介は家臣へ向き直った。
「金だけで済まぬなら、何が要るかを聞くのじゃ。会う必要があれば儂が会う」
家臣は頭を下げ、書きつけをまとめた。
「待て」
「はっ」
「ほかにもあろう。古い刀は」
「……ございますが」
「そちらも調べよ」
しまいかけた筆が、もう一度取り出された。
*
「売らぬそうにございます」
戻った家臣の膝の前に、手土産の箱がある。
紐の結び目まで、出立したときと同じだった。
「まだ値を申しておらぬ」
「値の話ではないと」
「では、何の話じゃ」
「家の誉れに関わると」
「借りる話は」
「先祖伝来の宝を、銭に困って手放したと思われてはならぬ、と」
啓之介は届いた書状を読み直した。
末永き御厚誼を願う。
三度も書いてある。刀は貸せぬという。
「銭には困っておるのか」
「……蔵米の払いが滞っているようにございます。商人が二人、裏口で待っておりました」
啓之介は手土産の箱を、家臣の方へ押し戻した。
「次は蔵元に会え。今年の荷を、うちの船で運ぶ。蔵も空ける。運賃と蔵敷は、ここまで下げてよい」
硯を引き寄せ、書状の余白へ数字を書く。
主膳が、その手元へ身を寄せた。
「殿。それでは、こちらの儲けが」
「なくなるな」
「よろしいので」
「船倉を空けて戻すよりましじゃ」
啓之介は筆を置いた。
「商いがまとまった祝いに、名刀を拝見したいと申し入れよ。しばらくこちらで預かり、手入れも警護も引き受ける」
「鬼を斬るために使うことは」
「隠すな。それを承知で貸していただく。損じた場合の償いも書面にする」
主膳は数字を見つめる。
「ずいぶん高い拝見料になりますな」
「買値は聞かせてもらえぬのじゃ。仕方あるまい」
使いを送り出すと、主膳はもう一枚の書きつけを広げた。
「ほかの古刀も、名と伝来までは」
「申してみよ」
「その前に。酒呑童子には、五鬼の配下があったと伝わります」
「五つもか」
「此度のものも、一体とは限りませぬ。童子切一振に頼り切るのは、いささか心許のうございます」
啓之介は書きつけを引き寄せた。
いくつかの名の下に、小さな字で由来が添えてある。
「この、病を退けたというのは」
「大典太光世。姫君の病を退けたという伝承が」
「それは頼め」
主膳の筆が止まった。
「まだ、どなたからお借りできるかも」
「調べよ。あって困るものではない」
主膳が一つ印をつける。
啓之介の指は、その隣へ移った。
「三日月は、なぜ美しいだけなのじゃ」
「天下一の美しさとも評される太刀にございます」
「美しいのは結構じゃが、鬼に通じるか」
「そこまでは、まだ」
「……いや、それも頼め。後から、あれがあればと悔やみたくない」
「鬼丸国綱。持ち主を夢で苦しめた鬼を、ひとりでに倒れて斬ったと」
「刀がか」
「そのように伝わっております」
「寝所に立てかけるのはやめておこう。次」
最後に、数珠丸恒次の名にも印がついた。
*
十日余りして、童子切の箱が屋敷へ運び込まれた。
啓之介は朝から三度、敷物の位置を変えさせた。庭へ通じる障子を閉め、火鉢も遠ざける。箱が置かれてから、敷物の隅をもう一度伸ばした。
「まだか」
「いま、紐を解いております」
「切ればよかろう」
「先方のお箱にございます」
「……ならば丁寧に解け。早く」
蓋が開いた。
主膳が両手で包みを持ち上げる。布を一枚ずつ外し、畳の上へ揃えた。
現れた太刀は、鞘へ収まったままでも長かった。
主膳は袖を引き、手首を出した。
左手に鞘を取り、右手を柄へ掛ける。刃の向く先に誰もいないことを確かめてから、親指で鍔を押す。
かすかな音がした。
啓之介は膝を進めかけ、止まった。
まず、根元の厚い鋼が現れた。
そこから反りに沿って、細い光が伸びる。まだ伸びる。主膳が左肘を引き、最後に切先が鞘を離れた。
抜き身になった途端、座敷が狭く感じられた。
刃は光を受けた側だけが白い。そのすぐ上には、深い水の底を見るような、暗く澄んだ鋼の面がある。わずかに角度が変わると、細かな輝きが刃に沿って浮かび、先へ走る。
啓之介は、吸った息をそのままにしていた。
美しいと思った。
そのあとで、これが首を落とすものなのだと気づいた。
主膳の右手は動かない。
稽古場では、打ち込んだ若侍がまだ踏み出しているうちに、その手首を打ち返す男だった。その手が、今はただ柄を支えている。
啓之介は横から刀身を覗こうとする。
「そこまでに」
主膳の声が低く響いた。
刃に触れるほど近づいたつもりはなかった。それでも、啓之介は膝を戻した。
「……これで、鬼を」
先方から付き添ってきた侍が、口を開きかけた。
目が刀へ戻ると、その口も閉じた。
主膳は鞘を取り直した。
長い刃が少しずつ隠れていく。鍔が収まる音を聞いて、ようやく啓之介は息を吐いた。
「童子切安綱にございます」
付き添いの侍が、遅れて名を告げた。
「御返却の折には、刃の状態も含め、改めて確認を」
「うむ」
「箱と包みも、お渡ししたとおりに」
「心得ておる」
「万一の際の御償いにつきましては」
「書いた。判も押した」
啓之介は太刀の前へ膝を進めた。
「どうか、娘を頼む」
深く頭を下げたまま、待った。
返事はなかった。
「……何も起きぬな」
「殿。まだ何も斬っておりませぬ」
啓之介は顔を上げ、乱れてもいない裾を直した。
*
万蔵の殿が古刀を探している。
噂は船よりも軽く大坂を走った。
刀とともに、由緒書きと値段と、怪しい話まで屋敷へ届いた。
「こちらは八百年を経た太刀にございまして」
「ほう」
「古き神の加護が」
「その下げ緒は新しいな」
「下げ緒は替えております」
「鞘も」
「鞘も替えております」
「中身は」
商人が笑った。
主膳は笑わなかった。
その刀は、箱ごと持ち帰られた。
家臣たちは伝来を調べ、持ち主と話をつける。貸す者も、売る者もいる。啓之介の机には、刀の絵よりも勘定書きが積み上がっていく。
三日月宗近が届いた。
大典太光世、鬼丸国綱と続き、最後に数珠丸恒次が運び込まれた。
五つの箱を並べ終えると、啓之介はようやく肩を下ろす。
瑞姫も見に来た。
袖口を片手で押さえ、箱の中を順に覗く。数珠の掛かった柄の前で足が止まった。
「この刀は、お坊様のものですか」
「そのように聞いておる」
「こちらは?」
「病を退けたことがあるそうじゃ」
「では、父上の枕元に置いていただいたら」
「儂は病ではない」
「この頃、眠れておられませんでしょう」
啓之介は咳払いをした。
主膳が書付を揃えている。目を上げない。
「これだけそろえば、今夜は眠れる」
瑞姫は五振を見渡した。
「どなたがお使いになるのですか」
啓之介も五振を見渡した。
それから主膳を見た。
主膳は、すでにこちらを見ていた。
*
人払いをした座敷に、啓之介と主膳が残った。
主膳は長年使ってきた自分の刀を脇へ置き、童子切の前へ座った。
着物の袖を整え、左手で鞘を取る。柄へ右手を掛ける動きには、迷いがなかった。
「まずは、わしがお預かりいたします」
「お前ならば、儂も心強い」
主膳の親指が鍔を押した。
『やめておけ』
肩が跳ねた。
鞘を握る左手に力が入り、浮いた刃が鍔元でかちりと鳴った。
「誰じゃ!」
啓之介が振り返った。
障子は閉じている。廊下に足音もない。
『その手を離せ』
主膳は手元を見下ろした。
啓之介も、その視線を追った。
「……いま、どこから」
「この、太刀から」
答えた主膳自身が、刀と啓之介を見比べている。
『聞こえておるなら、離さぬか』
啓之介は畳に手をつき、後ずさった。膝が机に当たり、積んだ書付の一束が崩れる。
「主膳、刀が」
「聞こえております」
「喋ったぞ」
「聞こえております!」
主膳は太刀を身体から遠ざけながら、啓之介を背に庇うように膝を動かす。
『そう身構えるな。儂を戻せと言うておる』
主膳は浅く息を継いだ。
鍔元の隙間へ目を落とす。口など、どこにもなかった。
「……刀が、口を利くのか」
『お前に鬼は斬れぬ』
主膳は柄を握り直した。
「わしでは不足と申すか」
『腕の話はしておらぬ』
古い刀は、それきり黙った。
主膳はしばらく太刀を見ていた。
やがて刃を鞘へ収め、両手で箱へ戻した。柄から離れた右手が、膝の上へ戻る。
啓之介は、その手から目を上げた。
主膳は箱の中を見ていた。
畳に散った書付には、金額も、期限も、償いも書いてあった。
貸し手の名も、借り手の判もある。
刀自身の承諾だけは、どこにもなかった。




