第2話:二人だけの密室、危うい共助
一条から渡されたTシャツは、思ったよりもずっと大きかった。綿シャツの裾は紬の太ももの中間まで届き、袖からは指先がわずかに覗く程度だった。
浴室の鏡に映った自分の姿は無残だった。濡れた髪、赤く充血した目。そして、一番見られたくなかった上司に、惨めな底辺を見せてしまったという羞恥心。紬は顔を覆い、震える息を吐き出した。明日になれば、たった一つの荷物を持ってどこへ行くべきか。奪われた一千万ウォン(約一千万円)は取り戻せるのか。暗澹たる現実が波のように押し寄せ、胸を締め付けた。
浴室の外に出ると、カフェの2階は静まり返っていた。紬はリビングの真ん中へ出る勇気が出ず、壁際に身を寄せて周囲を伺った。1階の活気あるカフェとは対照的な、過剰なほど整頓された冷たい空間。塵一つない無垢材のテーブルや無彩色の家具たちは、まるで「ここは君の来る場所ではない」と紬を拒絶しているようだった。
行くあてのない自分に与えられた、この過分な好意がいつ壊れるかわからない。その不安が紬を押しつぶした。見知らぬ空間の威圧感に息を殺していた紬の視線が、リビングの隅、闇に隠された狭く急な階段に留まった。
3階へと続くその階段は、2階のモダンな雰囲気とは異なり、どこか異質だった。その先から微かに漂う、ほろ苦い絵の具の香りと、気だるいクラシックの旋律。普段、数字と効率だけを重んじる一条のイメージとは到底結びつかない気配だったが、今の紬にはその秘密を暴く余裕すらなかった。ただ禁じられた領域に触れぬよう気を配り、ソファの上で体を丸めたまま、一睡もできずに夜明けを迎えた。
あの日以来、紬の奇妙な二重生活が始まった。
昼間は、徹底して無関心な上司と部下として。そして夜は、一条が差し出した秘密の隠れ家の、一時的な居住者として。
しかし紬は、毎晩玄関の方を見つめながら、ハラハラと心を痛めていた。一条はあの日の朝「当分ここで過ごせ」と言い残して以来、夜にここへ足を踏み入れることは一度もなかった。
(私のせいで、家に帰れないのかも……)
自分の存在が一条にとって大きな重荷になっているようで、紬の心は日に日に重くなった。完璧主義者の彼が、自分のために丹精込めて整えた隠れ家を諦め、彷徨っているのだと思うと、申し訳なさは雪だるま式に膨らんでいった。その申し訳なさは、いつしか「私がこの人を不快にさせている」という確信めいた誤解へと変わっていた。
そうして一週間が過ぎた、ある夜のこと。
コンビニで簡単に食事を済ませて帰ってきた紬は、カフェの前の暗闇に立つ、見覚えのあるシルエットを見つけた。一条だった。彼は街灯の光の下で、冷たい空気を吸いながら立っていた。紬は躊躇ったが、勇気を出して彼に近づいた。
「本部長……。もしかして、私のせいで帰ってこられないんですか?」
突然の紬の声に、一条が顔を向けた。一週間ぶりに夜の空気の中で向かい合った彼の瞳は、相変わらず深く、静かだった。
「何の話ですか」
「毎晩、本部長を待っていました……。申し訳なくて。私一人のせいで、本部長の大切な場所を使えずにいらっしゃるんじゃないかと。あまりにも大きなご迷惑をおかけしている気がして……」
紬の声が震えた。一条はしばらく紬を凝視していたが、ふっと短く息を吐いた。
「浅野さん。言ったはずですよ。ここは私の『家』ではないと。君がいようがいまいが、私は自分のスケジュールの通りに動くだけです。人を疲れさせないでください」
一条は無関心に通り過ぎようとしたが、立ち止まって紬を振り返った。街灯を背負った彼の影が長く伸び、紬を覆った。やがて、彼の口から出た質問は、紬の息を瞬時に止めた。
「君の金を奪って逃げた詐欺師の名は……**伊東泰一**ですか?」
紬はその場で凍り付いた。一度も一条に詐欺師の名を言ったことはなかった。背筋を這い上がるような、冷たい戦慄が走る。一条は呆然とする紬の瞳をじっと見つめ、圧迫するように一歩近づいた。
「どうして……名前を、ご存知なんですか? 私は話したことがないのに……」
一条は答える代わりに、冷やかな眼差しで紬を射抜いた。静寂の中に、彼の濃いウッディな香りが二人を包み込む。肯定も否定もしないその冷酷な沈黙が、むしろ紬には、どんな確信よりも重く迫ってきた。
上司と部下の境界が崩れ、二人を繋ぐ奇妙な共助が始まる瞬間だった。




