番外編 幼き日の邂逅:ガルヴィン視点【前編】
乗り合い馬車は揺れる。
腐った宗教国家を脱してから、どれくらい経つのだろうか。太陽はとうに沈み、周囲は月明りが照らしていた。――ひとまず隣国を越えれば、持ち金だけでもしばらく生活はできるだろう、と考える。
国を渡れば、聖女が置かれる立場や境遇もそれなりに違うものだ。だが、彼女は聖女としての立場を望まないだろう。だからこそ、自ら追放を選んだのだ。
俺はひっそりと思う。
(少しでも……、シャリアが望むようになればいい)
隣へ視線をやれば、共に旅立った彼女――シャリアは眠ってしまったようだ。膝を抱え、その小さな体を縮めて。深く被ったフードから覗く、聖女としての証。月夜の光を反射する銀髪がフードから零れ落ちそうだ。
俺は不用心だと、小さく呆れた溜め息をついた。眠る彼女を見つめて、思考に浸る。
追放され、国を脱したからと言って、あの国と無関係とまではいかない。シャリアは「真実」を知った。
彼女の聖女としての実力も、教会にとっては脅威だったのだろう。都合よくシャリアが追放を望んだために、教会の根本を覆すような大事件にならなかった。それだけだ。しかし、今もなお彼女に追手が迫る可能性は捨てきれない。
だからこそ未だ残る不安に、俺は眠れない夜を過ごす。――国や教会に忠誠を誓った護衛騎士としての俺は最初からいなかった。あの頃からずっと、俺の意思で彼女を守りたいと願っただけだ。
(それを知るのは誰もいないだろうな……)
俺は心の中で呟くと、シャリアのフードを直す。そうすれば、彼女はもぞりと体を動かした。俺は驚いて、ぴたりと動きを止める。だが、シャリアはすぐに寝息を立て始めたのだった。
(起こしてしまったのかと……)
杞憂だったようだ。俺は安堵し、そっと手を下ろした。すると、今度は口を小さく動かし始めたのだ。見慣れない動きに、俺は眉を寄せて見入ってしまう。
シャリアの口から紡がれたのは――。
「むん……むぐぅ」
それは寝言だろうが、まるで食べ物を噛み締めているような口の動きだ。――思い当たることがひとつ。
(……彼女は夢の中でも食事をしているのだろうか)
記憶にある、食事を共にしたシャリアの姿。小さな口で美味しそうに頬張る姿を思い出す。その可愛らしさに、ふっと目元が緩んだ。
俺はしばらく、そんな彼女の様子を眺めていた。次第に湧き上がってくるのは温かな感情。
(もうひと押し……だといい)
シャリアを好いていると、ようやく告げたのだ。そのとき、顔を赤くした彼女の表情から察するに、嫌な感情は抱かれていないと思う。
せっかく用心棒として彼女と共に行くことを許されたのだ。この機会を逃すまい。――シャリアは知らないだろう。英雄などともてはやされた男の本性が、少年の頃から変わらない感情を抱いていることなど。
俺はそっと口を開く。
「おやすみ。よい夢を」
馬車が揺れる音に、その言葉はかき消された――。
* * *
記憶を辿っても、思い出すのは焦燥感だ。
闇雲に剣の腕を研いた。それだけが、この悪烈な身分社会から逃げ出すことのできる、たったひとつの手段だと信じて。
(孤児なんて、そこら中にいる。そこから脱するには、貴族の養子になるか。それとも騎士団の下働きから成り上がるか――)
瘴気が蔓延した土地には病が流行る。そうでなくても、魔物の襲撃によって家族を失う者もいる。そんな中で、俺は大勢いる孤児の中のひとりだった。
俺は子供ながらに、可愛げがなかったように思う。常に頭で考えることが先で、口にする言葉は少なかった。
そのため、孤児院への貴族訪問があれば、皆の一番後ろに並ばされた。それを悲観することもなければ、貴族の養子として迎えられることを羨ましいと思うこともなかった。
それが幸いなことに、俺が育った孤児院は良心的だった。支援者の意向で、子供たちの将来を見据えた活動をしていたのだ。それが読み書きに始まり、適性があれば剣の道を選ぶこともできた。
幸運にも、適性を見出され――俺が選んだのは剣だった。孤児院と癒着のある騎士団の末端へ下働きに出されたのは必然だった。
そんなある日のことだ。
孤児院から、少し離れた森の中。そこが俺の自主練場だった。誰にも邪魔されず、人の目を気にすることもなく鍛えることができる場所だった――はず。そこに居たのは、粟色の髪をした少女だ。
俺は警戒心をあらわにながら、少女に声を掛けた。
「誰?」
ぶっきらぼうな俺の言葉。少女は気にする素振りもなく、こう答えた。
「誰もいいでしょ。私はただ、薬草を摘みに来ただけだもの」
そう語る少女の手は土に汚れ、薬草と語る物を手にしていた。俺は「変わり者がいる」程度に考えていた。
しかし、少女は俺を見るや否や、呆れたように口を開く。
「君の手、荒れてるね」
「……」
「これ、あげるわ。擦り傷や肉刺にもよく効くから」
そう言って、ポケットから小さな容器を取り出したのだ。
どうやら彼女は、俺を心配してくれたらしい。他人からの善意。孤児院では、あまり経験したことのないことだった。もちろん、院長や他の大人たちは優しかった。けれど、それは――そういう仕事だから。
彼女は言葉に詰まっている俺に何を言う訳でもなく、「大丈夫」とでも言うように首を可愛らしく傾げて見せた。
そうして、少女は容器を俺に渡すと、何も語らず去って行ったのだった。
彼女が去った後、俺は手の中にある容器をじっと眺めていた。
(心が、むずがゆい……)
この日、俺は不思議な感情を知ったのだった。
――そうそう。容器の中身は、薬草の苦い香り漂う軟膏だった。不思議とよく効いたことを覚えている。




