第9話「密書は、二度たたんで」
第9話「密書は、二度たたんで」
最初の密書は干し杏の包みに紛れて届いた。
ヤコブの商隊が運ぶ、ありふれた菓子の包み。
その油紙の内側に、二度たたんだ薄い紙が一枚。
差出人の名はどこにもない。
それでも、わたしには分かった。
誰の字か。
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短い文だった。
素っ気ないほどに。
『北の打ち捨てられた礼拝堂。次の新月の夜。来られるなら来い』
たったそれだけ。
署名もなければ飾りの一言もない。
用件だけが、刃物で削ったように紙の真ん中に置かれている。
(……相変わらず、無駄がない人。手紙でまで寡黙を貫かなくてもいいでしょうに)
それなのに、その素っ気なさが、かえって彼らしくて。
わたしは紙の端を指でなぞりながら、口元が緩むのを抑えられなかった。
「来られるなら来い」。命令のようでいて、その実、こちらに選ばせている。来なくてもいい、と逃げ道を残している。寡黙な人ほど言葉の置き方に本心が滲むものだ。
「お嬢様、また百面相をなさっていますよ」
紅茶を運んできたローザが呆れたように言う。
「干し杏がそんなに嬉しいんですか。さっきから、包みを眺めては、にやにやして」
「……ええ。とても、美味しそうだから」
苦しい言い訳だった。
ローザは「はあ、さようでございますか」と気のない返事をして、けれど深くは詮索しなかった。
この距離感が本当にありがたい。
干し杏は本当に美味しかった。
一粒だけ口に含んで、甘い果肉を舌の上で転がしながら、わたしは新月までの日数を指で数えた。
(あと、四日)
数えている自分に気づいて、また苦笑する。
冬至の大舞踏会まで残り十ヶ月の女が、男に会うまでの四日を指折り数えている。
優先順位は今日も盛大に狂っていた。
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新月までの四日間、わたしは何度も行くべきか迷った。
敵国の皇子と人目を忍んで会う。
露見すれば、わたしの首が飛ぶ。
理屈で言えば、行かない方が千倍も安全だ。
情報交換など、ヤコブの密書だけで事足りる。
顔を合わせる必要なんて本当はない。
(……本当に、ない?)
だが、情報のためだと言い張りながら、わたしの足は、もう新月の夜に向かって勝手に準備を始めていた。
地味な外套を、こっそり用意して。
結局、慎重さというものは、恋の前では、あっさり敗北するらしい。
新月の夜。
わたしは平民の娘が着るような地味な外套を被って屋敷を抜けた。
ローザにだけ「夜風に当たってくる」と告げて。
彼女は何か言いたげな顔をしたけれど、結局、ランプの油を足してくれただけだった。
「お気をつけて」と、一言だけ添えて。
詮索しない代わりに案じてはいるのだ。
その心遣いが胸に染みた。
打ち捨てられた礼拝堂は月のない夜にはいっそう静かだった。
割れた天窓から星明かりだけが細く落ちている。
崩れた祭壇が冬を思わせる色で鈍く光っていた。
彼は先に来ていた。
「来たな」
低い声。
それだけで、胸の奥がことりと音を立てる。
暗がりの中でも、その立ち姿は、すぐ彼だと分かった。
「殿下こそ。皇子ともあろう方が、護衛も連れずに敵国の礼拝堂とは。危機管理がなっていませんわ」
「お前に言われたくない」
ぴしゃりと返された。
けれど、その声に棘はない。
むしろ、どこか面白がるような響きが混じっていた。
「敵地の真ん中で、敵国の令嬢と二人きり。皇子としては、こちらの方が、よほど危機管理がなっていない気がしますけれど」
「言うな。——お前が、来ると思った」
ぽつりと付け足された一言に、わたしは返す言葉を失う。
来ると思った。
それはつまり、彼も、わたしが来ることを待っていたということで。
(……あ。今の、ちょっと、会話になってる)
倉庫街で再会したときの、あの張り詰めた空気が少しだけ薄れている。
敵同士。
それは変わらない。
けれど、二人の間に、ほんの少しだけ息のしやすい何かが生まれていた。
「座らないのか」
エリアスが、崩れた長椅子の埃を払った一角を示した。
さりげなく、わたしが座れる場所を先に整えてくれている。
そういうところだ。
この人がずるいのは。
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その夜、わたしたちは「情報」を交換した。
わたしは、ベルントと掴んだ帳簿の歪み——軍需の支出が、戦の前から膨らんでいること。
エリアスは帝国の国境守備隊に、本来の指揮系統とは別の命令が流れている気配があること。
互いに全部は明かさない。
切れるカードから、一枚ずつ。
それが、危なっかしい同盟の正しい歩幅だと、二人とも分かっていた。
それでも、繋ぎ合わせると輪郭が見えてくる。
両国のどこかに、戦を「起こそうとしている」者がいる。
それも、おそらく、両国にまたがって。
一本の糸が国境を越えて伸びている。
「……お前の読みは、速く鋭いな」
帳簿の話を聞き終えて、エリアスがぽつりと言った。
「数字の歪みから、利権の流れまで一息に辿る。普通の令嬢には、できない」
「あら。また、褒めてくださっているのですか」
「事実を、言っている」
そっぽを向きながら言うものだから、褒めているのか照れているのか、判然としない。
たぶん、両方だ。
(この人、たまにこういう不意打ちをしてくる。寡黙なくせに、言葉の選び方が、妙に直球で)
頬が勝手に熱くなる。
星明かりの薄さが今夜ばかりはありがたかった。
「殿下こそ」わたしは、咳払いで体勢を立て直す。「守備隊の不審な命令、よく気づかれましたね。普通なら、見過ごす些細な綻びでしょうに」
「……兄の差し金だ。見過ごせば、民が死ぬ」
ぽつりと、それだけ。
彼はそれ以上、言わなかった。
けれど、「兄」という一語に、ほんのわずか、声が硬くなったのを、わたしは聞き逃さなかった。
無理に聞き出すつもりはない。
手の内を一度に全部見せ合う関係は脆い。
少しずつ、互いの覚悟を測りながら。
それでいい。
「……一つ、聞いても?」わたしは慎重に言葉を選んだ。「あなたは、なぜ戦を止めたいのですか。皇子なら、武勲を立てて地位を盤石にする道もあるでしょうに」
エリアスは、しばらく黙っていた。
割れた天窓から落ちる星明かりが、彼の横顔を淡く照らしていた。
「……子どもの頃、国境の村を見た」
ぽつりと、彼が語り始めた。
珍しく、自分から。
「前の戦で焼かれた村だ。焦げた畑。痩せた子ども。誰も武勲の話などしていなかった。ただ、飢えていた。——あれを、もう一度起こす? 何のためだ。誰かの、虚栄のために?」
その声に怒りはなかった。
あったのは、深い疲れのような哀しみ。
(……ああ。この人は、本当に見ているんだ。瓦礫の下の一人一人を)
胸の奥が、温かく締めつけられた。
戦を「数字」で語る為政者が多い中で、彼は、焦げた畑と痩せた子どもを覚えている。
それだけで、わたしは、この人を信じたいと思ってしまった。
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別れ際。
「殿下。次は、いつ」
つい、口走ってから、しまったと思った。
あまりに性急すぎる。
まるで、次を心待ちにしているような。
——いえ、心待ちにしているのだけれど。
エリアスは、一瞬わたしを見た。
それから、外套の内側から小さな包みを取り出した。
「……干し杏だ。お前が、好きだと聞いた」
「え」
ヤコブだ。
あの口の軽い行商人が、わたしが包みを喜んでいたことを、しっかり彼に伝えていたらしい。
後で締めておかなければ。
——いや。
後で、お礼を言っておかなければ。
差し出された包みを受け取るとき、彼の指先が、ほんの一瞬、わたしの手のひらに触れた。
冷えた夜気の中で、その一点だけがやけに熱かった。
骨ばった、けれど思いのほか温かい指。
剣を握る手の、硬い感触。
それが離れていくとき、名残のように、わたしの手のひらに熱だけが残った。
「……次の連絡を、待て」
それだけ言って、彼は背を向けた。
外套の裾が夜気を払う。
「待ちます」わたしは、その背に言った。「次の新月まで、ちゃんと待っています。だから——あなたも無事でいてください」
彼の歩みが、一瞬だけ止まった。
けれど、振り返らない。
そういう人だ。
わたしは、手のひらに残った干し杏の包みと指先の熱を、両方とも、そっと握りしめた。
「殿下」わたしは、去りかけた背に声をかけた。「……今夜は、来てよかったです」
エリアスは足を止めた。
けれど、振り返らなかった。
背を向けたまま、ほんの少しだけ、間を置いて。
「……ああ」
それだけ言って彼は夜の闇へ消えていった。
たった一音の返事。
けれど、その「ああ」が、「わたしも来てよかった」、と言っているように聞こえたのは——わたしの、都合のいい願望だろうか。
いや。
寡黙なこの人の「ああ」には、いつも言葉にされない続きがある。
それを聞き取る術を、わたしは少しずつ覚え始めていた。
会うたびに距離が縮んでいく。
怖いほどの速さで。
引き返すなら、今のうちなのに。
足が、心が、まるで言うことを聞かない。
冬至の大舞踏会——わたしが断罪されるはずの日まで、十ヶ月。
その日までに火種を断たねばならないのに。
冬なのに、汗をかくほどに頬が熱かった。
次の投稿は8/13の12:40となっておりますm(__)m




