第10話「平民の娘と、行商人の一日」
第10話「平民の娘と、行商人の一日」
「変装、ですか」
わたしが思わず声を上げたのは、その日の密書に、こうあったからだ。
『王都の市に宰相派の動きを探りに行く。手は多い方がいい。お前も来い。ただし——令嬢の顔は置いてこい』
つまり。
敵国の皇子と二人で市に潜入しろと。
それも、お互い素性を隠して。
(……これはもう、密会では? いえ、情報収集です。あくまで、情報収集。仕事です。仕事)
自分に三回ほど言い聞かせて、それでも頬が緩むのを止められなかった。
仕事だと言い張る声が、自分でも白々しい。
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待ち合わせは、王都の大市場の噴水の前。
わたしは、ローザに借りた地味な木綿の服を着て亜麻色の髪を布で隠した。
鏡の中は、どこにでもいる平民の娘。
これなら、誰も公爵令嬢だとは思うまい。
そばかすが、今日ばかりはちょうどいい変装になった。
噴水の前に、もう彼がいた。
——けれど、一瞬、誰だか分からなかった。
いつもの仕立てのいい外套ではない。
くたびれた商人風の上着。
荷袋を肩にかけ、髪も無造作に崩している。
背を丸め、気配を殺して。
あの皇子の威風を見事に消していた。
「……エリ、様?」
近づいて小声で呼ぶ。
彼が振り返って、わたしを上から下まで、ちらりと見た。
その視線が、なぜか、いつもより長く留まった気がした。
「……令嬢には、見えん」
「それは、褒め言葉と受け取っておきます」
「褒めた」
さらりと言われて、また心臓が跳ねた。
この人の不意打ちは本当に予告がない。
寡黙なくせに、要所で直球を投げてくる。
「今日は、行商人のエリだ。お前は……妹、ということにしておく。田舎から出てきた市見物の妹だ」
「妹、ですか」
(……無難な設定ね。無難、なはずなのに。なんで少しだけ、残念に思うのかしら、わたしは)
「ええ。兄さん。よろしくお願いします」
わざと砕けた口調で言ってみる。
エリアスの目が、ほんの一瞬、面白がるように細められた。
冷たく見える顔の奥に、こういう茶目っ気が隠れているのを、たぶん帝国の誰も知らない。
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市場は、春の到来を想起させるがごとく、雑踏と活気で溢れていた。
野菜の山。
香辛料の匂い。
布地を広げる商人の呼び込み。
鶏の鳴き声。
串焼きの煙。
子供が母親の手をすり抜けて駆けていく。
わたしたちは、肩を並べて人混みに紛れた。
表向きは、市を冷やかす兄妹。
その実、宰相派が市井に流している噂の出どころを二人で探っていた。
人波に押されて、ふいに肩が触れる。
とっさに離れようとしたわたしの腕を、エリアスが、さりげなく自分の側へ引き寄せた。
「逸れるな。迷子の妹を探すのは面倒だ」
「……はい、兄さん」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その手は、人混みからわたしを庇うように、ずっと添えられていた。
雑踏の喧騒の中で、その手のひらの位置だけが、やけに意識される。
荷車が、すぐ脇を勢いよく通り過ぎた。
とっさに、彼の手が、わたしの肩を抱き寄せる。
一瞬、彼の胸に頬が触れそうになった。
布越しに体温が伝わってくる。
鼓動の速さまで伝わってきそうで。
「……すまない」
荷車が行き過ぎると、彼はすぐに手を離した。
けれど、その耳が、ほんのわずかに赤い。
雑踏のせいか、それとも。
(……今の、わざと、ではないわよね。ないわよね?)
問い詰める勇気はなく、わたしはただ、頬の熱を持て余した。
「あそこの辻を見ろ」
エリアスが低く言う。
視線で示した先に人だかり。
一人の男が声高に何か叫んでいる。
「——隣国ヴェルゴが、また国境で兵を動かしているそうだ! 我らが備えねば明日にも攻め込まれるぞ!」
煽る男。
聞き入る民。
不安げにざわめく群衆。
誰かが「やっぱりか」と呟き、誰かが舌打ちをする。
恐怖が波紋のように広がっていく。
(……出た。恐怖の種まき)
「あの男、ただの民じゃありません」わたしは囁いた。「服は粗末だけど靴が新しい。それも、上等な革の。誰かに金で雇われて、噂をばら撒いているんです。足元は嘘をつきにくい。慌てて変装した人ほど、靴を忘れるものですから」
「……それから?」
彼が低く促す。
試すような、けれど、どこか楽しんでいるような声で。
「叫ぶ内容が毎回そっくり同じです。『明日にも攻め込まれる』。即興で煽る人は、もっと言葉が散らかるもの。あの男は台本を覚えてきています。——あと、群衆が静まりかけると、すかさず次の一言を被せる。間の取り方が訓練された者のそれです」
エリアスが、わずかに目を見開いた。
それから、感心したように、わたしを見た。
「……よく、見ている」
「観察は、癖なんです。誰かさんと、同じで」
庭園での、彼の言葉をなぞって返す。
エリアスが、虚を突かれたように、ふっと息を漏らした。
それは笑みに限りなく近かった。
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昼を過ぎて、わたしたちは小さな屋台で串焼きを買った。
「ほら」
エリアスが、串を一本、わたしに差し出す。
さも当然のように。
「……いいんですか」
「兄が妹に焼き串を買う。何もおかしくない」
理屈はその通りだった。
けれど、彼の手から串を受け取るとき、わたしはなぜか、ひどく緊張した。
噴水の縁に並んで腰かけ、二人で串焼きを齧る。
皇子と令嬢が、平民の格好で、王都の雑踏の真ん中で。
おかしな話なのに、こんなにも心が凪いでいる。
肩が触れそうな距離が、不思議と怖くなかった。
「殿下は」つい、聞いてしまう。「こういう場所に、来たことが?」
「ない」彼は串焼きを見つめた。「帝都ではありえない。皇子が、市で焼き串を齧るなど。毒見の済んでいないものを口にすることすら許されない」
「……それは、窮屈ですね」
「慣れている」
短く言って、彼はもう一口齧った。
その横顔が、いつもより少しだけ幼く見えた。
張り詰めた仮面が、雑踏の温もりに、わずかに溶けている。
日の光の下で見る彼は、夜の礼拝堂で見るより、ずっと生身の人間だった。
「美味い」
ぽつりと、彼が言った。
意外そうに。
まるで、そんな単純なものが美味いと感じる自分に驚いているみたいに。
「帝都の宴では、もっと豪華なものを召し上がるのでしょうに」
「あんなものは、味がしない」彼は串を見つめた。「毒見と作法と駆け引き。皿の上のものより、誰がどんな顔で食べているかを、ずっと気にしている。……飯を、飯として食ったのは、いつ以来か」
その横顔に、ふと、影が差した。
生まれたときから、すべてを疑い、すべてを計算して生きてきた人。
一本の焼き串すら、彼にとっては、初めての「ただの食事」なのかもしれない。
「では、今日は、たくさん召し上がってください。ここでは、誰もあなたの皿を見ていません。わたし以外は」
そう言うと、エリアスは、ほんの少し目を瞠った。
それから、串をもう一本、屋台で買い足した。
今度は何も言わずに。
一本をわたしに差し出して。
その横顔を見て、わたしの胸の奥が、ちりっとした。
(……この人の、こんな顔。きっと、誰も知らない)
わたしだけが知っている。
そう思いたがる自分がいる。
さっき噂を煽っていた男のことも、亡国のことも、一瞬、頭から抜け落ちた。
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帰り際。
市場の外れ、人気の少ない路地で。
「今日の収穫は大きいです」わたしは言った。「噂の出どころが宰相派の金で動いていること。火種の在り処が、また一つ絞れました。では、わたしはこのあたりで。一緒に帰ると目立ちますから」
踵を返そうとしたとき。
「ヴィオラ嬢」
呼び止められた。
振り返ると、エリアスが何か言いかけて——止めた。
「……いや。気をつけて、帰れ。日が暮れる前に」
「殿下も。——今日は、楽しかったです。妹として」
そう言うと、彼は、ほんの一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。
それから、聞き取れるか取れないかの声で、ぽつりと言った。
「……兄は、悪くなかった」
その不器用な返しに、わたしは思わず笑ってしまった。
それだけのやり取り。
なのに、別れた後もずっと、彼が何を言いかけたのか考えてしまう。
(言いかけて飲み込む。あの人の悪い癖。……でも、その「飲み込んだ何か」が、いつも気になって仕方ない)
平民の娘の格好のまま、わたしは夕暮れの道を歩いた。
串焼きの味、人混みから庇ってくれた手のひらの位置、彼の隣の温もりが、まだ消えずに残っていた。
今日一日、わたしたちは「兄妹」だった。
偽りの兄弟。
けれど、確かに二人だけの一日。
こんな日が、もう一度あればいい。
そう願ってしまう自分を、もう止められなかった。
ふと、考える。
もし、敵同士でなかったら。
もし、わたしが公爵令嬢で、彼が敵国の皇子でなかったら。
今日みたいな日を、堂々と何度でも過ごせたのだろうか。
市を歩いて、串焼きを分け合って、くだらないことで笑い合って。
(……詮無いこと、ね)
ありえない「もし」を数えるのは、わたしの悪い癖だ。
最悪を想定するのが仕事だったくせに、彼のことになると、つい、ありえない最善を夢見てしまう。
それでも、その夢の温もりを、今日だけは抱きしめていたかった。
冬至の大舞踏会まで、九ヶ月。
けれど今日だけは、砂時計の音が少しだけ遠かった。
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