第11話「清らかな、旗印」
第11話「清らかな、旗印」
異変に気づいたのは、社交界の茶会でのことだった。
宰相派の奥方がたが、やけに熱心に一人の少女を囲んでいる。
栗色の髪の可憐な令嬢。
フローラ・ベルク。
原作のヒロインである。
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「まあ、フローラさん。あなたのその清らかさは、まるで国の宝のようね」
「市井の人々にも、慕われていらっしゃるとか。なんて健気なこと」
「ぜひ、今度の慈善の催しに、あなたを。あなたのような清純な方が、表に立ってくだされば、皆も安心しますわ」
奥方がたが、口々にフローラを称賛する言葉を発する。
蜜のように甘い。
けれど、その笑顔の奥に、わたしは別の温度を感じ取った。
品定めをする商人の目。
何かに「使える」かどうかを、値踏みする目だ。
当のフローラは、戸惑った顔で頬を染めていた。
「そんな……わたし、何もしていませんのに。皆さんに、よくしていただいて、嬉しいです」
純真な笑顔。
誰も疑わない、まっすぐな瞳。
——それを見て、わたしの背筋に冷たいものが走った。
(……これは)
あまりに、お膳立てが整いすぎている。
宰相派の奥方がたが、なぜ今、後ろ盾もない男爵令嬢一人をこうも持ち上げるのか。
「清らかな国の宝」。「市井に慕われる健気な少女」。その言葉の並びに嫌な既視感があった。善意の象徴を一つ祭り上げ、それを旗印に、人の心を一つの方向へ動かす手口。
清純な少女が「戦の犠牲者を悼む」絵姿になれば。
その涙が「隣国への怒り」を煽る道具になれば。
何も知らないまま、この子は、戦争へ人を駆り立てる旗印にされる。
(……まさか。フローラ様を戦争の旗印にする気?)
そう考えて、ぞっとした。
けれど、繋ぎ合わせれば合わせるほど、筋が通ってしまう。
重税。
煽られる恐怖。
市井で雇われた、噂をばら撒く男。
そして——清純な象徴。
すべてが、一つの絵を描くための、絵の具に見えてきた。
その夜、わたしはローザに、それとなく探りを入れた。
市井で、フローラの名がどう語られているか。
「ベルクのお嬢様、ですか? ええ、評判はいいですよ」ローザは夜の支度をしながら答えた。「貧しい子に施しをなさったとか、病人を見舞われたとか。そういう話が、近頃やけに、あちこちで聞こえるようになりましたね」
ことり、と。
わたしの胸が、また鳴った。
(……同じ褒め方で、ね)
恐怖の噂を流したのと同じ手口。
誰かが、意図して、フローラの「清らかさ」を、市井に刷り込んでいる。
善き象徴を、人々の心に植えつけてから——いつか、それを憎しみの旗に掲げるために。
「ローザ。その話、誰が広めているか、分かる?」
「さあ……気づいたら、広まっていた、という感じで。井戸端でも、酒場でも。出どころは、はっきりしませんねえ」
出どころがはっきりしない。
それこそが、仕組まれた噂である何よりの証だった。
自然に湧いた評判には、必ず最初の語り手がいる。
それが見えないということは——意図的に見えなくされている。
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茶会の翌日。
わたしは、フローラにさりげなく近づいた。
「フローラ様。先日の催しのお話、お受けになるのですか」
「あ、ヴィオラ様……! はい、たぶん。皆さんが、ぜひにと仰ってくださって。わたしなんかで、お役に立てるなら、嬉しいです」
無垢な笑顔。
この子は何も知らない。
自分がどんな絵の中に組み込まれようとしているのか。
原作で、わたしはこの子を妬み、いじめる役だった。
取り巻きに焚きつけられ、流されるまま、悪役に仕立てられて。
けれど今のわたしには、この子が「敵」には見えなかった。
むしろ——崖っぷちで、何も知らずに笑っているように見えた。
「フローラ様。一つだけ、覚えておいてくださいませ」
わたしは、できるだけ穏やかに言った。
脅かさないように。
けれど、心に残るように。
「誰かがあなたを褒めるとき。その褒め言葉が、誰の得になるのか。一度だけ、立ち止まって考えてみて。……あなたの清らかさは、本物です。だからこそ、それを利用しようとする人もいる」
フローラは、きょとんとした。
意味を、半分も分かっていない顔だ。
長い睫毛を、ぱちぱちと瞬かせて。
それでいい。
今は種を蒔くだけ。
いつか、この子が自分で気づくための小さな種を。
芽吹くかどうかはこの子次第。
けれど、種がなければ、芽吹きようもない。
災いは、いつだって備えた者の前でだけ、勢いを失う。
それも、わたしが嫌というほど知っていることだった。
「ヴィオラ様って……不思議な方ですね」フローラが小首をかしげた。「わたし、ずっと嫌われていると思っていました。だって、ロデリック様の婚約者で。……でも今日のヴィオラ様、なんだか、あったかいです」
その素直さに、不覚にも胸が詰まった。
(……ごめんなさいね、フローラ様。原作のわたしは、あなたをひどい目に遭わせる役だった。でも、今度のわたしは、あなたの盾になる。それだけは約束する)
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その夜。
わたしは密書をしたためた。
新月以来、二度目の文だ。
フローラのこと。
宰相派が、清純な少女を旗印に、戦争の世論を作ろうとしている疑いがあること。
彼の国でも、似た動きがないか、探ってほしいこと。
羽根ペンを走らせながら、ふと、手が止まる。
これらのことについて、直接話をしたいこと。
気づいてしまったのだ。
これは、報告であると同時に——「会う口実」でもあるのだと。
(……我ながら、現金。フローラ様の危機を、彼に会う言い訳に使っているのだから)
少しだけ後ろめたい。
けれど、情報の共有は本当に必要なことだ。
フローラを守るためにも、火種を辿るためにも。
嘘ではない。
嘘では、ないのだ。
——そう、何度も自分に言い聞かせて、わたしは便箋に、いつもより一行だけ、多く書いた。
『あなたの国でも、お気をつけて』と。
用件には、関係のない一行を。
干し杏の油紙に、二度たたんだ密書を忍ばせる。
ヤコブの商隊が、これを、彼のもとへ運ぶ。
返事は三日後に来た。
『よく、気づいた。詳しく聞きたい。次の新月に同じ場所で』
短い文。
けれど、その「よく、気づいた」の四文字を、わたしは何度も読み返した。
指で、何度もなぞった。
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新月の夜。
礼拝堂で、わたしはフローラのことを、詳しく話した。
宰相派が、清純な少女を旗印に祭り上げ、戦の世論を作ろうとしていること。
市井に、不自然な「美談」が刷り込まれていること。
エリアスは、腕を組んで、静かに聞いていた。
聞き終えると低く言った。
「……帝国でも、似た動きがある」
「え?」
「『ライエルに虐げられた、哀れな国境の民』。そういう絵が帝都で出回り始めている。誰が描かせているのか、出どころは、はっきりしない」
ことり、と。
わたしの中で、二つの絵が重なった。
ライエルの「清らかな少女」。
帝国の「哀れな民」。
両国で、同時に、憎しみを煽る絵が、用意されている。
「……対になっている」わたしは呟いた。「両国で、同じ手口。同じ時期に。これは、偶然じゃない」
「ああ。糸を引いている者は——両国に、またがっている」
二人の視線が、暗がりの中でぶつかった。
同じ結論に同時に辿り着いた。
その瞬間の奇妙な高揚。
共犯者だけが分かち合える、ぞくりとする一体感。
「フローラ嬢を、守りたいのだな」エリアスが、ふいに言った。
「……ええ。あの子は、何も知らずに、利用されようとしている。見過ごせません」
「関わりも多くない令嬢を守ろうとするのか。お前にとって、得にもならんだろうに」
「得とか、損とかじゃ、ないんです」わたしは、まっすぐ彼を見た。「困っている人を、見過ごせない。ただ、それだけ」
エリアスは、しばらく、わたしを見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お前のそういうところは。嫌いではない」
不意打ちの一言に、わたしの頬がまた熱くなる。
暗がりがありがたかった。
「嫌いではない、って」わたしは、動揺を隠すように、わざと軽口を返す。「殿下の語彙では、それは、どのくらいの褒め言葉なのですか」
「……からかうな」
「からかっていません。気になるから聞いているんです」
エリアスは、虚を突かれたように、わずかに目を見開いた。
それから、ふいと顔を背けた。
「……かなり上の方だ」
ぽつり、と。
あまりに正直な答えに、今度はわたしが言葉を失った。
(……だから、ずるいんですってば。この人は)
会う口実が、また一つできてしまった。
心のどこかが、それを喜んでいる。
残り、九ヶ月。
感謝祭——宰相がフローラを「清らかな旗印」としてお披露目しようとしている、その日が刻々と近づいている。
陰謀の影が、皮肉にも、わたしと彼を、また一歩、近づけていた。
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