第12話「知らない名前が、胸を刺す」
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第12話「知らない名前が、胸を刺す」
その噂を聞いたのは、ヤコブの何気ない世間話の中でだった。
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「いやあ、帝都も賑やかなもんでしてね」
干し杏の補充がてら、ヤコブと屋敷で世間話をしていた。
「第二皇子殿下に、縁談が持ち上がってるとか。お相手は帝国でも指折りの名家のご令嬢で。なんでも、たいそうな美人だそうで」
ことり、と。
わたしの手から、ティーカップが滑り落ちかけた。
慌てて、受け皿で受け止める。
「……縁談?」
「へえ。皇子ともなりゃ、当然でしょう。あちらさんは、後継争いも絡んでますからね。第二皇子に強い後ろ盾がつけば、第一皇子も無視できなくなる。そういう、政略ってやつで。まあ、貴いお方の結婚なんざ、たいてい盤上の駒の話でさあ」
ヤコブは、何の気なしに話している。
わたしの心臓が、変な音を立てたことには気づいていない。
「……そのお話、確かなの?」
「さあ、噂は噂で。ただ、帝都じゃ、もっぱらの評判でしてね。あちらのご令嬢がたが、こぞって色めき立ってるとか。なにせ、第二皇子殿下は、冷たそうな顔して、見た目はたいそうな男ぶりだそうで」
知っている。
冷たそうな顔の、その奥を。
誰よりも、わたしが。
——けれど、それを口にできる立場にわたしはいない。
「……そう。それは、おめでたい話ね」
声が平坦になった。
我ながら棒読みだった。
ヤコブが補充を終えて去った後も、わたしはしばらく動けなかった。
冷めていく紅茶の水面を、ただ見つめていた。
その日は何をしても手につかなかった。
ベルントから届いた帳簿に目を通そうとしても、数字が頭を素通りする。
ローザが話しかけても生返事ばかり。
挙げ句、いつもなら一目で見抜く帳簿の矛盾を、二度も見落とした。
「お嬢様、今日はどこか、お加減が悪いのですか?」
ローザに心配されて、わたしは慌てて取り繕った。
「いいえ。少し考え事を」
考え事。
たいそうなものではない。
ただ——顔も知らない、帝国の令嬢のことを、考えていただけ。
それだけのことで、わたしの一日は見事に役立たずになっていた。
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夜。
寝台に入っても目が冴えて眠れない。
(……何を、動揺しているの、わたしは)
エリアスは敵国の皇子。
第二皇子。
縁談の一つや二つ、あって当然だ。
むしろ、ない方がおかしい。
政略結婚は、貴族の——ましてや皇族の——当たり前の務め。
わたしだって、政略でロデリックの婚約者にされている。
同じことだ。
頭では、完璧に理解できる。
理解できるのに。
「たいそうな美人」。「指折りの名家の令嬢」。その、顔も知らない令嬢の影が、胸の真ん中に棘のように刺さって抜けない。
その令嬢は、わたしと違って、堂々と彼の隣に立てる。
素性を隠す必要も、夜の礼拝堂で人目を忍ぶ必要もなく。
陽の当たる場所で彼の名を呼べる。
(あの人の隣に、わたしの知らない誰かが立つ。当然のことなのに。なんで、こんなに……嫌、なんだろう)
ちりっ、と。
胸の奥がまた焦げる。
ああ、これは。
この感覚に、本当は名前があることを、わたしは知っていた。
知っていて、ずっと認めずにいただけだ。
——嫉妬。
「……最低ね、わたし」
そもそも、わたしには嫉妬する資格なんてない。
一片の愛もない政略の婚約者が、自分にはいるくせに。
敵国の皇子の縁談に胸を焦がすなんて、滑稽を通り越して、悲惨だった。
それでも、胸の棘は、理屈では抜けてくれない。
考えてみれば、答えは単純だ。
わたしは、彼のことを、ほとんど何も知らない。
彼の国での暮らしも、彼を取り巻く人々も。
その「知らない部分」に、見知らぬ令嬢が、するりと入り込んでくる——それが、たまらなく悔しいのだ。
(……ああ、もう。これじゃ、ただの、欲張りな女だわ)
それでも、その欲は消えてくれなかった。
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次の新月。
礼拝堂で会ったとき、わたしは、自分でも嫌になるほど、ぎこちなかった。
「殿下。お変わり、ありませんか」
「……ない」
エリアスは、わたしの様子に、すぐ気づいたようだった。
彼は、こちらの感情の機微を読むのが、おそろしく上手い。
会った瞬間、その琥珀の瞳が、わたしの顔を、すっとなぞった。
何かを探るように。
「お前、今日は、目を合わせないな」
「そんなこと、ありません」
「ある」
短く断じられた。
図星だった。
わたしは、観念して、顔を上げた。
聞くつもりなんて、なかったのに。
口が勝手に動いていた。
「……縁談が、おありだとか。帝国の、名家のご令嬢と」
言ってしまってから、心臓が嫌な音を立てた。
なんて、ぶしつけな。
これでは、まるで——気にしている、と白状したようなものだ。
淑女として、最低の踏み込みだった。
エリアスは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「……兄が、進めている話だ。わたしの意思では、ない」
「でも、お受けになるのでしょう。後ろ盾が必要なのでしょう?」
「受けるつもりは、ない」
きっぱりと。
彼は言い切った。
一片の迷いもなく。
「政略のための婚姻に、興味はない。後ろ盾なら、別の方法で得る。それに——」
そこで、彼は言葉を止めた。
わたしは、息を詰めて、続きを待った。
彼の横顔。
月光に縁取られた、その唇が、何かを言おうとして、わずかに動く。
「それに?」
わたしが促すと、エリアスは、ふいに目を逸らした。
月明かりの中でも、その耳がわずかに強張ったのが分かった。
「……いや。何でもない」
また、それだ。
言いかけて飲み込む、彼の悪い癖。
けれど、今日ばかりは、その「飲み込んだ何か」が、わたしの胸を、温かく満たした。
受けるつもりはない、と言ってくれた。
それだけで、刺さっていた棘が、すっと抜けていく気がした。
(……単純ね、わたし。彼の一言で、こんなに心境が変わってしまうなんて)
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別れ際。
彼が、ぽつりと言った。
「お前こそ」
「え?」
「婚約者が、いるそうだな。宰相の、息子の」
今度は、わたしが言葉に詰まる番だった。
彼も、わたしのことを探っていたのだ。
「……ただの、政略の婚約です。一片の情も、ありません。むしろ、近いうちに、向こうから破棄してくれる予定で。あの人は、別の令嬢に夢中ですから」
「そうか」
エリアスの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
彼は、それ以上、何も言わなかった。
けれど、その短い「そうか」に、わたしと同じ色の——名前のつかない、ざらりとした感情が滲んでいた気がして。
わたしが彼の縁談に焦がれたように、彼もまた、ロデリックの名に何かを感じたのだろうか。
「その婚約者は」エリアスが、ふいに口を開いた。「お前を、大切にしているのか」
問いの形をしていたけれど、答えは、もう知っているような声だった。
試すような響きすら、滲んでいた。
「……いいえ。一度も」
正直に答える。
隠す理由もなかった。
「あの人の目に、わたしは映ったことすら、ないと思います。婚約してから三年、贈り物の一つも、優しい言葉の一つも、もらったことがありません。彼が見ているのは、いつだって、別の令嬢の方ですから」
そう答えると、エリアスの眉が、わずかに動いた。
怒りとも、呆れとも、つかない表情。
彼は、低く、吐き捨てるように言った。
「……愚かな男だ」
たった一言。
けれど、その声には、抑えきれない何かが滲んでいた。
わたしのために、わたしの婚約者を、愚かだと断じる。
それが何を意味するのか、考えるだけで、心臓が痛いほど鳴った。
(……まさか、ね。この人も?)
確かめる勇気はなかった。
確かめてしまったら、もう引き返せなくなる気がして。
それでも。
帰り道の夜風は、来たときより、ずっと軽かった。
「受けるつもりはない」。
その一言が、まだ胸の真ん中で温かく灯っていた。
ふと、足を止めて、夜空を見上げる。
新月の星だけが冴える空。
(……わたしたち、似た者同士ね)
お互いに、望まぬ相手との縁談や婚約を抱えて。
お互いに、それを「受けるつもりはない」と思っていて。
そして、お互いの「隣にいる誰か」に、こっそり胸を焦がしている。
笑ってしまう。
敵国の皇子と悪役令嬢が。
同じ夜空の下で、同じ不器用な嫉妬を抱えているなんて。
物語なら、嫉妬は悪役令嬢の専売特許のはずだった。
ヒロインを妬み、取り乱し、みっともなく崩れる——それが、原作のわたしの役どころ。
なのに今のわたしは、敵国の皇子の縁談相手に、ひっそりと胸を焦がしている。
妬む相手も、妬み方も、何もかも原作とは違う形で。
(……この気持ちには、どう向き合うのが正解なのかしら)
この気持ちを声に出したら変わるのだろうか。
けれど、伝えたが最後、もう後戻りできなくなる。
分かっているから、わたしはまだ、その名前を口にできずにいた。
残り、八ヶ月。
お互いの「隣にいる誰か」が、二人の間に見えない火花を散らしていた。




