表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/18

第12話「知らない名前が、胸を刺す」

本日の投稿は終了となります。

次の投稿は8/18の12:40となっておりますm(__)m

第12話「知らない名前が、胸を刺す」



その噂を聞いたのは、ヤコブの何気ない世間話の中でだった。


---


「いやあ、帝都も賑やかなもんでしてね」


干し杏の補充がてら、ヤコブと屋敷で世間話をしていた。


「第二皇子殿下に、縁談が持ち上がってるとか。お相手は帝国でも指折りの名家のご令嬢で。なんでも、たいそうな美人だそうで」


ことり、と。


わたしの手から、ティーカップが滑り落ちかけた。


慌てて、受け皿で受け止める。


「……縁談?」


「へえ。皇子ともなりゃ、当然でしょう。あちらさんは、後継争いも絡んでますからね。第二皇子に強い後ろ盾がつけば、第一皇子も無視できなくなる。そういう、政略ってやつで。まあ、貴いお方の結婚なんざ、たいてい盤上の駒の話でさあ」


ヤコブは、何の気なしに話している。


わたしの心臓が、変な音を立てたことには気づいていない。


「……そのお話、確かなの?」


「さあ、噂は噂で。ただ、帝都じゃ、もっぱらの評判でしてね。あちらのご令嬢がたが、こぞって色めき立ってるとか。なにせ、第二皇子殿下は、冷たそうな顔して、見た目はたいそうな男ぶりだそうで」


知っている。


冷たそうな顔の、その奥を。


誰よりも、わたしが。


——けれど、それを口にできる立場にわたしはいない。


「……そう。それは、おめでたい話ね」


声が平坦になった。


我ながら棒読みだった。


ヤコブが補充を終えて去った後も、わたしはしばらく動けなかった。


冷めていく紅茶の水面を、ただ見つめていた。


その日は何をしても手につかなかった。


ベルントから届いた帳簿に目を通そうとしても、数字が頭を素通りする。


ローザが話しかけても生返事ばかり。


挙げ句、いつもなら一目で見抜く帳簿の矛盾を、二度も見落とした。


「お嬢様、今日はどこか、お加減が悪いのですか?」


ローザに心配されて、わたしは慌てて取り繕った。


「いいえ。少し考え事を」


考え事。


たいそうなものではない。


ただ——顔も知らない、帝国の令嬢のことを、考えていただけ。


それだけのことで、わたしの一日は見事に役立たずになっていた。


---


夜。


寝台に入っても目が冴えて眠れない。


(……何を、動揺しているの、わたしは)


エリアスは敵国の皇子。


第二皇子。


縁談の一つや二つ、あって当然だ。


むしろ、ない方がおかしい。


政略結婚は、貴族の——ましてや皇族の——当たり前の務め。


わたしだって、政略でロデリックの婚約者にされている。


同じことだ。


頭では、完璧に理解できる。


理解できるのに。


「たいそうな美人」。「指折りの名家の令嬢」。その、顔も知らない令嬢の影が、胸の真ん中に棘のように刺さって抜けない。


その令嬢は、わたしと違って、堂々と彼の隣に立てる。


素性を隠す必要も、夜の礼拝堂で人目を忍ぶ必要もなく。


陽の当たる場所で彼の名を呼べる。


(あの人の隣に、わたしの知らない誰かが立つ。当然のことなのに。なんで、こんなに……嫌、なんだろう)


ちりっ、と。


胸の奥がまた焦げる。


ああ、これは。


この感覚に、本当は名前があることを、わたしは知っていた。


知っていて、ずっと認めずにいただけだ。


——嫉妬。


「……最低ね、わたし」


そもそも、わたしには嫉妬する資格なんてない。


一片の愛もない政略の婚約者が、自分にはいるくせに。


敵国の皇子の縁談に胸を焦がすなんて、滑稽を通り越して、悲惨だった。


それでも、胸の棘は、理屈では抜けてくれない。


考えてみれば、答えは単純だ。


わたしは、彼のことを、ほとんど何も知らない。


彼の国での暮らしも、彼を取り巻く人々も。


その「知らない部分」に、見知らぬ令嬢が、するりと入り込んでくる——それが、たまらなく悔しいのだ。


(……ああ、もう。これじゃ、ただの、欲張りな女だわ)


それでも、その欲は消えてくれなかった。


---


次の新月。


礼拝堂で会ったとき、わたしは、自分でも嫌になるほど、ぎこちなかった。


「殿下。お変わり、ありませんか」


「……ない」


エリアスは、わたしの様子に、すぐ気づいたようだった。


彼は、こちらの感情の機微を読むのが、おそろしく上手い。


会った瞬間、その琥珀の瞳が、わたしの顔を、すっとなぞった。


何かを探るように。


「お前、今日は、目を合わせないな」


「そんなこと、ありません」


「ある」


短く断じられた。


図星だった。


わたしは、観念して、顔を上げた。


聞くつもりなんて、なかったのに。


口が勝手に動いていた。


「……縁談が、おありだとか。帝国の、名家のご令嬢と」


言ってしまってから、心臓が嫌な音を立てた。


なんて、ぶしつけな。


これでは、まるで——気にしている、と白状したようなものだ。


淑女として、最低の踏み込みだった。


エリアスは、しばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと言った。


「……兄が、進めている話だ。わたしの意思では、ない」


「でも、お受けになるのでしょう。後ろ盾が必要なのでしょう?」


「受けるつもりは、ない」


きっぱりと。


彼は言い切った。


一片の迷いもなく。


「政略のための婚姻に、興味はない。後ろ盾なら、別の方法で得る。それに——」


そこで、彼は言葉を止めた。


わたしは、息を詰めて、続きを待った。


彼の横顔。


月光に縁取られた、その唇が、何かを言おうとして、わずかに動く。


「それに?」


わたしが促すと、エリアスは、ふいに目を逸らした。


月明かりの中でも、その耳がわずかに強張ったのが分かった。


「……いや。何でもない」


また、それだ。


言いかけて飲み込む、彼の悪い癖。


けれど、今日ばかりは、その「飲み込んだ何か」が、わたしの胸を、温かく満たした。


受けるつもりはない、と言ってくれた。


それだけで、刺さっていた棘が、すっと抜けていく気がした。


(……単純ね、わたし。彼の一言で、こんなに心境が変わってしまうなんて)


---


別れ際。


彼が、ぽつりと言った。


「お前こそ」


「え?」


「婚約者が、いるそうだな。宰相の、息子の」


今度は、わたしが言葉に詰まる番だった。


彼も、わたしのことを探っていたのだ。


「……ただの、政略の婚約です。一片の情も、ありません。むしろ、近いうちに、向こうから破棄してくれる予定で。あの人は、別の令嬢に夢中ですから」


「そうか」


エリアスの声が、ほんの少しだけ、低くなった。


彼は、それ以上、何も言わなかった。


けれど、その短い「そうか」に、わたしと同じ色の——名前のつかない、ざらりとした感情が滲んでいた気がして。


わたしが彼の縁談に焦がれたように、彼もまた、ロデリックの名に何かを感じたのだろうか。


「その婚約者は」エリアスが、ふいに口を開いた。「お前を、大切にしているのか」


問いの形をしていたけれど、答えは、もう知っているような声だった。


試すような響きすら、滲んでいた。


「……いいえ。一度も」


正直に答える。


隠す理由もなかった。


「あの人の目に、わたしは映ったことすら、ないと思います。婚約してから三年、贈り物の一つも、優しい言葉の一つも、もらったことがありません。彼が見ているのは、いつだって、別の令嬢の方ですから」


そう答えると、エリアスの眉が、わずかに動いた。


怒りとも、呆れとも、つかない表情。


彼は、低く、吐き捨てるように言った。


「……愚かな男だ」


たった一言。


けれど、その声には、抑えきれない何かが滲んでいた。


わたしのために、わたしの婚約者を、愚かだと断じる。


それが何を意味するのか、考えるだけで、心臓が痛いほど鳴った。


(……まさか、ね。この人も?)


確かめる勇気はなかった。


確かめてしまったら、もう引き返せなくなる気がして。


それでも。


帰り道の夜風は、来たときより、ずっと軽かった。


「受けるつもりはない」。


その一言が、まだ胸の真ん中で温かく灯っていた。


ふと、足を止めて、夜空を見上げる。


新月の星だけが冴える空。


(……わたしたち、似た者同士ね)


お互いに、望まぬ相手との縁談や婚約を抱えて。


お互いに、それを「受けるつもりはない」と思っていて。


そして、お互いの「隣にいる誰か」に、こっそり胸を焦がしている。


笑ってしまう。


敵国の皇子と悪役令嬢が。


同じ夜空の下で、同じ不器用な嫉妬を抱えているなんて。


物語なら、嫉妬は悪役令嬢の専売特許のはずだった。


ヒロインを妬み、取り乱し、みっともなく崩れる——それが、原作のわたしの役どころ。


なのに今のわたしは、敵国の皇子の縁談相手に、ひっそりと胸を焦がしている。


妬む相手も、妬み方も、何もかも原作とは違う形で。


(……この気持ちには、どう向き合うのが正解なのかしら)


この気持ちを声に出したら変わるのだろうか。


けれど、伝えたが最後、もう後戻りできなくなる。


分かっているから、わたしはまだ、その名前を口にできずにいた。


残り、八ヶ月。


お互いの「隣にいる誰か」が、二人の間に見えない火花を散らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ