第13話「数字は、嘘をつかない」
第13話「数字は、嘘をつかない」
その日、社交界で、一人の貴族が失脚した。
宰相派の末席に連なる、子爵家の当主。
徴税の上前を、長年かすめ取っていたことが露見したのだ。
そして、その露見のきっかけを作ったのが、わたしだったことは——誰も知らない。
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ことの起こりは、ベルントの一言だった。
「この子爵、徴税の記録を改竄しています。村から取り立てた額と国庫に納めた額が合わない。差分を自分の懐に。数字は嘘をつきません。でも、この男は嘘の数字で村人から搾り取っている」
帳簿を睨むベルントの目に静かな怒りがあった。
生真面目なこの青年は、不正に対して火のように怒る。
「証拠は?」
「揃っています。ただ……わたしのような下級文官が告発したところで、揉み消されるのが関の山です。それどころか、わたしが消されかねません」
ベルントの肩が落ちる。
正しさだけでは覆せない壁。
それが宮廷だ。
正論は、力の前では、しばしば無力になる。
(……なら、わたしが覆せる形にすればいい)
直接、告発する必要はない。
「監査が自然に入る」流れを作ればいい。
誰かが告発したのではなく、たまたま綻びが見つかった、という形に。
幸い、先日の茶会で、味方になりかけた伯爵夫人がいる。
彼女の夫は財務監査に口を利ける立場だ。
わたしは、夫人にそれとなく「気になる噂」を流した。
証拠の写しは、ベルントが別々の場所に保管している。
あとは、正しい場所に、正しい順番で、情報が流れるよう、道筋を整えるだけ。
種火を、自分の手で投げ込む必要はない。
風向きだけ整えてやればいい。
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数日後。
監査が入り、子爵の不正はあっけなく暴かれた。
社交界はその話で持ちきりだった。
「あの子爵が、まさか」「宰相派も足元が綻んできたわね」「真面目な顔をして、村から搾り取っていたとは」。
わたしは、その輪の隅で淑やかに茶を飲んでいた。
何も知らぬ顔で。
(……わたしは何もしていない。ただ、転がるべき石が転がるように、地面を少しだけ傾けただけ。落ちたのは、あの方が自分で積み上げた、罪の重さのせいですわ)
ベルントが、後で、こっそり頭を下げに来た。
人目を避けた書庫の陰で。
「アッカーマン様。あなたのおかげで、搾り取られていた村人たちが救われます。本当に……ありがとうございます。わたしは、ずっと声を上げられずにいました。正しさだけでは、何も変わらないのだと、諦めかけていたんです」
「諦めないで、ベルント様。あなたの帳簿は、いつか必ず、もっと大きなものを暴く。今日はその予行演習」
「もっと、大きなもの……?」
ベルントが息を呑んだ。
わたしはそれ以上は言わなかった。
彼を、まだ危険に近づけたくはない。
けれど、いつか——この帳簿が、宰相という本丸を撃つ日が来る。
そのときまで、この相棒を無事に守り抜かなければ。
「お礼なら、あなたの帳簿に。数字が嘘をつかなかったから。それだけのことよ」
「……はい。ありがとうございます。私はこれからも逃げずに帳簿と向き合います」
ベルントの目に、もう、諦めの色はなかった。
火のような怒りと、それを支える静かな希望。
この生真面目な青年を、絶対に失うわけにはいかない。
彼の手の中の帳簿は、いつか宰相を撃つ、最も確かな弾になる。
これは、宰相という巨大な敵の、末端の末端を、一つ削っただけ。
本丸はまだ遠い。
気を緩めるつもりはなかった。
それでも、正しさがちゃんと報われた。
小さな、けれど確かな一勝だった。
ただ一つだけ引っかかることがあった。
失脚した子爵は宰相派の末席。
なのに、宰相は、その失脚をまるで意に介さない様子だった。
トカゲの尻尾切りには慣れているのか。
それとも——わたしが、こうして一つずつ駒を削るのを、面白がって眺めているのか。
(……どちらにせよ。あの男は、まだ本気を出していない)
背筋がひやりとした。
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その夜、密書が届いた。
新月でも、定例でもない、突然の文。
胸がざわついた。
何かあったのだろうか。
悪い知らせだろうか。
開くと、いつもより、さらに短かった。
『市の西門。明日の夕。少しだけ』
理由は書いていない。
けれど、わたしの足は、翌日の夕には、もう西門に向かっていた。
平民の娘の格好で、人混みに紛れて。
何かあったのなら、なおさら。
会わずにはいられなかった。
西門の脇、目立たない木陰に、彼はいた。
商人風の、いつもの変装で。
「……どうか、なさったのですか。急に」
息を切らして近づくと、エリアスは、わたしを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
まるで、わたしが来るかどうか、半分は疑っていたかのように。
「ただ」彼は目を逸らした。「お前が無茶をしていないか、確かめたかった。子爵が失脚したと聞いた。お前が絡んでいるんだろう」
——どうして、それを。
表に出ないよう、細心の注意を払ったのに。
彼は、わたしの動きをどこまで見ているのだろう。
「お前のやり方は巧妙だ。表からは何も見えない。だが……敵を一人削るたびに、お前自身が危うくなる。宰相はいずれ気づく。お前がただの令嬢ではないと」
その声に咎める響きはなかった。
あったのは——気遣いだった。
不器用で、まっすぐな。
叱るような顔をして、その実、案じている。
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「だから、確かめに来た、と?」
わたしが問うと、エリアスは答えなかった。
代わりに、外套の内側から何かを取り出した。
小さな、布の包み。
「……これは?」
「傷薬だ。帝国のよく効くやつ」
「傷、なんて、負っていませんが」
「これからだ」彼はぶっきらぼうに言った。「お前は無茶をする。そういう性格だ。備えは早い方がいい」
「……無茶、ですか。ずいぶんなおっしゃりようですね」
「事実だ。一人で宰相派に喧嘩を売る令嬢を他に知らない」
「あら。それは買いかぶりです。喧嘩は売っていません。ただ、転がるべき石を転がしただけ」
「……同じことだ」
呆れたように、けれど、どこか案じるように。
彼は小さく息を吐いた。
——備えは早い方がいい。
それは、わたしがいつも自分に言い聞かせている言葉だった。
最悪を想定する。
手を先に打つ。
その同じ言葉を、彼がわたしのために使っている。
わたしが傷つくことを、先回りで案じて。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
差し出された包みを受け取るとき、彼の指が、わたしの手のひらに、また触れた。
今度は、一瞬よりも、少しだけ長く。
離そうとして、けれど、ほんの刹那、躊躇うように留まった。
その熱が、傷薬よりもずっと深いところに効いた気がした。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えそうになるのをこらえた。
「礼は、いらない」
いつもの短い返事。
けれど、その目はわたしから逸れなかった。
夕暮れの光の中で、琥珀の瞳が、わたしだけを映していた。
茜色に染まったその瞳の奥に、彼が決して口にしない何かが確かに揺れていた。
「日が暮れる。帰れ」
そう言いながら、彼は、わたしが人混みに紛れて見えなくなるまで、その場を動かなかった。
振り返るたび、木陰に立つ彼の影がずっとこちらを見ていた。
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帰り道。
わたしは、傷薬の包みを何度も握りしめた。
布の包み一つ。
なのに、それがずっと温かい気がした。
(……ずるい。あの人は、本当にずるい)
言葉は少ない。
けれど、行動の一つ一つが、わたしの胸をまっすぐに射抜いてくる。
傷薬を渡すためだけに、危険を冒して敵国の市の西門まで来る。
そんな皇子がどこにいるだろう。
ロデリックは、婚約者のわたしに、花の一輪も贈ったことがない。
気にかけられたことすら一度もない。
それなのに、敵国の皇子は、わたしが「これから負うかもしれない傷」のために、薬を持ってくる。
比べるのも馬鹿げていた。
比べるまでもなかった。
(……認めましょう。もう、とっくに認めているくせに)
これは、確実に恋だ。
何度、目を逸らしても。
何度、言い訳を重ねても。
敵国の皇子への、絶対に叶ってはいけない、禁断の恋。
怖いのに。
引き返すべきだと、分かっているのに。
胸のいちばん柔らかい場所が、もう、彼の方を向いてしまっている。
屋敷に戻って、わたしは傷薬の包みを、抽斗の奥に、そっとしまった。
誰にも見つからない場所に。
万が一にも、ロデリックや宰相の目に触れてはならない、危険な品だ。
帝国の傷薬を持っているだけで、疑いを招く。
分かっている。
それでも捨てられなかった。
灯りを吹き消す前に、もう一度だけ抽斗の方を見た。
あの不器用な手が、わたしのために選んだ薬。
それが、今夜はお守りのように思えた。
残り、八ヶ月。
感謝祭で行われるフローラのお披露目をなんとしても止めなければいけない。
——なのに、わたしの胸の砂時計だけが、止まることを知らずに、ただ甘く落ち続けていた。
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