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第14話「国境の火、二人の手で」

第14話「国境の火、二人の手で」



ローレン川の対岸で煙が上がった。


伝令の早馬が王都に届く前に、わたしはその意味を知っていた。


原作の年表にこの煙はなかった。


つまり——誰かが、予定より早く、火をつけ始めている。


---


国境グレンツ地方。


ローレン川のほとり。


わたしは、父コンラートの「視察団」に紛れて、ここまで来ていた。


表向きは、公爵令嬢の見聞を広げる旅。


中身は火種の現地調査だ。


そして、川向こうのヴェルゴ帝国側にも、同じように「視察」の名目で来ている人がいた。


エリアス・フォン・ヴェルゴ。


第二皇子。


事前に密書で打ち合わせてあった。


「国境でおそらく何かが起きる」と。


わたしの先読みと、彼の掴んだ帝国側の不穏な気配が、同じ一点を指していた。


---


「アッカーマン様。国境の村で小競り合いが起きたようです。ライエルの民とヴェルゴの民が、川の漁業権でもめて——いえ、もめさせられて」


随行のベルントが川向こうを指す。


「もめさせられて、ですか」


わたしは川面を見つめた。


(典型的だわ。小さな諍いに誰かが油を注ぐ。死人が一人でも出れば、それが『隣国の蛮行』に化ける)


火事は、いつも小さな火種から始まる。


問題は、その火を「自然発火」に見せかけて、扇ぐ者がいることだ。


---


川辺に降りると、すでに村人たちが対岸に向かって石を投げ、罵声を浴びせ合っていた。


両岸とも興奮で目が血走っている。


「ヴェルゴの連中がうちの網を切りやがった!」


「ふざけるな、先に手を出したのはそっちだ!」


怒声が川面を渡って跳ね返る。


誰かが、今にも舟を出して、対岸へ殴り込もうとしている。


そして、その群衆の中に、見慣れない男たちが紛れていた。


(あれだ)


身なりは村人。


けれど、手つきが違う。


石を投げるたび、群衆の一番効く場所へ、的確に怒りを撃ち込んでいく。


「やられっぱなしでいいのか!」「殺されるぞ、先にやらなきゃ!」——人の恐怖をピンポイントで突く。煽動の玄人だ。


(……うまいわね。人の不安に、ちょうどいい薪をくべていく。これは訓練された手口)


流言が群衆を暴徒に変えていく、あの速さは嫌というほど知っている。


一度火がつけば、止められない。


だから——火がつく前に、薪をくべる手を、止める。


対岸でも同じことが起きているはずだった。


わたしは、ベルントに耳打ちする。


「あの男たちを村人から引き離して。


怪我人が出る前に。


父上の護衛を使っていいわ。


罪人扱いはだめ。


あくまで『保護』の名目で、そっと」


「は、はい。しかし、なぜ罪人扱いを?」


「捕らえたと知れたら、それ自体が『ライエルが自国の民を拘束した』という新しい火種になる。火を消すのに、別の火をつけては、本末転倒よ」


ベルントが息を呑んで頷いた。


「……数字だけでなく、人の動きまで読まれるのですね」


「読むのが仕事でしたから。昔の」


そして、川下へ目をやった。


——いた。


対岸の岸辺、柳の陰。


長身の人影が、こちらと同じように、群衆に紛れた「玄人」を見据えている。


エリアスだ。


目が合った。


言葉は交わせない。


川幅は広く、両岸は敵国同士。


けれど、彼はわずかに顎を引いた。


こちらの煽動者を見つけたという合図。


わたしも同じように頷き返す。


二人で、同じ火を、両岸から消しにかかる。


---


それからの動きは不思議なほど噛み合った。


わたしが煽動者の一人を護衛に取り押さえさせると、対岸でも、エリアスの手の者が同じように動いた。


鏡映しのように。


打ち合わせてもいないのに、互いの一手が読める。


(……気持ちいい、なんて。こんな状況で思っちゃいけないのに)


火元を断たれた群衆は、潮が引くように冷静さを取り戻していった。


石を握っていた手が、ばつが悪そうに下りていく。


死人は出なかった。


煙は消えた。


少なくとも、今日のところは。


---


日が傾いた頃。


わたしは、川辺の古い渡し場まで、一人で歩いた。


視察団からそっと離れて。


渡し場の杭に小さな布が結んである。


打ち合わせの合図だった。


——ローレン川には、流れの細る浅瀬がある。


両岸のちょうど中ほどに、寄り州のような中州が一つ。


わたしが中州へ渡ると、向こう岸からも、彼が来ていた。


長靴で水を蹴って、まっすぐに。


国境のちょうど真ん中。


どちらの国でもない、わずかな砂の上で、二人は向かい合った。


「無事か」


第一声が、それだった。


「うまくいったな」でも「礼を言う」でもなく。


わたしの無事を、真っ先に。


「ええ。殿下も」


「わたしのことは、いい」


そう言って、彼はわたしの全身に、素早く視線を走らせた。


怪我がないか、確かめるように。


それから、ようやく、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


(……今、安心したわね。顔には、これっぽっちも出ていないけど)


寡黙な人の、安堵の仕方を、わたしは少しずつ覚えてきていた。


眉のほんのわずかな緩み。


呼吸の小さな変化。


彼の本心は、いつも、そういう微細な場所に漏れる。


「取り押さえた男から、何か吐かせたか」


「いいえ。口の固い玄人でした。でも——」


わたしは、ベルントが密かに男の懐から抜き取った、一枚の紙片を差し出した。


「これを持っていました。煽動の手順書のようなもの。筆跡は、わたしには読めない暗号でしたが」


エリアスが紙片を受け取る。


指先が一瞬だけ触れた。


冷たい川風の中で、その一点だけがやけに熱かった。


彼は、紙片に目を走らせ——わずかに眉を寄せた。


「……この符牒。帝国の、軍の様式だ」


「軍の?」


「だが、正規の指令系統じゃない。誰かが、別の命令を、別の筋から流している」


彼の声が低く沈んだ。


表情は変わらない。


けれど、紙片を持つ手に、ぐっと力がこもったのが見えた。


(別の指令系統。帝国の中に戦を起こしたい「別の手」がある。——彼の言う『すぐ近くの誰か』が、これを動かしている?)


問いかけたかった。


喉まで言葉が出かかった。


けれど、しなかった。


彼の手札は、彼が出すときに出す。


急かせば、この危うい同盟が崩れる。


手の内を一度に明かし合う関係は、脆い。


わたしはそれを学んでいた。


代わりに、別のことを言った。


「その紙片、写しを取って、お返しします。原本は、あなたが持っていた方がいい。帝国の様式なら、あなたの方が、多くのことをわかるでしょうから」


エリアスが、わたしを見た。


少し意外そうに。


「敵に、証拠の原本を渡すのか」


「ええ。だって、これは、あなたを信じるという、わたしのカードですもの。——一枚ずつ積み上げましょう。そう言ったでしょう?」


彼は、しばらく黙ってから、ふっと息を吐いた。


「……お前は、本当に令嬢らしくない」


「それも、よく言われます」


彼の口元がわずかにほどけた。


川風の中、その微かな表情に、わたしの胸がまた勝手に温かくなる。


---


水音だけが二人の間を流れていく。


「あの符牒のことだが」エリアスが、川面を見たまま言った。「持ち帰って、調べる。だが、見当はついている」


「……無理に、おっしゃらなくて」


「いや。これは、お前にも関わる」


彼は、少し迷ってから、続けた。


一枚だけ、カードを切るように。


「正規の軍令とは、別の系統。それを動かせる立場の者は、帝国に、そう多くない。ごく、限られている」


それ以上は言わなかった。


けれど、わたしには、彼が誰の名を呑み込んだのか、薄っすらと察しがついた。


望まぬ戦を望む、彼の「すぐ近くの誰か」。


血を分けた——。


(……言わせない。今は。彼が、自分の口で言える日まで)


その名を、わたしから当てて見せるのは、簡単だった。


原作の知識がある。


けれど、しなかった。


彼が、自分の傷を、自分の言葉で差し出せるようになるまで、待つ。


それが、彼を信じるということだと思った。


「分かりました。続きは、また」


「ああ」


「ここまで来て、また川を渡れば」エリアスがぽつりと言った。「お前は自国へ、わたしは敵国へ戻る」


「……ええ」


「奇妙なものだ。今、この砂の上では、どちらの国でもない」


中州の砂を、彼の長靴が軽く踏んだ。


「ここでだけは、お前は敵じゃない」


胸の奥が締めつけられた。


ここでだけは、敵じゃない。


——どちらの国にも属さない、この小さな砂の上でだけ、二人は、ただの「エリ」と「ヴィオラ」に戻れる。


皇子でも、悪役令嬢でもなく。


ならば、と思った。


ならば、この場所でだけは。


「……エリアス、様」


口にしてから、自分でも、はっとした。


ずっと、「殿下」と呼んできた。


それが、二人の間に引かれた、立場という一本の境界線だった。


皇子と、敵国の令嬢。


その線を、わたしは、たった今、自分から跨いでしまった。


エリアスが、驚くように目を見開いた。


「……今、何と」


「エリアス様、と。だって——ここでは、あなたは、敵じゃないのでしょう?」


わたしは、精一杯、軽く言ってみせた。


動揺を悟られないように。


本当は、心臓が痛いくらいに鳴っていたけれど。


彼は、しばらく、わたしを見つめていた。


それから、ほんの少しだけ目を伏せて。


「……ああ」


たった一音。


それなのに、とても暖かい。


一瞬の会話でこんなにも幸せな気持ちになれるなんて、わたしは知らなかった。


---


ほんの数歩の距離。


手を伸ばせば届く。


けれど、岸に戻れば、二人を隔てるのは川幅どころではない。


国境。


立場。


原作の運命。


何もかも。


「……戻りましょう、エリアス様」


もう一度、その名を呼んで。


わたしは、先に踵を返した。


そうしなければ、足が動かなくなりそうだったから。


背中で、水を蹴る音がした。


彼も、自分の岸へ。


振り返らずに、わたしは自国の岸へ渡った。


一歩ごとに足首を冷たい水が掴む。


水に入るにはまだ寒く、中州の温もりが、遠ざかっていく。


岸に上がって、ようやく振り返ると。


対岸で、彼が立ち止まって、こちらを見ていた。


藍色に沈む川の向こうで。


声は届かない。


手も届かない。


それでも、わたしたちは、しばらく動かなかった。


(……これが、わたしたちの距離なのね)


並んで火を消したばかりなのに。


同じ目的を見ているのに。


戻れば、川一本を挟んで、敵同士。


けれど、あの砂の上で、わたしは確かに、彼を名前で呼んだ。


それだけは、川を渡っても消えない。


残り、八ヶ月。


ローレン川の水は、どちらの岸のことも知らぬげにただ静かに流れていた。


本日の投稿は終了となります。

次の投稿は8/20の12:40となっておりますm(__)m

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