第15話「あなたを、傷つけさせない」
第15話「あなたを、傷つけさせない」
矢が、わたしの喉笛を狙っていた。
気づいたのは、放たれた後だった。
風を裂く音。
考える間もない。
——そして、誰かが、わたしを抱きすくめて地に倒れ込んだ。
矢は、さっきまでわたしの頭があった場所を貫いていた。
---
事の起こりは、国境からの帰路だった。
わたしは、後片付けがある父の視察団より一足先に少人数で王都へ戻っていた。
火をつけたい連中にとって、火消しはいちばんの邪魔者だ。
煽動者を取り押さえた一件で、わたしは「邪魔者」として、はっきり目をつけられたらしい。
災害を利用して儲ける者にとって、被害を最小に抑えようとする人間が疎ましいのは、いつの世も同じこと。
——とはいえ、まさか命まで狙われるとは。
さすがに想定が甘かった。
わたし達が王都へ戻る途中の森で、待ち伏せに遭った。
矢の出どころは街道脇の茂み。
狙いは、明らかに——わたし。
——そして、わたしを庇ったのは、エリアスだった。
なぜ、彼がそこにいたのかは後から聞いたが、「帰路が危ういと踏んで、ノエルと共に追っていた」らしい。
彼自身も、姿を隠して、ずっと、わたしの帰り道を見守っていたのだと。
そして、わたしは今、彼の腕の中にいる。
「——っ、う」
「動くな」
低い声が耳元で響いた。
彼の体が、わたしを地面と自分の間に庇ったまま、覆いかぶさっている。
二射目が来た。
彼は、わたしを抱えたまま、樹の陰へと転がり込む。
腕は、片時もわたしを離さなかった。
「エリアス様、放して、わたしは——」
「いいから、伏せていろ」
彼の声に、有無を言わせぬ響きがあった。
普段の寡黙とは違う。
守る者の強さだった。
茂みの方で、短い悲鳴。
ノエルが、刺客に追いついたのだ。
やがて、争う音が止んだ。
彼の腕の中で、わたしは身じろぎもできなかった。
固い胸板。
荒い呼吸。
外套から立ちのぼる、雨上がりの森のような匂い。
何もかもが、生々しく近かった。
(……生きてる。わたしも、この人も)
矢が、あと指一本分ずれていたら。
わたしは今ごろ。
そう思った瞬間、遅れて、恐怖が背筋を駆け上がった。
歯がかちかちと鳴りそうになる。
それを察したのか、わたしを庇う腕が、ほんのわずかに力を増した。
大丈夫だ、と。
言葉ではなく、腕の力が言っていた。
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静けさが戻っても、彼はすぐには腕を解かなかった。
わたしの背に回された腕。
荒い呼吸。
心臓の音が、彼の胸から、わたしの背へ直に伝わってくる。
速い。
彼も、こんなに。
(……守ってくれた。自分の身を、盾にして)
ようやく、彼が体を起こした。
わたしを助け起こす、その手が——わずかに震えていた。
「怪我は」
「……ありません。あなたが、庇ってくださったから」
言いかけて、わたしは気づいた。
彼の左の二の腕。
外套が裂け、布地に赤が滲んでいる。
一射目がかすめていたのだ。
わたしを庇った、その時に。
「エリアス様、血が……!」
わたしは、とっさに彼の腕に手を伸ばした。
けれど彼は、軽く身を引いて、こともなげに言った。
「かすり傷だ。問題ない」
「問題、あります。血が出ているのに——」
「お前の喉に刺さるよりはずっといい」
ぽつりと、彼が言った。
それきり口を噤む。
まるで、言いすぎた、とでもいうように、視線を逸らして。
(……今、なんて)
自分が傷つくことを顧みずにわたしを守ってくれた。
そのことを実感したときには、矢に狙われた恐怖なんて、わたしの頭から消えていた。
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わたしは、自分の外套の裾を裂いた。
令嬢が、と諫める声が頭の隅でしたけれど、無視した。
「手当てを、させてください。これくらいは、させて」
「必要ない」
「必要あります」
わたしは、彼の答えを待たずに、その左腕を取った。
エリアスが動きを止めた。
逃げようと思えば、力ずくでも逃げられただろう。
だが、彼はしなかった。
黙って、腕をわたしに預けた。
傷口に布を巻く。
指が彼の肌に触れる。
思っていたより、ずっと熱い。
生きている人の、体温。
巻きながら、わたしの指が少し震えた。
怖かったからじゃない。
彼が、こんなにも近くにいることに、慣れていなかったからだ。
彼の腕の筋は、わたしの細い指の下で、思いがけず硬かった。
剣を握る人の腕。
誰かを守るために、鍛えられた腕。
その腕が、今日、わたしのために、矢の前に飛び出した。
「……不器用だな」
彼が、ぽつりと言った。
わたしの拙い手つきを見て。
「失礼ですわね。命の恩人に、精一杯のお礼をしているのに」
「礼は、いらないと言った」
「では、これは、お礼ではありません。わたしのわがままです」
そう返すと、彼はまた、黙った。
けれど、その横顔の、口元が。
ほんの少しだけ、ほどけていた。
「……いつも、そうやって、言い負かすのか」
「あら。寡黙なエリアス様に、口で勝てるなんて。光栄ですわ」
「勝った、とは言っていない」
「では、何と?」
彼は、答えなかった。
代わりに、巻かれていくわたしの手元を、じっと見ていた。
逃げようと思えば逃げられる腕を、黙って預けたまま。
その視線が、くすぐったくて。
わたしは、よけいに指を震わせてしまう。
布を巻き終える。
少しいびつな、けれど、確かな包帯。
彼は、その腕を、しばらくじっと見ていた。
わたしが巻いた布を。
何か、大切なものを確かめるように、そっと、もう片方の手で触れて。
「……ほどけそうだ」
「では、巻き直します」
「いや」
彼は、その手を引っ込めた。
包帯を守るように。
「これで、いい」
下手くそな包帯を巻き直さないでいい、と。
その不器用な拒み方に、わたしは何も言えなくなった。
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「……どうして」
布を巻く手を止めて、わたしは訊いた。
訊かずには、いられなかった。
「どうして、あなたが、わたしの帰り道を見張っていたんですか。あなたは敵国の皇子。わたしは敵国の令嬢。守る義理なんて、どこにも——」
「義理では、ない」
即答だった。
考える間もなく。
「では、何ですか」
エリアスは答えに詰まった。
いつものように。
けれど、今度は、逃げずに、低く言った。
「……気になった。お前の帰り道が」
(それは--。それは、つまり)
それ以上、彼は言わなかった。
言えなかったのだろう。
けれど、「気になった」という言葉に、彼が普段呑み込んでいる感情の何分の一かが、確かに乗っていた。
胸が、また、ぎゅうと締めつけられる。
この人は、言葉の代わりに、行動で全部を語ってしまう。
だから、たまに漏れる言葉が、こんなにも——。
少し離れた木の陰から、忍び笑いが聞こえた。
「いやはや。お取り込み中、失礼いたします」
そこには、飄々とした顔で肩をすくめている、二十三歳くらいの軽そうな青年が立っていた。
「ノエル」エリアスが、低く制した。「見ていたなら、なぜもっと早く出てこない」
エリアスの従者である彼は、刺客を片付けて、戻ってきていたらしい。
「とんでもない。出ていける雰囲気じゃ、ございませんでしたので」
ノエルは、にやにやと、わたしとエリアスを見比べた。
「殿下が、敵国のご令嬢を、それはもう必死に庇われて。手当てまでされて。——おやおや、これはこれは」
「ノエル」
「はいはい、何も見ておりません。何も。——ですが殿下、一つだけ。あなたが誰かをかばうために前へ出るのはこれで最後にしてください。—その役目は矛であり盾である私の役目ですので」
その一言に、エリアスが、わずかに目を逸らしつつ、言葉を発した。
「わる、かった」
その様子を見ていたわたしは彼への評価を見直した。
(この人——いい味方になりそう。口は軽そうで、肝心なところは固そう)
「ですが殿下。一つ気がかりが」ノエルが声を潜めた。「この刺客、雇い主まで辿られる前に、舌を噛みました。プロの始末です。——ライエルの宰相か、それとも」
「言うな」エリアスが低く制した。ちらりと、わたしを見て。
(……かばってくれた。わたしに聞かせたくない名前を)
けれど、わたしには分かっていた。
この刺客を放ったのが誰であれ、その糸を手繰れば、両国の「火をつけたい者たち」が、どこかで繋がっている。
国境の符牒。
帝国の別の指令系統。
そして、この刺客。
点が、少しずつ、線になろうとしている。
「ヴィオラ嬢」
エリアスが、立ち上がり、わたしに手を差し出した。
立つのを助けるために。
その手を取る。
大きくて、剣だこのある、温かい手。
包み込まれると、矢の恐怖が、嘘のように遠ざかった。
「次は、わたしが追わせるまでもなく、無事に帰れ」
「……はい。善処します」
「善処では困る」
珍しく彼が言い募った。
ほんの少し、声に熱がこもって。
それから、自分でも驚いたように、口を閉じた。
(ああ。この人は、言葉より態度に出る人なんだわ。心配だって、好きだって、全部、行動に。——だから、たまに漏れる言葉が、こんなにも刺さる)
残り、八ヶ月。
森を抜ける帰り道、わたしの背には、もう矢の恐怖はなかった。
あったのは、彼の腕の熱と、いびつな包帯を見つめていた、あの横顔だけだった。
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次の投稿は8/21の12:40となっておりますm(__)m




