第16話「フローラのまっすぐな瞳」
第16話「フローラのまっすぐな瞳」
「ヴィオラ様は、好きな人がいらっしゃるんですね」
その一言に、わたしは、危うく紅茶を吹き出しかけた。
なぜ、この子がそれを。
---
事の起こりは、フローラ・ベルクからの、一通の招待だった。
「ヴィオラ様とお茶がしたいんです」と。男爵令嬢の、まっすぐな文字で。
原作なら、わたしとフローラはいがみ合う関係のはず。
けれど、わたしは何度か,彼女に降りかかる火の粉を、こっそり払ってきた。
その縁が、こうしてお茶の誘いになった。
(……保護対象が、向こうから懐いてきた感じね。悪い気はしないけれど)
それに、わたしには、別の目的もあった。
宰相オスヴァルトが、フローラを「清純の象徴」として担ぎ上げようとしている兆候。
それを、何度か掴んでいた。
世論を戦争へ導くための清らかな旗印として。
フローラ本人は何も知らない。
利用されようとしていることを。
(この子を巻き込ませない。——それも、わたしの戦いの一つ)
---
フローラの屋敷のささやかな庭。
二人でお茶を飲んだ。
やはり、フローラは純粋な少女だった。
人を疑うということを知らない。
誰のこともまっすぐ信じる。
(……危ういわ。この純粋さは。悪い大人にとって、これ以上扱いやすい道具はない)
「ヴィオラ様。わたし、ずっとお礼が言いたくて」
フローラが、紅茶のカップを置いて、深々と頭を下げた。
「以前、わたしが盗みの濡れ衣を着せられかけたとき。助けてくださったの、ヴィオラ様だって、後で知ったんです。それから、何度も……」
「……気のせいですわ」
「いいえ。わたし、鈍いけど、それくらいは分かります。ヴィオラ様はお優しい方です」
まっすぐな瞳で、そう言われると、こそばゆい。
わたしは、話題を変えようと、宰相派の動きについて、それとなく探りを入れた。
最近、フローラに近づいている貴族はいないか。
妙なお披露目の話が来ていないか。
フローラは、首をかしげながら答えた。
「そういえば……グレーフェンベルク侯爵様が、わたしを大きな夜会で紹介したいと。『清らかな心の象徴として、民に希望を』とか、難しいことをおっしゃっていました」
(——来た。やっぱり)
宰相はもう動き始めている。
フローラを旗印に仕立てる準備を。
「フローラ様。その話、お受けになったの?」
「いいえ、まだ。なんだか……気が進まなくて。うまく言えないんですけど」
フローラは、困ったように、眉を下げた。
「侯爵様、優しい言葉をたくさんかけてくださるんです。でも、なんていうか……わたしを見ているようで、見ていない感じがして。わたしの後ろにある、何か別のものを見ているような」
(——鋭い。この子)
宰相は、フローラ個人になど、興味はない。
彼が見ているのは、「清純な男爵令嬢」という、世論を動かす道具。
それを、フローラは本能で感じ取っている。
「フローラ様。その直感、大事になさって。気が進まないなら、急いでお返事をする必要はありません。何か理由をつけて、引き延ばしてしまいなさい」
「……はい。ヴィオラ様が、そうおっしゃるなら」
その「気が進まない」という直感を大事にしてほしい、と思った。
この子の純粋さは、危ういけれど。
同時に、嘘を嗅ぎ分ける鼻の良さでもあるのかもしれない。
(囲い込みの第一歩を、少しだけ遅らせられた。——でも、宰相は諦めない。いずれ、もっと強引な手で来る。それまでに、この子をこちら側に)
---
お茶も終わりに近づいた頃。
フローラが、ふいに、いたずらっぽく微笑んだ。
「あの、ヴィオラ様。一つ、聞いてもいいですか」
「ええ、何かしら」
「ヴィオラ様って……好きな人が、いらっしゃるんですね」
わたしは紅茶を吹き出しかけた。
「な——なぜ、そう思うの」
「だって」フローラは、頬に手を当てて、うっとりと言った。「お話ししている間、ヴィオラ様、何度かすごく優しいお顔をなさったんです。たぶん、ご自分では気づいてないと思うんですけど。恋をしている人のお顔です」
(……この子、人の機微にだけは妙に鋭い!)
純真なくせに——いや、純真だからこそか。
打算がない分、人の表情をそのまま読む。
「気のせいよ、フローラ様」
「そうですか? でも——」
そこで、フローラが、何気なく続けた言葉に。
わたしは凍りついた。
「この前、市場で、ヴィオラ様と仲がいい商隊の方を見かけたんです。そうしたら、すごく身なりのいい方が、フードを目深にかぶって、商隊の方と話していて。お顔は見えなかったんですけど……なんだか、ただの商人さんじゃない感じで」
心臓が、止まりかけた。
(……まずい。それ、エリアス様だ)
「それで、その方が立ち去る時、商隊の方が『アッカーマンのお嬢様によろしく』って言うのが、聞こえちゃって。あの、身なりのいい方と、ヴィオラ様、お知り合いなのかなあって」
---
血の気が、引いた。
たまたま、耳にしただけ。
フローラに悪気は欠片もない。
けれど——この子は見てしまった。
聞いてしまった。
エリアスと、ヤコブの商隊。
そして、わたしの名前。
点と点が、フローラの中で繋がりかけている。
(落ち着いて、ヴィオラ。動揺を悟られたら、もっと怪しまれる。——表情を変えるな。呼吸を変えるな。いつも通りの令嬢で)
わたしは、令嬢の微笑みを、必死で保った。
心臓は早鐘のように打っているのに。
「ああ、それは。商隊から、珍しい品を取り寄せていて。その買い付けの代理の方でしょう。遠方の出らしくて、人目を気にする方なの。商売の伝手を他に知られたくないのですって」
すらすらと嘘が出た。
最悪を想定して、こういう言い訳を、いくつも用意してあったから。
「そうなんですね! なんだ、お知り合いだったんだ」
フローラはあっさり納得した。
疑うことを知らないから。
「わたし、てっきり、ヴィオラ様の——」
「わたしの?」
「いえ。なんでもないです。変なこと考えちゃって。ごめんなさい」
フローラはぱたぱたと手を振った。
その頬が少し赤い。
何を「考えちゃった」のか、だいたい想像がついて、わたしの方が、よほど冷や汗をかいた。
すらすら出た嘘に、ようやく肩の力が抜ける。
——けれど、安堵したのも束の間、わたしは背筋が冷えるのを止められなかった。
今日は、フローラの純真さに救われた。
けれど、次は? もし、もっと鋭い誰かが同じものを見聞きしたら?
秘密を抱えるということは、こういうことだ。
会えば会うほど痕跡が増える。
痕跡が増えれば、いつか、誰かに拾われる。
情報の漏れは、いつだって、こんな「たまたま」の隙間から忍び寄る。
---
帰り際。
フローラがわたしの手を取った。
「ヴィオラ様。わたし、ヴィオラ様の味方です。何があっても」
何の脈絡もない、唐突な言葉だった。
けれど、その瞳は、まっすぐで。
「もし、ヴィオラ様が、誰にも言えない何かを抱えていらっしゃるなら……わたし、何も聞きません。でも、味方ではいます。ヴィオラ様が、わたしの味方でいてくれたみたいに」
(……この子)
何かを感じ取っているのかもしれない。
わたしが、大きな秘密を抱えていることを。
鈍いようで、肝心なところで、人の本質を見抜く。
わたしは、フローラの手を握り返した。
「ありがとう、フローラ様。——その言葉、忘れません」
敵にするはずだった少女が味方になった。
原作の筋書きを、また一つ、書き換えた。
(フローラ様。あなたを、宰相の旗印になんて、絶対にさせない。あなたは誰かの道具じゃない。——それに)
ふと、思う。
この子は、いつか、わたしの秘密を、知ることになるかもしれない。
敵国の皇子と通じる、わたしの罪を。
そのとき、この子は、どんな顔をするだろう。
今日のように「味方です」と、言ってくれるだろうか。
(……分からない。でも、この子のまっすぐさを信じてみたい)
---
屋敷を辞して、馬車に揺られながら、わたしは、ローザに告げた。
「ローザ。フローラ様の周りで、宰相派の動きがあったら、すぐ教えて。あの子が、おかしな夜会に引っ張り出されそうになったら、わたしに、一番に」
「かしこまりました。……お嬢様、本当にお変わりになりましたね」
ローザがしみじみと言った。
「以前なら、フローラ様のことなんて、目の敵になさっていたのに。今は、誰よりも、あの方を守ろうとなさっている」
「……目の敵に、ね」
原作のわたしは、確かに、そうだった。
流されるまま、この子を憎むよう仕向けられた、哀れな悪役令嬢。
「人は変われるものよ。ローザ。——きっかけさえ、あれば」
きっかけ。
前世の記憶。
亡国の結末。
そして——あの庭園で出会った、一人の青年。
わたしを変えたものを、一つずつ数えながら、わたしは、窓の外を流れる王都の景色を見ていた。
残り、七ヶ月。
わたしは、秘密が少しずつ、外へ滲み出していることを、はっきりと感じていた。
フローラの一件は、ほんの予兆に過ぎないのかもしれない、と。
本日の投稿は終了となります。
次の投稿は8/24の12:40となっておりますm(__)m




