第17話「もう、戻れない」
第17話「もう、戻れない」
認めてしまえば楽になれると思った。
——大間違いだった。
認めた途端、この恋は、ただ重くなった。
敵国。
婚約者。
滅びゆく国。
三重の壁が、ようやく名前のついた想いに、一斉にのしかかってきた。
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その夜、わたしは、礼拝堂で、エリアスと向き合っていた。
火種の話はもう済んでいた。
宰相の偽旗計画。
帝国側の不審な指令系統。
少しずつ、二人の手札を擦り合わせ、敵の輪郭が見えてきていた。
けれど、その夜の本題は別にあった。
少なくとも、わたしの胸の中では。
「エリアス様。一つ、お伝えしておきたいことが」
「何だ」
「フローラ様——男爵令嬢が、わたしとあなたのことを、気づきかけました。市場で、あなたを見かけたと」
エリアスの目が鋭くなった。
「露見したのか」
「いいえ。ごまかしました。彼女は信じてくれました。でも——」
わたしは唇を噛んだ。
「危なかったんです。たまたま、彼女が善良な子だったから。次は、こうはいかないかもしれない。会うたびに、痕跡が増える。わたしたちは——」
そこで、声が詰まった。
「会うのを、控えるべき、なのかもしれません」
言ってしまった。
正しいことを。
理性が、ずっと囁いていたことを。
エリアスは、しばらく黙っていた。
月光の中で、彼の表情は読めなかった。
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「それが、お前の望みか」
ようやく、彼が言った。
低く、静かに。
「望み、ではありません。ただ——正しいことです。あなたを危険に晒したくない。わたしのせいで、あなたが——」
「逆だ」
エリアスが遮った。
声に、めずらしく、鋭さがあった。
「危険に晒しているのは、わたしの方だ。敵国の皇子と通じている。それが知れれば、断罪されるのは、お前だ。わたしではない」
「それは——」
「わたしは皇子だ。最悪でも国へ逃げ帰れる。だが、お前は」
彼は、そこで、言葉を切った。
続きを言いたくない、というように。
けれど、結局、絞り出した。
「お前は逃げ場がない。わたしと会うたびに、お前だけが首を賭けている」
その通りだった。
露見すれば、命を落とすのは、ライエルの公爵令嬢であるわたしの方。
彼は、それを、ずっと気に病んでいたのだ。
会うたびに。
「だから、お前が『会うのを控えよう』と言うなら」彼の声が低く震えた。「わたしは、それを止める資格がない。お前の命を、危険に晒しているのは、わたしなのだから。——止めたいのに、止める資格が、ない」
その矛盾を、彼は、苦しそうに吐き出した。
わたしを守りたい。
だから、遠ざけるべきだ。
けれど、遠ざけたくない。
三つの想いが、彼の中で、ぶつかり合っている。
彼の声に、初めて、抑えきれない何かが滲んだ。
それは、彼が普段、何重もの仮面の下に隠している、剥き出しの感情だった。
「お前を、失いたくない」
——失いたくない。
その言葉が、礼拝堂の闇に、落ちた。
わたしは、息を呑んだ。
(……今、この人。確かに、そう言った)
普段、感情を言葉にしない人だ。
庇うのも、心配するのも、ぜんぶ行動で示してきた人だ。
その人が、こんなにはっきりと、言葉にした。
失いたくない、と。
それが、どれほどのことか。
胸の奥が、熱を持って、ぎゅうと締めつけられた。
目の奥が、つんと痛んだ。
「……エリアス様」
「すまない」彼は、すぐに目を逸らした。言いすぎた、というように。「忘れてくれ。今のは——」
「忘れません」
わたしは首を振った。
声が、震えないように、奥歯を噛みしめて。
「忘れられるわけ、ないでしょう。——あなたが、初めて、本当のことを言ってくれたのに」
庇うのも、案じるのも、薬を渡すのも。
ぜんぶ、行動だった。
言葉にしないことが、彼の優しさで、彼の鎧だった。
その鎧を、たった今、彼は自分から外したのだ。
わたしのために。
それを、忘れろと言う方が、無理な話だった。
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二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、それは、気まずい沈黙ではなかった。
互いの心が、もう、隠しようもなく、相手に向いていることを、認め合うような沈黙だった。
(……ああ。もう、無理だわ)
わたしは、心の中で、白旗を上げた。
(認めるしかない。わたしは、この人が好き。敵国の皇子で、わたしを滅ぼす側で、何もかも間違っているのに。——好きなものは、好きなのよ)
やはり、これは恋だ。
生まれて初めての。
そして、世界でいちばん、報われそうにない。
エリアスもまた、同じ場所にいるのが、分かった。
失いたくない、と口にしてしまった彼は、もう、自分の心を、ごまかせない。
二人とも、同じ崖の縁に立っていた。
一歩でも踏み出せば、戻れない場所へ。
「エリアス様」
わたしは、彼を見上げた。
「会うのを、控えるべきだと言いました。それが、正しいと。——でも、わたし、正しくありたくないみたいです」
「……ヴィオラ嬢」
「もう少しだけ。あなたと戦わせてください。戦争を止めるまで。それまでは、隣に——いえ、川を挟んででも、いさせてください」
「……それが、どれほど危ういか、分かっているのか」
「分かっています。誰よりも。最悪を想定するのは得意なんです。——その上で言っています。あなたと、戦いたいと」
エリアスが、わたしを見つめた。
長く。
そして、ゆっくりと、手を伸ばした。
わたしの頬に、触れるか触れないか、ぎりぎりの距離で——止まった。
その手は震えていた。
触れてはいけないと、自分を律するように。
「……約束は、できない」彼が、掠れた声で言った。「お前を、幸せにする約束も。お前と、共にいる約束も。わたしには、その資格がない」
「知っています」
「だが」
彼の指先が、わたしの頬に、ほんのわずかに触れた。
火傷しそうなほど、熱かった。
「お前から、目を離せない。もう、無理だ」
——もう、無理だ。
その言葉は、わたしが、心の中で上げた白旗と、寸分違わず、同じ言葉だった。
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頬に触れた指が、名残惜しそうに、離れていく。
それ以上は、どちらも踏み込まなかった。
踏み込めば、本当に戻れなくなる。
今夜は、まだ、その時ではないと、二人とも分かっていた。
敵国の皇子。
婚約者のいるわたし。
三年後に滅びる国。
三重の壁は、何一つ、消えていない。
むしろ、想いを認めたぶんだけ、その壁は、高く、厚くなった。
恋を知ったぶんだけ、失うものが増えた。
以前のわたしなら、亡国を止めるのは、冷静な「使命」だった。
けれど、今は違う。
彼が生きる世界を、守りたい。
彼を、薪にする戦争を、止めたい。
使命に、熱が宿ってしまった。
それは力にもなる。
同時に弱みにもなる。
——でも、もういい。
冷静なだけの計画より、誰かを想う計画の方が、きっと、もっと遠くまで行ける。
そう信じることにした。
それでも。
わたしたちは、もう、後戻りできない場所にいた。
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礼拝堂を出ると、ノエルが、商隊の陰で待っていた。
月明かりの下、いつもの飄々とした顔で。
けれど、その夜は茶化さなかった。
ただ、静かに言った。
「殿下は、お変わりになりました。あなたと出会ってから。——あの方は、長く、お一人で戦ってこられた。望まぬ戦を望む、ご身内に囲まれて。味方はほとんどおりません」
「……そうですか」
「ええ。ただ、最近。帝都アイゼンブルクから、妙な噂が流れてくるんですよ。病床の皇帝陛下が、第二皇子殿下を、ずいぶんと気にかけておられる、と。——『国を焼く者に、国は継がせられぬ』とか、なんとか」
その一言を、ノエルは、さらりと流した。
深くは語らない。
けれど、それは、確かに、何かの種だった。
頭の中の算盤が、勝手に弾きかける。
これは、ただの恋の噂話ではない、と。
けれど——今夜は、それを、考えないことにした。
種は、種のまま、心の隅に植えておけばいい。
芽吹く日が、いつか来るかもしれない。
「まあ、噂です。噂。——では、お気をつけて。アッカーマンのお嬢様」
ノエルが、にやりと笑って、闇に消えていく。
わたしは、一人、夜空を見上げた。
今夜のわたしには、一つだけ、はっきりしたことがあった。
わたしは、エリアス・フォン・ヴェルゴを、好きになった。
敵国の、皇子を。
どうしようもなく。
残り、六ヶ月半。
砂時計の砂は変わらず落ち続けている。
けれど、その音より、ずっと大きく、わたしの胸は鳴っていた。
——この恋が、わたしと、この国を、どこへ連れていくのか。
頬に残る、彼の指先の熱を、わたしは、そっと手のひらで包んだ。
次に彼に会う日まで、消えないでいてほしいと、願いながら。
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