第18話「見られていた、かもしれない」
第18話「見られていた、かもしれない」
朝、ノエルからの密書が、いつもより半日遅れて届いた。
たったそれだけのことで、わたしの背筋は、すっと冷たくなった。
普段なら気にも留めない。
半日の遅れなどは悪路では珍しくもない。
けれど——わたしの胸の奥で、何かが、ざわりと音を立てた。
密書の遅れは、連絡網のどこかが詰まったということ。
それは、伝達経路の一つに障害が出たことを意味する。
そして、それが「大きな問題」の「最初の兆候」だというケースは嫌というほど経験してきた。
(……気のせい、ならいいのだけど)
そう思いながらも、わたしの手は、もう、その密書を二度、三度と読み返していた。
どこかに、警告が隠れていないかと。
けれど、書かれていたのは、いつも通りの当たり障りのない近況だけ。
それが、かえって、不気味だった。
心地いい朝の出来事だった。
外は春と夏の境目にいるような居心地のいい日だった。
ローザが、私を起こしに来た際に、警戒するような小さい声で話し始めた。
「お嬢様。昨夜、お屋敷のまわりを、見慣れない男がうろついていたそうですよ。下働きの子が怖がっておりました」
その一言で、冷えた背筋が、はっきりと凍った。
「……どんな男だったか、聞いている?」
「いえ、暗くてよくは。ただ、商人風の身なりなのに、荷も持たず、ただ立っていたと。妙だ、と申しておりました」
荷を持たない商人。
立っているだけの男。
——見張り、だ。
間違いなく。
ローザは、わたしの顔色を読んで、そっと付け加えた。
「お嬢様。差し出がましいようですが、最近のお嬢様は……何か、危ういものを、抱えていらっしゃいませんか」
ぎくり、とした。
けれど、顔には出さない。
「……心配をかけて、ごめんね。でも、大丈夫よ」
「大丈夫、ですか」ローザは、薄く微笑んだ。「お嬢様の『大丈夫』は、たいてい、大丈夫じゃないときに出ますね」
鋭い。
市井で揉まれた侍女の目は誤魔化せない。
わたしは、苦笑するしかなかった。
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連絡の遅れ。
屋敷を嗅ぎ回る男。
普通の人なら偶然と笑うかもしれない。
でも、危機管理の鉄則は「同じ方向を指す異変が二つ重なったら、それはもう兆候」。
わたしは、ここ数日の自分の動きを、頭の中で巻き戻した。
三日前、ヤコブの商隊の荷馬車に紛れて、王都の外れでエリアスと会った。
ほんの四半刻。
情報を交わすだけの、短い密会。
人目は避けたつもりだった。
つもり、だった。
(……見られていた、かもしれない)
そう思った瞬間、心臓が嫌な打ち方をした。
露見すれば、わたしは終わる。
それだけじゃない。
彼も——敵国に通じた皇子として、立場を失う。
二人分の命が、あの四半刻の油断にかかっている。
「ローザ」
「はい」
「その、うろついていた男の風体。下働きの子に、もう少し詳しく聞いておいて。背格好、身なり、王宮の人間っぽいかどうか。——さりげなく、ね」
「……承知、いたしました」
ローザは、それ以上は聞かなかった。
けれど、その目には、はっきりと心配の色があった。
この人は、もうとっくに気づいている。
お嬢様が、何か危ういものを抱えていることに。
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その日の午後。
わたしは、わざと社交の予定を入れた。
隠れて縮こまっているのは、いちばん下手な手だ。
後ろ暗いところがある者ほど、人目を避ける。
だから逆に、堂々と人前に出る。
それだけで、疑いの目は薄れる。
前世で学んだ世論対策の初歩。
公爵令嬢が、いつも通り茶会に顔を出し、いつも通り微笑む。
それだけで「あの令嬢、特に変わったところはない」という空気が作れる。
——もっとも。
心臓は、いつも通りとは程遠い速さで打っていたけれど。
笑顔の仮面の下で、わたしは必死に、平静を装っていた。
茶会の席で、わたしは何気なく、宰相派の令嬢たちの会話に耳を澄ませた。
「ねえ、聞きまして? 財務府で、何か不正があったとか」
「あら、こわい。誰の仕業かしら」
「さあ。でも近いうちに、はっきりするそうよ」
——近いうちに、はっきりする。
その一言が引っかかった。
まるで、結末がもう決まっているような言い方。
(財務府。……ベルント様)
胸がざわついた。
帳簿の不正を追っているのは、ベルント・フォス。
下級貴族の、生真面目な財務官。
わたしの、大事な相棒。
その彼の周りで、「不正」という言葉が、なぜか先回りして囁かれている。
噂というのは、勝手に湧くものじゃない。
誰かが、種を蒔いている。
それも、結末を知っている誰かが。
前世で、世論の操作を、嫌というほど見てきた。
火のないところに煙を立て、その煙を「証拠」と言い張る。
古くて、効く手口だ。
「あの、財務官の方——たしか、フォス様でしたかしら」
わたしは、何気ないふりで、令嬢たちの会話に割り込んだ。
「真面目な方だと、聞いておりましたけれど」
「あら、ヴィオラ様。真面目な顔をして、裏では何をしているか分からないものですわよ」
くすくす、と笑い声。
その笑いの軽さが、かえって、わたしの背筋を冷やした。
彼女たちは、何も知らない。
ただ、上から降ってきた噂を、無邪気に転がしているだけ。
けれど、その無邪気さこそが、噂をいちばん速く運ぶ。
嫌な予感が輪郭を持ち始めた。
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茶会を辞して、回廊を急ぐ。
月の光が、窓から青白く差し込んでいた。
頭の中で、点と点が勝手に線を結んでいく。
連絡の遅れ。
屋敷を嗅ぐ男。
財務府の「不正」の噂。
——全部、同じ一つの方向を指している。
小さな異変が、同じ方向を指して三つ重なったら、それはもう「事故」ではない。
「人災」の前触れだ。
誰かが、意図して、何かを動かしている。
それを、いちばん警戒しろ——そう、骨身に染みついている。
そして今、わたしの周りで起きている三つの異変は、すべて——わたしと、エリアスの「秘密」を、指している気がした。
誰かが動き出した。
それも、こちらが密会に夢中になっている、その隙を突くように。
(迂闊だった。わたし、あの人に会える嬉しさで——肝心の、足元を見ていなかった)
恋に浮かれて、警戒が緩む。
それは、いちばん避けたかった失策だ。
なのに、やってしまった。
自分への怒りで、唇を噛む。
点と点が、線になり、線が、不吉な形を描いていく。
今回の異変が厄介なのは、それが、人の手で、意図して仕掛けられているということ。
自然は悪意を持たない。
けれど、人は持つ。
だからこそ、人災は、ずっと読みにくい。
相手が、こちらの裏をかこうとするから。
こちらが備えれば、向こうは備えの隙を突く。
終わりのない読み合い。
——けれど、それこそが、わたしの本領だった。
最悪を想定し、その先の最悪まで想定する。
怖がりだからこそ、誰よりも先に、手を打てる。
部屋に戻ると、机の上に、新しい密書が一通、置かれていた。
ノエルの筆跡。
先ほどの遅れを取り戻すように。
開くと、エリアスらしい、短い一文だけ。
『しばらく動くな。風向きが変わった』
たったそれだけ。
けれど、その短さが事態の深刻さを物語っていた。
彼もまた、何かを察したのだ。
わたしより、早く。
紙を、もう一度、裏返してみる。
何も書かれていない。
けれど、筆跡がわずかに乱れていた。
いつもの彼なら、もっと整った字を書く。
この乱れは、急いで書いた証。
彼の方でも、何か、よほどのことが起きている。
帝国側でも風向きが変わった。
ライエル側でも網が張られ始めた。
——二つの国で同時に。
まるで、申し合わせたように。
(偶然、なわけがない)
誰かが、両方を同時に動かしている。
その「誰か」の影が、霧の向こうにぼんやりと見えた気がした。
(……向こうの岸も、同じ空気を読んでる)
動くな、と書いてある。
会いたい、ではなく。
彼らしい。
いちばん危ないときに、いちばん欲しいものを、自分から遠ざける人。
その不器用な気遣いが、こんなときなのに、胸の奥をひとつ、温かくした。
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窓辺に立ち、夜を照らす王都を見下ろす。
二人だけの秘密は、ずっと、わたしの胸の中で小さく光っていた。
会えない時間に、次に会える日を数える。
それが、わたしの密やかな喜びだった。
ノエルを介して交わす短い密書。
ヤコブの商隊に紛れての、ほんのわずかな逢瀬。
どれも、危険と隣り合わせの、ささやかな時間。
それでも、その一つ一つが、わたしには、何ものにも代えがたい宝だった。
その光に、今、影が差している。
誰かが、わたしたちの綱渡りを、下から見上げている。
糸が一本でも切れれば、二人とも、まっさかさまだ。
(守らなきゃ。彼を。ベルント様を。……それから、自分も)
夜が過ごしやすい気温であり、とても心地いい夜だった。
しかし、その心地よさがかえって不気味だった。
嵐の前の、凪。
残り、六ヶ月半。
砂時計の砂がまた音もなく落ちていく。
——次に動くのは、向こうが先か。
わたしが先か。
その問いの答えは、思っていたよりずっと早く突きつけられることになる。
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