第19話「数字を追う者から、奪う」
第19話「数字を追う者から、奪う」
ベルントが捕らえられた。
その報せが届いたのは翌日の夕暮れだった。
わたしは、ローザの差し出した一枚の走り書きを何度も読み返した。
『財務官ベルント・フォス、公金横領の嫌疑により拘束。財務府にて取り調べ中』
何度読んでも、文字は変わらなかった。
手が冷たくなっていく。
侍女が心配そうにわたしを見ていた。
「お嬢様……?」
「……お茶を、淹れてくれる? 濃いものを」
声が、平静を装えているか、自信がなかった。
動揺を悟られたくない。
こういうときの熱い茶は、頭を冷やすのに、いつも効いた。
公金横領。
——よりによって、それを。
帳簿の不正を、誰より誠実に追っていた人が。
その当人が、不正を働いた罪人に仕立て上げられた。
(……上手い。悔しいけど、上手い)
火を消そうとした者を放火犯に仕立てる。
証拠そのものを消すより、ずっと巧妙だ。
これを描いたのは、相当に頭の回る人間。
しかも——「公金横領」という罪状の選び方が巧妙だった。
これなら、ベルントが「帳簿の不正を追っていた」という事実そのものを、逆手に取れる。
「不正を追うふりをして、自分が横領していた」と。
真実を、嘘で塗り潰す。
最も誠実だった行いを、最も汚い罪にすり替える。
ベルントが追っていた帳簿は、当然、押収されただろう。
「証拠品」として、合法的に。
そして、誰の手で改竄されようと、罪人の手元から出た帳簿に信は置かれない。
証拠を握り潰すのに、これ以上きれいな手はない。
わたしの脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
慇懃で冷たい、宰相の顔が。
オスヴァルト・フォン・グレーフェンベルク。
ロデリックの、父。
この国の宰相。
国を「効率化すべき機構」としか見ていない男。
感情を見せず、合理だけで、人を駒のように動かす。
——その男が、ついに、こちらの相棒に手をかけてきた。
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その夜、わたしは父コンラートの書斎を自分から訪ねた。
無関心だった父との距離は、この数ヶ月で少しだけ縮まっていた。
娘の変化に父も気づき始めている。
「父上。ベルント・フォスという財務官を、ご存じですか」
父は書類から顔を上げた。
「フォス? ……ああ、下級貴族の真面目な男だな。
それが、どうかしたか」
「彼が横領の嫌疑で捕らえられました。——でも、彼はやっていません。わたしが保証します」
父の眉がわずかに動いた。
「ずいぶん、はっきり言うな」
「事実ですから」
わたしはまっすぐ父を見た。
ここで怯んだらベルントを救えない。
父は、しばらくわたしを見つめてから、低く言った。
「……お前は変わったな、ヴィオラ。昔のお前なら、こんな話を持ち込んでは来なかった」
「ええ。変わりました。それで——お願いがあります。彼の拘留が法に則っているのか。穏健派の伝手で調べていただけませんか」
父はすぐには答えなかった。
羽根ペンを置き、長い指でこめかみを押さえる。
「……ヴィオラ。一つ答えなさい」父が低く言った。「お前は、なぜ、一介の財務官のために、そこまでする。下手をすれば、アッカーマン家まで火の粉をかぶる」
問われて、わたしは、束の間、迷った。
亡国のことはまだ言えない。
けれど、嘘もつきたくなかった。
「……父上。この国は、いま、静かに病んでいます。重税、物価高、民の不満。そして、それを『隣国のせい』とすり替えようとする、誰かの影。ベルント様は、その病の証拠を握っていました。彼を見捨てれば——証拠ごと、闇に葬られます」
父の目がわずかに見開かれた。
「お前は……そこまで見ているのか」
「ええ。見たくなくても見えてしまうのです」
長い、沈黙。
父は、何かを見極めるように、わたしを見つめていた。
これまで、娘の顔など、ろくに見たこともなかった人が。
「……考えておこう」
それで充分だった。
父が「否」と言わなかった。
それどころか、「考える」と言った。
それだけで、一歩、前に進んだ。
穏健派の重鎮である父が動けば、拘留の合法性を突く道が開けるかもしれない。
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部屋に戻り、わたしは一人、考えを巡らせた。
引っかかることが一つあった。
宰相はベルントを法的に拘束した。
けれど——わたしには、まだ手を出していない。
帳簿の不正を追っていたのは、ベルントとわたし、二人だ。
なのに、捕らえられたのはベルントだけ。
なぜ、わたしは無事なのか。
(……答えは、たぶん一つ)
冷たい答えが胸に落ちてくる。
ベルントは下級貴族の文官。
後ろ盾もない平民同然の身分なら、嫌疑の段階で、いくらでも合法的に縛れる。
時間を奪い、口を塞ぐのは、たやすい。
けれど、わたしは公爵令嬢だ。
アッカーマン家は穏健派貴族の象徴。
その娘に露骨に手を出せば、中立の貴族たちが一斉に離反する。
宰相の「合法的に権力を集める」やり方そのものが崩れてしまう。
だから、宰相はわたしを捕らえない。
(——いいえ。捕らえ「られない」だけじゃない。捕らえ「たくない」のね)
もう一つの理由に思い至って、わたしはぞっとした。
宰相の筋書きでは、わたしは冬至の大舞踏会で、大勢の前で断罪される「悪役令嬢」だ。
その断罪劇を、開戦世論の号砲に使うつもりなのだ。
つまり、わたしは——傷物にも、罪人にもできない。
きれいなまま、断罪の舞台に立たせるための、生贄として。
殺すより、使う方が価値が高い。
(……合理的すぎて寒気がする。これが、本物の悪なのね)
身分の高さが、わたしを守っている。
同時に、その高さが、わたしを「もっと残酷な役」に縛りつけている。
皮肉な話だった。
そしてベルントは、その身分を持たないというだけで、いま冷たい牢の中にいる。
その不公平さに、こぶしが震えた。
ベルントはいつも言っていた。
「数字は嘘をつきません」と。
生真面目で、早口で、目の下に隈をつくって、たった一人で帳簿の闇と戦っていた人。
その人を、わたしは「一人で抱えるのは、やめましょう」と誘った。
なのに——いちばん危ういところで、彼を守れなかった。
(……わたしが、巻き込んだ)
罪悪感が胸を締めつける。
けれど、ここで自分を責めて立ち止まるのは、いちばんの愚策だ。
前世で、嫌というほど学んだ。
後悔は、一秒だけ。
あとは、手を動かす。
ベルントを、助け出す。
証拠を、守り抜く。
そのために、できることを、一つずつ。
---
眠れない夜だった。
動くな——エリアスの密書を思い出す。
彼の言う通り、今は迂闊に動けない。
歯がゆさが胸を焦がす。
ベルントの顔が浮かんだ。
冷たい牢の中で、彼は今、何を思っているだろう。
わたしを恨んでいるだろうか。
それとも——それでも、数字は嘘をつかないと、信じているだろうか。
会いに行きたい。
けれど、迂闊に動けば、彼の罪を「裏づける」ことになりかねない。
歯がゆさに、爪が手のひらに食い込む。
そのときだった。
窓の外で、こつ、と小さな音がした。
開けると、街頭だけが照らされている中、窓辺に小さな包みが一つ。
誰かが、置いていったのだ。
ノエルの手回しだろう。
包みを開くと——香りが、ふわりと立ち上った。
乾いた香草を布に包んだもの。
火にくべれば、煙とともに、ほのかな香りが満ちる種類の。
それは、いつか密会の合間に、わたしがふと漏らした話だった。
「眠れない夜は、香草の匂いを嗅ぐと少し落ち着くんです」と。
何気ない、世間話のような一言。
彼はそれを覚えていた。
包みに短い紙が添えられていた。
『眠れない夜は、これを。——会えない。だが、お前を一人にはしない』
声も、姿もない。
ただ、彼の気遣いだけが、夏の夜にまっすぐ届いていた。
(……ずるい)
動くな、と突き放しておいて。
いちばん欲しいものを、黙って置いていく。
寡黙なくせに、こういうときだけ、雄弁すぎる。
香草を火にくべると、白い煙が立ち上った。
温かい香りが部屋に満ちる。
その香りは、いつか彼が、ぽつりと話してくれた、帝国の夏の匂いだった。
「故郷では、心を落ち着かせる際に、これを焚く」と。
あのとき、彼の声には、めったに見せない柔らかさがあった。
その柔らかさを、いま、わたしの部屋を充満している。
孤立しているはずなのに。
たった一人で敵の只中に立っているはずなのに。
——ひとりだ、と思えなかった。
煙の向こうで、わたしはそっと、こぼれそうになる涙を指で拭った。
泣いている場合じゃない。
ベルントを助け出さなければ。
証拠を守り抜かなければ。
それでも、彼が貸してくれた温もりの分だけ、わたしはまだ立っていられる。
たった一人で、敵の只中に立っているはずなのに。
声には出せなくても、確かに支えてくれる人がいる。
それが、こんなにも心強い。
残り、六ヶ月。
夏が始まりかけた気配がする。
この日は、とても深く眠ることができた。
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