第20話「わたしたちは、敵同士」
第20話「わたしたちは、敵同士」
会うな、と書かれた密書を、わたしは破れなかった。
会うな。
でも、会いに行った。
——我ながら、救いがない。
きっかけは、ベルントの件で動くうち、どうしても帝国側の情報が要るようになったことだ。
そう、自分に言い訳をした。
本当は、ただ、声が聞きたかっただけかもしれない。
会うな、動くな。
彼の密書は正しい。
頭では、痛いほど分かっている。
今は、息を潜めているべきだと。
それなのに、足が勝手に向かってしまう。
会えば会うほど危険だと知りながら、会わずにいることの方がもっと苦しい。
——恋をすると暴走列車になるというのは本当だったのね、と心の中で苦笑する。
ヤコブに無理を言って、王都の外れ、古い水車小屋に、ほんの短い時間だけ。
エリアスは先に来ていた。
夏が始まったことを感じさせる薄い恰好をして。
わたしを見ると、その琥珀の瞳がはっきりと険しくなった。
「会うな、と書いた」
開口一番、低い声。
怒っている。
——わたしのために。
「……ええ。読みました」
「読んで、来たのか」
「読んで、来ました」
わたしが言い切ると、彼は深く息を吐いた。
呆れと心配と、それから——隠しきれない、安堵が混じった息を。
その息に、ほんの少しだけ救われる。
怒っているのはわたしが大事だから。
来てくれて安堵したのも、わたしが大事だから。
彼の不器用さは、いつだって、そういう形をしている。
「……あの香草、ありがとうございました」
つい、口をついて出た。
「おかげで、少し眠れました」
エリアスは、虚を突かれたように、目を逸らした。
「……礼はいらない」
いつもの台詞。
けれど、その耳が、星明かりの中でも分かるくらい、わずかに赤かった。
(……照れてる。この人、命がけの状況で何やってるんですか。——いえ、わたしも何を言っているんだか)
---
「ベルント様のことで、帝国側の動きを知りたいのです」
わたしは用件から切り出した。
これ以上、彼に心配の顔をさせたくなかった。
「捕らえられたのは、わたしと帳簿を追っていた相棒です。宰相は、確実にわたしたちに気づいている。あなたの方は——大丈夫ですか」
「わたしのことはいい」エリアスは短く言った。「帝国側でも妙な動きがある。わたしの動きを誰かが嗅ぎ回っている。——だが、それより」
彼はそこで言葉を切った。
星明かりの中、わたしを見つめている。
何かを確かめるように。
長い沈黙。
「ヴィオラ嬢」
彼がわたしの名を呼んだ。
いつもより硬い声で。
「お前は、自分が今、どれだけ危ういか、分かっているのか」
「……分かっています」
「分かっていない」
彼が、一歩踏み込んだ。
「もし分かっていたら、お前はここにいない」
その低い声に、わたしは言葉を失った。
「お前の周りには、もう網が張られている。それを承知で、敵国の皇子に会いに来た。——もし今、ここを見られたら。お前は言い逃れができない」
その通りだった。
ぐうの音も出ない、正論。
「ベルントという男が捕らえられたのだろう」エリアスが続けた。「次はお前だ。宰相は外堀から埋めてくる。お前に近い者から、一人ずつ。——その流れの中で、お前が敵国の皇子と会っていたと知れたら。お前を守る理由が誰にもなくなる」
冷たい事実を、彼は淡々と並べる。
けれど、その声の底に、隠しきれない震えがあった。
怒りではない。
恐れだ。
わたしを失うことへの。
「あなたを危険にさらしたくありません」わたしは、絞り出すように言った。「だから、これきりに——」
「違う」
彼が遮った。
「危ういのはお前の方だ」
---
沈黙が、静かな夜に広がっていく。
水車は、止まっていた。
回らない水車のそばで、わたしたちは向かい合っていた。
「……なぜ、あなたは」
わたしは震える声で問うた。
「なぜ、そんなに、わたしのことを」
言ってしまってから、しまった、と思った。
その先を聞いてはいけない。
聞けば、わたしたち、引き返せなくなる。
エリアスは答えなかった。
代わりに、一歩、距離を詰めた。
土を踏む、低い音。
近い。
彼から、柑橘系とかすかな鉄の匂いがする。
見上げた琥珀の瞳が、わたしだけを映していた。
「……分かっている、はずだ」
彼の声が掠れた。
「お前も、わたしも。
これが何なのか」
息が止まった。
その先を彼は言わなかった。
言えなかったのだ。
わたしと同じように。
わたしたちは、互いの想いを、もうとっくに知っている。
知っていて、口にできずにいる。
口にした瞬間、それは「禁断」という名の崖から、足を踏み外すことになるから。
ライエルの公爵令嬢。
ヴェルゴ帝国の第二皇子。
今まさに戦争へ追い込まれようとしている、二つの国。
「——わたしたちは」
わたしは、自分の喉から、言葉を引きずり出した。
彼の代わりに。
残酷な現実の名前を。
「敵同士、です。エリアス様」
その一言が、二人の間に見えない川を引いた。
---
エリアスの瞳が痛みに揺れた。
けれど、彼は否定しなかった。
否定できなかった。
それが事実だから。
「……ああ」
低く、彼が頷いた。
「敵同士だ」
その言葉を彼の口から聞いた瞬間、わたしの胸が引き裂かれるように痛んだ。
自分で言わせたのに。
自分で、言ったのに。
近づいた距離は、あと一歩で触れられた。
手を伸ばせば、彼に届いた。
なのに、その一歩を、二人とも踏み越えなかった。
踏み越えてはいけないと、互いに知っていた。
それは、相手を想うからこそ。
彼に触れれば、彼を破滅に引きずり込む。
わたしに触れれば、わたしを断頭台に近づける。
想いが深いほど、距離を取らなければならない。
こんなに残酷な恋があるだろうか。
「……帝国側の情報は、ノエルを通じて送る」
エリアスが先に背を向けた。
その声に、いつもの硬さが戻っていた。
けれど、背中が震えているのが分かった。
「もう、自分から会いに来るな。次は、わたしが許さない」
「……はい」
「——約束だ」
頷きながら、わたしは奥歯を噛んだ。
守れる自信なんて、なかった。
彼の顔を見れば、また足が向いてしまう。
それが分かっているから、よけいに苦しい。
その「約束だ」が、刃のように胸に刺さった。
以前、彼は同じ言葉で、わたしを守ると誓った。
「お前を、危険な目には遭わせない。
約束する」と。
あのときの「約束」は、二人を繋ぐ糸だった。
なのに今、同じ言葉が、二人を引き離すために使われている。
会うな、と。
近づくな、と。
——それも、わたしを守るために。
守るための言葉が、二人を遠ざける。
そんな矛盾を、彼は背負っている。
一人で。
いつものように、誰にも弱音を吐かずに。
それが、たまらなく切なかった。
彼の優しさは、いつも、自分を犠牲にする形をしている。
庇って、突き放して、遠ざけて。
全部、わたしを守るために。
「……エリアス様」
呼びかけた声に、彼の足が、一瞬、止まった。
土を蹴る音が、ふつりと途切れる。
けれど、振り返らない。
振り返れない。
それが、彼の精一杯だと、分かってしまう。
「ご無事で。——どうか」
それだけ、言えた。
彼は、何も答えなかった。
ただ、わずかに頷いたように肩が動いた。
それだけ言って、彼は、暗闇の中へ歩き出した。
一度も振り返らずに。
振り返れば、その一歩を、踏み越えてしまうから。
たぶん、彼も、ぎりぎりだったのだ。
わたしと同じくらい。
---
水車小屋に、一人残されて。
わたしは、その場にしゃがみ込んだ。
静寂が広がっている。
さっきまで彼がいた場所に、香りだけが残されて、それも、すぐに上書きされていく。
水がない水車は回らない。
本来なら、水を汲み、人の暮らしを回すための車輪。
それが、止まっている。
——わたしたちと、同じだ。
理由がなければ会えない。
その理由でさえ、一つのきっかけで崩れてしまう。
(敵同士。——ええ、そうよ。最初から知っていた)
知っていて、惹かれた。
知ってなお、止められなかった。
頬を、冷たいものが伝った。
雨ではない。
それが何なのか、認めるのが怖くて、わたしは空を見上げた。
夏の空は私の心とは、真逆に燦然と街を照らしている。
好きだと言えないことが、こんなにも苦しいなんて。
会えないことが、こんなにも、世界を色褪せさせるなんて。
知らなかった。
誰かを想う気持ちが、これほど甘く、これほど痛いものだとは。
立場が二人を引き裂く。
国境という、越えられない川が流れている。
それでも——わたしの胸は、彼の名前を呼ぶのをやめてくれなかった。
(エリアス。……エリアス)
声には出さず、心の中でだけ。
何度も、何度も。
表向きは「エリアス様」と呼ぶその名を、心の中では、敬称も取り払って、ただ「エリアス」と。
その小さな違いが、わたしだけが知っている、わたしだけの、密やかな想いの形だった。
残り、六ヶ月。
夜は、わたしの言葉も、彼の匂いも、すべてを飲み込んでいった。
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