第7話「敵を、好きになってはいけないのに」
第7話「敵を、好きになってはいけないのに」
眠れなかった。
天井を見上げて、わたしは自分に何百回も言い聞かせた。
あの人は敵だ。
忘れろ。
会うな。
考えるな。
——そう思おうとしたが、無理だった。
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朝が来ても、夜会の喧騒も、帳簿の数字も、何一つ頭に入らなかった。
ペンを握っても、書きつけるのは亡国回避の計画ではなく、無意味な螺旋の落書きばかり。
ローザが心配そうに顔を覗き込む。
「お嬢様、お顔の色が……どこか、お悪いのですか? このところ、ため息ばかりついていらっしゃいます」
「いいえ。少し、考え事を」
「考え事、ですか。……失礼ですが、その考え事、お顔が赤くなったり青くなったり、忙しいご様子で」
「気のせいよ、ローザ」
「……はい。気のせいですね」
ローザは、明らかに信じていない顔で引き下がった。
鋭い。
市井で揉まれた侍女の観察眼を、甘く見ていた。
わたしは考え事をしている。
世界一、認めたくない種類の。
(令嬢ヴィオラ、自己分析の時間ですわ。あなたは今、敵国の皇子のことばかり考えています。——控えめに言って、最悪。自分から地雷原に向かうようなものですわね)
自己嫌悪が波のように押し寄せた。
わたしの国は彼の国に滅ぼされる。
原作ではそうなっている。
なのに、その国の皇子に心を奪われるなんて。
民を裏切るような、後ろめたさ。
(冷静になりなさい、ヴィオラ。彼は、これから国境に火をつける側の人間かもしれない。情で目を曇らせるのは危機管理職として最低の失策。判断は事実だけを根拠にしなさい)
そう、何度も言い聞かせる。
けれど——事実を並べてみても、おかしいのだ。
冷酷な侵略者と噂された皇子が、なぜ素性を隠してまで、この国の倉庫街にいたのか。
なぜ商隊の隊長と密談していたのか。
攻め込む準備、とは限らない。
むしろ——彼は、何かを「探って」いるように見えた。
わたしが、火種を探していたのと、同じように。
(……買いかぶり、かしらね。会ったばかりの敵国の皇子を)
それでも、目を閉じれば、彼の謝罪の声が蘇る。
「……すまない」
あの一言には、敵の傲慢さなんて欠片もなかった。
あったのは痛みだけだった。
侵略者が、なぜ痛むのだろう。
望んで国を焼く人間が、なぜ。
その「なぜ」が、消えてくれない。
消えてくれれば、彼をただの敵として心から締め出せるのに。
事実を並べれば並べるほど、彼を「敵」の箱に収めきれなくなっていく。
困った話だ。
本当に。
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数日後。
わたしは、もう一度、彼に会うことになる。
会いたかったわけじゃない——そう自分に言い訳できたら、どんなに楽だっただろう。
ヤコブ伝手に例の商隊の隊長から伝言がきた。
その内容が「殿下が、もう一度だけ話したいと」と聞いた時、わたしの心臓は亡国のカウントダウンを忘れて跳ねた。
指定された場所は、王都の外れにある打ち捨てられた礼拝堂の跡。
人目につかない場所。
(罠かもしれない。敵国の皇子が、敵国の令嬢を呼び出す。これ以上に怪しい状況、危機管理の教科書に載せたいくらいだわ)
行ってはいけない。
万が一を考えれば行くべきではない。
理性は完璧に正しいことを言っている。
それなのに。
足は、もう向かっていた。
マントの下で、護身用の小刀を一本だけ握りしめて。
最悪に備える癖は抜けないのに、最悪を避ける選択だけが、どうしてもできなかった。
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彼は先に来ていた。
崩れかけた礼拝堂の椅子に座っていた。
月光が、割れた天窓から差し込んで、彼の黒髪を青く染めていた。
供も連れず、たった一人で。
皇子が、敵国の只中に、護衛もなく。
それが何を意味するのか、わたしにも分かった。
彼もまた、この会見を誰にも知られたくないのだ。
立場を捨てて、ここへ来ている。
「来たな」
エリアスが、こちらを見た。
表情は乏しい。
けれど、わたしが小刀を握りしめているのを見ても、彼は身構えなかった。
むしろ、その目には——来てくれたことへの、かすかな安堵が滲んでいた気がした。
「……来ない方が、よかったかもしれません」
「そうだな」
彼は否定しなかった。
代わりに静かに続けた。
「だが、来てくれた」
その言葉が、胸の奥をじんと熱くした。
(ずるい。寡黙なくせに、たまに刺してくる。この人の言葉、防御が間に合わない)
わたしは、本題を切り出すことで自分を立て直そうとした。
「殿下。一つ、確かめさせてください。あなたは——戦争を望んでいますか」
エリアスの琥珀の瞳が揺れた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「戦は、民を薪にする」
たった一言。
けれど、それで充分だった。
その声には、噂された「冷酷さ」など、欠片もなかった。
あったのは、薪にされる側を——名もなき民を、確かに見ている目だった。
為政者の多くが決して持たない目だ。
(ああ。やっぱり、この人は)
彼は戦争を望んでいない。
「冷酷な侵略者」と噂された皇子は、自国の暴走を誰よりも憂いていた。
原作が彼の何を見ていたのか。
きっと、何も見ていなかったのだ。
顔も、声も、この目も。
ただ「敵」という記号だけを、貼り付けて。
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「兄が」
エリアスがぽつりと漏らした。
珍しく、自分から。
それから、続く言葉を探すように口を閉じた。
言いかけて飲み込む。
そのわずかな逡巡が、かえって雄弁だった。
彼の背後に、たやすくは語れない事情が——血を分けた誰かとの、深い軋みが横たわっていることを、その沈黙が教えていた。
「……望まぬ戦を、望む者がいる。わたしの、すぐ近くに」
それだけ言って、彼はまた口を噤んだ。
詳細は語らない。
語れないのか、語らないと決めているのか。
きっと、両方だ。
彼の沈黙には、軽々しく他人に明かせない重さがあった。
血を分けた者を語ることは、自分の弱みを差し出すことに等しい。
それを、出会って間もない敵国の令嬢に、易々と渡すはずがない。
(……それでいい。今は、それで充分)
無理に聞き出そうとは思わなかった。
手の内を一度に全部見せ合う関係は脆い。
少しずつ、互いの覚悟を測りながら——それが、危なっかしい同盟の、正しい歩幅だ。
けれど、その横顔で充分だった。
握りしめた拳。
固く結ばれた口元。
立場に縛られ、誰にも本心を言えずにいる、一人の人間の輪郭が、月光の中にくっきりと浮かんでいた。
わたしと同じだった。
国は違う。
立場は敵同士。
それでも、抱えている孤独の形が、こんなにも似ている。
「殿下」
わたしは、一歩分だけ彼に近づいた。
彼の影がわたしに重なる距離まで。
「わたしも戦争を止めたいのです。理由は……いつか、お話しします。でも、今は信じてください。わたしたちの目指す先は、同じです」
エリアスが、わたしを見た。
驚きと、それから——すがるような、何か。
「敵国の令嬢の言葉を、信じろと?」
「ええ。敵国の皇子のあなたを、わたしが信じるのと、同じだけ」
彼が、息を呑んだのが分かった。
「……奇妙な令嬢だ」彼は低く呟いた。「敵に向かって、信じる、と言い切る。普通は、できない」
「ええ。わたしも、自分でどうかしていると思います」
正直に答えると、彼の口元が、また、ほんのわずかにほどけた。
あの庭園の夜と同じ表情。
それを見られただけで、ここまで来た甲斐があったと思ってしまう自分がいる。
二人の間で、何かが静かに繋がろうとしていた。
それは、恋と呼ぶには危険すぎて。
同盟と呼ぶには温かすぎた。
(敵を好きになってはいけない。——でも、利害が一致するなら、昨日の敵とでも組む。これは、そういうこと。そういうことに、しておく)
苦しい言い訳だと、自分でも分かっていた。
冬至の大舞踏会まで、十ヶ月。
割れた天窓の向こうで、温かくもか細い月光が二人を照らしていた。
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