第6話「あなたが、敵国の皇子だなんて」
第6話「あなたが、敵国の皇子だなんて」
「エリ」と呼んでいた彼は、商人の荷の陰に立っていた。
王都の外れ、ヤコブの商隊が荷を解く倉庫街。
素性を確かめに来たわたしの足が、そこで凍りついた。
なぜ、あなたが、ここにいるの。
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ことの起こりは、ヤコブの一言だった。
「お嬢様。例の帝国の動き、商隊の連中に探らせときましたよ。なんでも、皇子のお付きの者が、この王都に紛れ込んでるって話で」
帝国の密偵が王都に。
「ヤコブ。その密偵、どこで動いてるか分かる?」
「お嬢様、まさか自分で確かめに行く気じゃ……いや、その顔は行く気ですね。うちと最近懇意にしている商隊があるのですが、そいつらが倉庫街の北付近で見慣れねえ連中とよく話しているとか」
ヤコブの話を聞いたわたしは、ローザも連れずに一人で倉庫街へ向かった。
(無謀なのは分かってる。前世のわたしなら、絶対に部下を止めた行動。でも——敵の正体を確かめる好機を、みすみす逃せない。原作の「顔のない侵略者」が、どんな人間なのか。それを知らずに計画なんて立てられない)
夕暮れの倉庫街は荷馬車の影が長く伸びていた。
そこで見たのだ。
商隊の隊長らしき人物と低い声で何か話し込む、長身の青年の後ろ姿を。
知っている。
この背中を、わたしは知っている。
「……エリ、様?」
声が勝手に漏れた。
青年が振り返る。
琥珀の瞳がわたしを捉えて——そして、彼もまた固まった。
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数秒の沈黙が永遠に思えた。
夕日が二人の間に橙色の帯を引いていた。
先に口を開いたのは、彼だった。
低く、掠れた声で。
「……アッカーマン公爵令嬢」
わたしの全身から、血の気が引いた。
なぜ、彼がわたしの名を知っている。
素性を隠して出会ったはずなのに。
「エリ」も、わたしも、互いに名乗らなかったのに。
その答えは、彼の次の一言を待つまでもなかった。
隊長が、慌てて膝をつき、青年に向かって囁いたのだ。
「で、殿下。こちらの令嬢は——」
殿下。
隊長は、言ってしまってから、しまった、という顔で口を噤んだ。
けれど、もう遅い。
その二文字は、夕暮れの倉庫街に、はっきりと放たれてしまった。
その言葉が、雷のようにわたしを撃った。
(殿下。皇子。帝国の。——嘘でしょう)
「エリ」。エリアス。ヴェルゴ帝国、第二皇子。エリアス・フォン・ヴェルゴ。
頭の中で、二つの像が、ようやく一つに重なる。
回廊で肩を支えてくれた不器用な手。
原作で、この国を焼く顔のない皇子。
ずっと、別々の引き出しにしまっていたものが——音を立てて、同じ箱に落ちた。
原作で「冷酷な侵略者」と名前だけ語られた、わたしの国を滅ぼす——敵国の皇子。
それが彼だった。
あの庭園で、わたしの孤独を言い当てた、あの人だった。
回廊で、不器用にわたしの肩を支えた、あの人だった。
——よりによって。
世界で、いちばん。
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世界が、音を失った。
倉庫街のざわめきも、荷馬車の軋みも、遠くへ退いていく。
わたしはただ、彼の琥珀の瞳を見ていた。
彼もまた、わたしから目を逸らさなかった。
逸らせなかった、と言うべきか。
その瞳に走った感情を、わたしは読み取ってしまう。
驚き。
そして——痛み。
彼も知ったのだ。
おそらく先ほど。
「エリ」が言葉を交わしたあの令嬢が、敵国ライエルの公爵令嬢で。
原作で語られる「悪役令嬢」で。
本来なら、決して心を許してはならない相手だったと。
夕日が、二人の影を地面に長く伸ばす。
どちらも、動かない。
動けない。
息をするのも忘れて、わたしたちは見つめ合っていた。
逃げなければ、と理性が言う。
礼をして、立ち去れ、と。
けれど、足が根を張ったように動かなかった。
彼の瞳が、わたしを縫い留めて離さない。
風が、彼の黒髪を揺らした。
その一筋が額にかかっても、彼は払おうとすらしなかった。
ただ、わたしを見ていた。
痛むような、惜しむような、それでいて——目を逸らすのが惜しいような目で。
何か言わなければ。
何か。
喉が震えるばかりで、言葉にならない。
二人の間で、橙色の光だけが、ゆっくりと藍色へ沈んでいく。
その沈黙の長さが、わたしたちが「ただの敵同士」ではもうないことを、何より雄弁に証明していた。
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どれほどそうしていたか。
先に動いたのは、彼の方だった。
けれど、その一歩を踏み出すのにすら、何かを断ち切るような決意が要ったのが、見ていて分かった。
「お前は」
ようやく、エリアスが口を開いた。
喉の奥から、無理に言葉を引きずり出すように。
「アッカーマン公爵家の、ヴィオラ嬢か」
——お前。
庭園では「あなた」と呼んだ人が、今は「お前」と呼んだ。
素性が割れて取り繕う必要が消えた。
その分だけ、彼の声から余所行きの薄皮が一枚、剥がれていた。
不思議と突き放された気はしなかった。
むしろ、距離が近くなった気さえした。
こんなときに、そんなことを思う自分が嫌になる。
「……はい」
否定できなかった。
喉が、震えていた。
「では、わたしは」
彼の声が、ほんのわずか掠れた。
「お前にとって、排除しなければいけない敵だな」
その言葉が、胸に刺さった。
彼が言ったのに、わたしの方が痛かった。
(違う。あなたは敵じゃない。——いいえ、敵なの。敵のはずなの。なのに、どうして)
なぜ、こんなにも嫌じゃないのだろう。
なぜ、彼が「敵だ」と言ったその瞬間に、わたしの胸は「そんなはずない」と叫ぶのだろう。
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エリアスは、それ以上近づかなかった。
ただ一度だけ、ゆっくりと目を閉じて、また開いた。
何かを、飲み込むように。
「……すまない」
ぽつりと、彼が言った。
何に対する謝罪なのか、わたしには分からなかった。
正体を隠していたことか。
敵だったことか。
それとも——こんな形で、二人の間に落雷を落としてしまったことか。
たぶん、そのどれもで、そのどれでもない。
彼自身にも、言葉にできない何かが、その一言に込められている気がした。
夕日が沈み、倉庫街に夜の藍が満ちていく。
わたしたちは敵同士だった。
知らずに惹かれて、そして知ってしまった。
これ以上に残酷な物語の始まり方はあるだろうか。
逃げなければ。
ここにいてはいけない。
敵国の皇子と人気のない倉庫街で二人きり。
これ以上に危険な状況は、ない。
それでも——わたしの口から出たのは、糾弾でも、悲鳴でもなかった。
「殿下」
わたしは令嬢の礼をとった。
震える膝で、それでも背筋を伸ばして。
彼を、ただの「敵」として扱うための、せめてもの線引き。
そうでもしなければ、足が、彼の方へ向いてしまいたくなるだろうから。
「わたしは、何も見なかったことにします。あなたも、どうか……」
それ以降の言葉はかすれて出てこなかった。
そう言って踵を返した。
足が鉛のように重かった。
背中に、彼の視線をずっと感じていた。
それは追ってこなかった。
追えなかったのだ。
互いの立場が、二人を引き離していた。
倉庫街を抜け、人気のない路地でようやく、わたしは壁に背を預けた。
膝が笑っていた。
(……整理しましょう、ヴィオラ。あなたが惹かれていた「エリ」は、敵国の第二皇子。原作で、この国を焼く侵略者。つまりわたしは、よりによって、世界でいちばん惹かれてはいけない相手に、惹かれていた)
頭では、完璧に理解できる。
理解できるのに、胸がまるで言うことを聞かない。
「敵だ」と聞かされた瞬間、真っ先に湧いたのが「だったら何?」だったのだから、どうしようもない。
(……これは、まずい。本当に、まずい)
冬至の大舞踏会まで、十ヶ月。
国が滅ぶまでの時間より、ずっと深い場所で、わたしの何かが、音を立てて崩れていた。
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