第5話「火種と、消えない面影」
第5話「火種と、消えない面影」
帳簿の数字から戦争の臭いがした。
まだ起きてもいない戦の費用が、もう紙の上で膨らんでいる。
これは天災じゃない。
誰かが火をつける準備をしている。
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王宮の文書室は、紙とインクと埃の匂いがした。
わたしは父コンラートの伝手で、財務の控えに目を通す許可をもぎ取っていた。
表向きは「公爵令嬢の社会勉強」。
中身は亡国の火種探しだ。
父は、娘の急な変化に戸惑いつつも、「学びたいなら好きにしなさい」とだけ言った。
長年、わたしに無関心だった父にしては上出来の反応だ。
利用できる伝手は、家族でも遠慮なく使う。
背に腹は代えられない。
(戦争は「理不尽な天災」じゃない。誰かが起こす「人災」。——なら防げる。地震は止められないけど、放火なら、火種をつける人物を止めればいい)
原作の年表を頭の中でなぞる。
開戦の引き金は——国境のグレンツ地方、ローレン川のほとりで起きる「挑発事件」。
原作では「帝国が攻めてきた」と語られる。
でも、真エンドで見た設定を思い出せばあれは仕組まれた偽旗である、と想像がつく。
王国側が火をつけた火種を、帝国が放火したことにし、開戦の大義をでっち上げる。
火元は外側ではなく確実に内側にある。
——それをわたしは見つけなければいけない。
(放火犯は、消火活動の輪の中に紛れて自分の仕事を眺めているもの。前世でも、そういう事件をいくつも見てきた)
国を焼こうとしている人間は、きっと今この瞬間も、忠臣の顔をして王宮を歩いている。
それがわたしにとって、一番厄介であり、とても恐ろしい。
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「数字は嘘をつきません。でも、誰かが嘘の数字を書いている」
そう言ったのは、財務官のベルント・フォスだった。
二十五歳の若い文官。
生真面目で、早口で、目の下に隈がある。
「ここを見てください、アッカーマン様。軍需の支出が戦の前から計上されています。まだ始まってもいない戦の費用が、どうして先に積まれているんでしょう」
その問いの答えを、わたしだけが知っていた。
(戦争は誰かにとっては事業なの。始める前から予算を組み、利益を生み出す。そして、それを実行している人物が上層部にはいるの)
「ベルント様。この数字を誰にも見せずに、写しを取っておいていただけますか。……できれば、別々の場所に、何枚も」
ベルントが目を見開いた。
「それは……まるで握り潰されることを前提にしたような」
わたしは苦笑した。
「ええ。最悪を想定するのは、わたしの悪い癖ですの」
ベルントは、しばらくわたしを見つめてから、ふっと肩の力を抜いた。
「……ずっと、一人でこの帳簿を抱えていました。
誰に言っても、気のせいだ、出過ぎた真似をするなと。
あなたのような方が、いてくださるとは」
その声に、ずっと孤独に戦ってきた者の安堵が滲んでいた。
わたしには、覚えのある響きだった。
「一人で抱えるのは、もうやめましょう。ベルント様。——その代わり、絶対に無茶はしないで。あなたが消えたら、この数字を読める人がいなくなる」
火種は特定した。
金の流れも掴みかけている。
あとは——火をつける者の正体だ。
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文書室を出て、回廊を歩く。
冬至の大舞踏会まで十ヶ月。
原作でわたしが断罪される、その日だ。
わたしには、それまでに解決しなければいけない問題が山ほどある。
——なのに。
ペンを置くと、わたしはまた別のことを考えていた。
あの人のことを。
数日前、息の詰まる夜会を抜け出した先で、わたしは素性を隠した一人の青年と言葉を交わした。
心の中で「エリ」と呼ぶことにした、あの人だ。
黒髪に、琥珀の瞳。
表情は乏しいのに、言葉は不思議とまっすぐで。
わたしが誰にも言えずに抱えていた孤独を、彼は一言で言い当てた。
——あなたは、笑顔の下で損得を数えることを、数え損ねているような顔をしていた、と。
(……忘れなさい。あの人が誰かも分からない。二度と会わない相手かもしれない)
そう言い聞かせるのに、すぐ彼の声が蘇る。
国が滅ぶまで残り三年。
別のことに構っている場合じゃないのに。
(わたしの頭の優先順位、完全にバグってる。亡国の危機と見知らぬ青年。どう考えても前者でしょう。なのに、後者の方が胸の奥でずっと光ってる)
回廊の窓から雪が積もった庭が見えた。
それでも、わたしの目はつい庭園の方を探してしまうのだった。
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それは迂闊だった。
考え事をしながら角を曲がったわたしは、向こうから来た人物と危うくぶつかりかけた。
「——っ」
とっさに身を引く。
相手の腕が、すっと伸びて、わたしの肩を支えた。
倒れる前に。
低い聞き覚えのある声。
「危ない」
息が止まった。
黒髪。
長身。
仕立てのいい外套。
そして——琥珀の瞳。
(……嘘。なんで、ここに)
王宮の回廊。
文書室の帰り。
あの庭園の人が、なぜここに。
心臓が理由を考えるより先に跳ね上がった。
「あ……あの夜の」
声が上ずる。
彼もまた、わたしを見て、ほんのわずか目を見開いた。
気づいたのだ。
庭園で「名乗らぬ同士」と笑い合った、あの令嬢だと。
「観察家、さん」
呼びかけると、彼の口元が、ほんの少しだけ動いた。
あの夜と同じ、微かな反応。
たったそれだけで、胸の奥がふわりと浮き立つのだから、わたしの心はよほど安上がりにできているらしい。
肩に置かれた手が、まだ温かい。
支えられている、それだけのことなのに。
彼の手のひらの熱が、外套越しに、じわりと伝わってきて。
わたしは、自分の鼓動が彼に聞こえているのではないかと、本気で焦った。
「……すまない」
彼は、ぱっと手を離した。
まるで触れていたことに今気づいたかのように。
その引っ込め方が、妙に不器用で。
「いえ。助けて、いただいて。……ありがとうございます」
わたしの動揺が伝わらないように平静を装った感謝の言葉を口から紡ぐ。
「礼は、いらない」
短く彼は言う。
けれど、その目はわたしから逸れない。
逸れないまま、何かを探すように、わたしの顔を見ていた。
「あなたは……どうして、こんなところに」
問いかけた声を彼は遮らなかった。
けれど、答えもしなかった。
ただ、わたしの顔を見つめたまま、何かを迷うように口を開きかけ——
廊下の向こうから、人の足音が近づいてくる。
彼の表情が、ふっと閉じた。
再び、あの夜会の広間で見た、張り詰めた仮面。
「……行く」
「あ——次、は」
次に会ったら、名乗ると言ったのは、あなたではなかったか。
その言葉は、足音に飲まれた。
彼は一瞬だけ動きを止め、わたしを見た。
何か言いたげに。
けれど結局、外套を翻し、足早に去っていく。
その背中を見送りながら、わたしは肩に残る熱を、そっと手で押さえた。
(また、名乗らなかった。わたしも、聞けなかった。……ばかみたい)
けれど、たった数十秒の、偶然のすれ違い。
それだけで、わたしの一日は、もう帳簿の数字を忘れていた。
(……二度目、だわ。この人と会うのは)
そして、二度とも心臓が壊れそうになった。
これは、まずい。
何がまずいのか、自分でも分かっているくせに。
わたしは、それに名前をつけるのを、必死で避けていた。
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その夜、ヤコブという行商人を通じて、もう一つ噂が届いていた。
国境グレンツで、隣国ヴェルゴ帝国が妙な動きを見せている。
あの「冷酷な第二皇子」が、自ら出張っているのだと。
原作で名前だけ語られた、顔のない侵略者。
「冷酷」と噂されるその皇子の、本当の顔を確かめること。
それが、次の一手になる。
このときのわたしは、まだ二つを結びつけていなかった。
回廊で肩を支えてくれた、あの不器用な手の温もりと。
原作で国を焼く顔のない皇子とを。
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冬至の大舞踏会まで、残り十ヶ月。
砂時計の砂が、また一粒落ちた。
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