第4話「華やかさで、国は治まりません」
第4話「華やかさで、国は治まりません」
その夜から、わたしは少しだけおかしくなった。
亡国を止める算段を立てなければならないのに。
気を抜くと思考があの庭園へ戻ってしまう。
(琥珀色の、瞳)
机に向かいながら、またぼんやりしている自分に気づく。
頬を、ぱちんと両手で叩いた。
ローザが、紅茶を運んできながら、くすりと笑う。
「お嬢様、最近よくお一人で百面相をなさっていますね」
「……気のせいよ」
気のせいではなかった。
けれど、認めるのは癪だった。
「エリ」のことをローザに探らせようか、と一度だけ思った。けれど、やめた。あの夜の出会いを誰にも教えたくなかった。「名乗らぬ同士」の秘密の時間は、わたしだけの小さな宝物のようで。
(……我ながら子供みたいね)
苦笑して紅茶に口をつける。
だいたい考えてみればおかしいのだ。
わたしが断罪されるまで残り十ヶ月。
やるべきことは山積みで、味方も証拠も計画も何ひとつ揃っていない。
なのにわたしの脳内会議は、議題の半分を「あの琥珀色の瞳」が占拠している。
頭を振って、紙を引き寄せる。
やるべきことに集中しよう。
そう、何度も自分に言い聞かせて——三分後には、またペンが止まっているのだった。
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その日の昼。
わたしは貴族たちの茶会に出ていた。
情報収集のためだ。
亡国を止めるには、まず宮廷の力関係を知らなければ。
「やあ、ヴィオラ嬢」
棘のある声に現実へと引き戻される。
ロデリックだった。
取り巻きの令嬢たちを引き連れて、こちらへ歩いてくる。
その表情には、はっきりと見下しの色があった。
「先日の夜会では、ずいぶんと早く姿を消したそうじゃないか。婚約者として僕に恥をかかせる気か?」
(出た。理不尽な絡み)
以前のわたしなら俯いて謝っていた。
「申し訳ありません、ロデリック様」と。
か細い声で。
けれど今は違う。
「めまいがしたもので。ご心配をおかけしました」
「ふん。君はいつもそうやって逃げる。覇気がないんだ、覇気が。フローラ嬢を見てみろ。あの可憐さ。あの華やかさ。君には爪の先ほどもないものだ」
取り巻きたちがくすくすと笑う。
公衆の面前での侮辱。
物語のヴィオラなら、ここで涙を堪えて惨めに俯いた場面だ。
——でも。
(あいにく今のわたしは、そんな茶番に割く時間が惜しいのよ)
この男は知らない。
あと一年もすれば自分の国が燃え始めることを。
可憐だの華やかだのと言っている、その足元がもう崩れ始めていることを。
わたしは顔を上げ、令嬢の微笑みを崩さずに言った。
「華やかさで国は治まりませんわ。ロデリック様」
場が、しんと静まった。
取り巻きの令嬢たちの、くすくす笑いが、ぴたりと止まる。
俯いて謝るはずの「冴えない悪役令嬢」が、顔を上げて言い返した。
その想定外に誰もが言葉を失っていた。
「社交の場での品定めが、ずいぶんとお好きなご様子。でも、宰相家の跡継ぎでいらっしゃるなら——もう少し国の収支にもお目を向けてはいかが? 民がパンの値段に苦しんでいる、この時期に」
「な……」
「あら、失礼。数字はお嫌いでしたわね」
くすり、と。
今度はわたしが微笑む番だった。
ロデリックの顔がみるみる赤くなる。
言い返す言葉を探して、口をぱくぱくとさせて。
けれど、何も出てこない。
国の収支。
民の暮らし。
彼が一度もまともに考えたことのない領域。
痛いところを突かれたのだ。
「っ……君は変わったな。生意気だ!」
捨て台詞を残して、彼は足早に去っていった。
取り巻きの令嬢たちも慌ててその後を追う。
(生意気、ねえ。三年後に国ごと焼ける話に比べたら、生意気の一つや二つ、安いものだと思うのだけれど)
胸の中だけで、そっと舌を出す。
表向きは淑やかな令嬢の微笑みを崩さないまま。
後に残ったのは、ざわめきだった。
「今のアッカーマン令嬢……?」「あんな風に切り返すなんて」「冴えない方だと、思っていたけれど……」
貴族たちが、わたしを見る目が、わずかに変わっていた。
(……ふう。スカッとした、とは言わないけど。少しは見直されたかしらね)
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「ヴィオラ様」
ふいに、横から声をかけられた。
年配の伯爵夫人が、わたしを見ていた。
何度か夜会で見かけた顔。
けれど、言葉を交わしたことは一度もない。
「先ほどのお言葉。胸がすきました」
夫人は、扇の陰でそっと微笑んだ。
「民の暮らしを案じる令嬢など、近頃とんと見かけません。
——少し、見直しましたよ」
そう言い残して、夫人は去っていった。
後ろ姿には、長く宮廷を見てきた者の静かな矜持があった。
(……あら。意外なところに味方の芽が)
すかさず、頭の中で記憶に書き留める。
あの夫人の家名、派閥、宰相との距離。
前世なら、関係各所の連絡先を管理シートに控えるところだ。
使えるものは人脈であれ何であれ片端から把握しておく。
それが、わたしのモットーだ。
ロデリックをやり込めたことより、「民の暮らし」という一言に反応した人がいた。
それが何よりの収穫だった。
(味方は、こういう人の中にいるのかもしれない)
社交界は敵ばかりではない。
きっとどこかに、同じ憂いを抱えた人がいる。
それを見つけ出すこと。
それも、わたしの「計画」の大事な一手だ。
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茶会を辞して、わたしは一人回廊を歩いた。
窓の外には、冬枯れの庭園が見える。
枯れた薔薇のアーチ。
あの夜、「エリ」が立っていたあの場所。
なのにこんなにも、また会いたいと思っている自分がいる。
前世でも、こんな感覚は知らなかった。
仕事に追われ、恋なんてする暇もなく死んだ。
誰かを「また会いたい」と思う気持ちすら、なじみがなかった。
胸の真ん中が、温かくて、落ち着かない。
この感覚に、わたしはまだ名前をつけられずにいた。
——そのとき。
回廊の窓越し、庭園の奥に人影が見えた。
黒い外套。
長身。
心臓が跳ねる。
慌てて窓に駆け寄り、目を凝らす。
枯れた薔薇のアーチの下に確かに彼がいた。
「エリ」が。
誰かと低い声で何か話している。
その横顔は、いつかの夜よりずっと険しくて——纏う空気が、ただの夜会客のものではなかった。
話し相手の男は、商人風の身なりだが、立ち姿に隙がない。
ただの供ではない、と先読みの勘が告げる。
(……あの人、本当に何者なの。ただの、息の詰まった貴族じゃ、ない)
彼の連れらしき男が、ちらりとこちらの窓を見上げた。
わたしは、とっさに柱の陰へ身を引く。
次に目を凝らしたときには、もう二人とも、枯れた薔薇の向こうに消えていた。
風に揺れる、薔薇のアーチだけが残る。
(……今の、見間違いじゃ、ない)
落胆と、別の何か。
彼が「ただ者ではない」という予感が、胸の奥でちりちりと音を立てた。
わたしの先読みの癖が、警鐘を鳴らしている。
なのに——わたしの心は、警鐘より先に、ただ「また会いたい」と疼いていた。
(……まいったわね)
窓に、そっと手を当てる。
冷たいガラスの向こうに、冬の庭園が広がっている。
亡国を止める。
国を救う。
そのために、やるべきことは山ほどある。
なのに今、わたしの頭の大半を占めているのは、名も知らぬ青年の約束の言葉だった。
——次に会ったら、名乗ることにする。
(その「次」は。本当に、来るのかしら)
そして、もし来るのなら。
そのとき、わたしは彼の名前を知ることになる。
それが嬉しいことなのか、恐ろしいことなのか——このときのわたしには、まだ、見分けがつかなかった。
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