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第3話「名乗らぬ二人」

第3話「名乗らぬ二人」



心臓が跳ねた。


慌てて立ち上がり声のした方を見る。


庭園の奥、枯れた薔薇のアーチの下に、一人の青年が立っていた。


月光が、その輪郭を淡く縁取っている。


黒髪。


長身。


仕立てのいい外套を、無造作に羽織っている。


けれど礼服の華やかさはなく、どこかここに馴染まない雰囲気があった。


そして何より目を引いたのは——その瞳だった。


琥珀色の深い瞳。


こちらを見据えているのに、どこか遠くを見ているような。


(……誰?)


夜会の客だろうか。


けれど見覚えのない顔だった。


物語にも、こんな人物はいなかった。


素性の知れない相手と夜の庭園で二人きり。


最悪を想定するなら、すぐにでも立ち去るべき場面だ。


「……驚かせて、申し訳ありません」


それでも令嬢らしく、わたしは一礼した。


「広間が少し暑くて。


風に当たろうと、こちらへ」


「同じだ」


青年は、短くそう言った。


「あの場所は息が詰まる」


ぶっきらぼうな声。


けれど不思議と棘は感じなかった。


むしろ——「同じだ」というその一言が、妙に胸に残った。


「お名前を伺っても?」


わたしが尋ねると、青年は少し間を置いた。


「……名乗るほどの者ではない」


「あら。それは、わたしも同じです」


つい、本音が漏れた。


悪役令嬢ヴィオラ・フォン・アッカーマン。


名乗ったところで、相手の顔が「ああ、あの」と曇るだけ。


今夜は、それを見たくなかった。


青年の口元が、ほんの少し緩んだ気がした。


「では、名乗らぬ同士で、いい」


「ええ。そう、しましょう」


おかしな話だった。


素性も知らない男と夜の庭園で。


なのに足が動かなかった。


立ち去るべきだと頭の片隅が言っている。


けれどそれより強く、もう少しここにいたいと、別の何かが言っていた。


---


「……一つ、聞いていいか」


青年が噴水の方へゆっくり歩み寄りながら言った。


月光の下、その横顔がはっきりと見えた。


整った、けれどどこか張り詰めた顔。


表情がほとんど動かない。


「あなたは、なぜ、笑っていない」


「……え?」


「広間の女たちは、皆、笑っていた。あなたは笑っていなかった」


——見て、いたのか。


あの人混みの中で。


わたしのことを。


「……笑える気分では、なかったので」


「だろうな」


青年は、噴水の水面に目を落とした。


「あの広間にいる人間の九割は心の中で別のことを考えている。笑顔の下で損得を数えている」


低い声が空気の中へ静かに溶ける。


「——あなたは、それを数え損ねているような顔をしていた」


息を、呑んだ。


(……何、この人)


社交辞令でも、口説き文句でもない。


ただ見たままを、淡々と。


けれどその言葉は、わたしの胸の奥を正確に射抜いていた。


笑顔の下で損得を数える人々。


その中でたった一人、まったく別の「最悪」を数えていた、わたし。


誰にも言えない秘密を抱えて、たった一人で。


それを、この見知らぬ青年がたった数分で言い当てた。


「あなたは、わたしのことをずいぶんと見ているのですね」


少しだけ皮肉を込めて返す。


動揺を悟られたくなかった。


「観察は癖だ」


「奇遇ですね。わたしもそうです」


そう言って、わたしは青年の隣に少し距離を置いて立った。


なぜそうしたのか、自分でもよく分からなかった。


ただ、隣に立っても怖くないと思えたのだ。


---


「では、観察家同士。一つ、当ててみてくださいませ。わたしが今、何を考えているか」


挑むように言う。


たぶん虚勢だった。


青年は、わたしを横目で見た。


琥珀の瞳が月光を映してゆらりと揺れる。


しばらくの沈黙。


「……『この場所から、逃げ出したい』」


心臓が止まりかけた。


正解だった。


それも二重の意味で。


この広間から。


そして——この、滅びゆく国から。


「……はずれ、です」


かろうじてそう返した。


声が震えていないといいけれど。


「そうか」


青年は信じていない顔だった。


けれど追及はしてこない。


その沈黙が優しかった。


不思議な人だと思った。


言葉は少なく、ぶっきらぼうで。


なのにこちらの内側を、まるで読むように見抜く。


そして見抜いておきながら、それ以上は踏み込んでこない。


(……話していて苦しくない)


それが、どれほど久しぶりの感覚か。


前世でも今世でも、わたしはいつも誰かに合わせて、笑顔を作って、本音を呑み込んで生きてきた。


なのに、この名も知らぬ青年の前では虚勢すらなぜか心地よかった。


「……あなたは、なぜ、笑っていないのですか」


気づけば、わたしの方から尋ねていた。


青年はしばらく黙っていた。


冬の風が枯れた薔薇をかさりと鳴らす。


「——笑う理由がない」


ぽつりと、落とすように言った。


「望まぬ場所で、望まぬ役を演じる。


それの、どこに笑う理由がある」


その横顔には、わたしと同じ色があった。


立場に縛られ、本音を隠して生きる者の深い疲れ。


(ああ。この人もなんだ)


胸の奥が、きゅう、と鳴った。


同情とも違う。


もっと温かくて落ち着かない、不思議な感覚。


この広間で、笑顔の下に本音を隠していたのは、わたし一人ではなかった。


すぐ隣にもう一人いた。


---


「……名乗らぬ同士でよかったです」


わたしは小さく微笑んだ。


今夜、初めての笑みだった。


「素性を知らないからこそ、こうして本音が言えるのですもの」


青年がこちらを見た。


その琥珀の瞳が、ほんの一瞬驚いたように見開かれた。


そしてつられるように彼の張り詰めた口元が、わずかにほどけた。


笑った、というにはあまりに微かな変化。


けれど確かに。


(……今、笑った)


その瞬間を見てしまったことに、なぜか心臓が大きく鳴った。


そのとき、ふと、彼がこちらへ半歩、距離を詰めた。


「髪に花弁がついている」


青年の手が伸びてくる。


枯れた薔薇の乾いた花弁。


彼の指先が、わたしの亜麻色の髪をほんの一瞬だけ掠めた。


触れた、というほどでもない。


けれど、その指先の体温が、冷えた夜気の中で、やけにはっきりと伝わってきて。


息が止まった。


「……取れた」


青年は何でもないことのように身を引く。


指の間で、薄い花弁が、くるりと回って落ちた。


わたしの頬だけが、勝手に熱を持っていた。


月明かりで、ばれていないと、いいのだけれど。


(……今の心臓に悪い。何なの、この人。寡黙な顔して距離感がおかしい)


「あなたといると、妙だ」


青年が、目を逸らしながら、ぽつりと言った。


「普段は、無駄口を叩かない」


「あら。それは光栄ですわ。寡黙な観察家さんに無駄口を叩かせたのですから」


「無駄口とは言っていない」


「では、何と?」


青年は、答えに詰まったように目を逸らした。


その仕草が、なんだかひどく不器用で。


冷たく見える顔の奥に、こんなにも人間らしいものが隠れているのか、と。


わたしはひそかに、胸を温かくした。


---


遠くで夜会の終わりを告げる鐘が鳴った。


ゆっくりと、現実が戻ってくる。


「……戻らなければ」


名残惜しさを振り払うように、わたしは一礼した。


「短い間でしたが、楽しゅうございました。名も知らぬ観察家さん」


「ああ」


青年は、それだけ言った。


回廊へ向かおうとして、ふと足を止める。


——もう、この人に会うことはないのだろうか。


そう思った瞬間、胸を掠めた小さな痛み。


それに自分でも戸惑った。


振り返ると青年はまだこちらを見ていた。


月光の中、その瞳が何かを言いかけて留まる。


「次に会ったら」


低い声が夜に溶ける。


「……名乗ることにする」


それは約束の言葉だった。


わたしの心臓がまた一つ跳ねた。


(——次があるの?)


問い返す前に青年は背を向けていた。


外套の裾を翻し庭園の闇へと溶けていく。


その背中が消えてしまうまで、わたしはその場から動けなかった。


まだ冬を強く感じさせる、凍えた夜。


残された時間はあと約十ヶ月。


国を救わなければならない。


やるべきことは、山ほどある。


——けれど今このとき、わたしの頭を占めていたのは亡国でも宰相でもなかった。


名も知らぬ青年の微かな笑みだった。


回廊の柱の陰に身を寄せ、わたしは火照った頬を両手で包む。


名前を聞きそびれた。


だから——せめて、心の中でだけ。


(……「エリ」、とでも呼んでおこうかしら)


語呂がいいとか、深い理由はない。


ただ、名前のない人を、いつまでも「あの人」と呼ぶのは、落ち着かなかった。


それだけ。


本当に、それだけ。


(……我ながら、現金ね)


苦笑する。


けれど、心の中に小さな呼び名が一つできただけで、あの庭園の時間が、ちゃんと「あった」ことになる気がした。


本日の投稿は終了となります。

次の投稿は8/4の12:40となっておりますm(__)m

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