第2話「避難計画は、三段構えで」
第2話「避難計画は、三段構えで」
眠れない夜が明けても、記憶は消えなかった。
むしろ輪郭がはっきりしていく。
前世の記憶は、確かにわたしの中に根を張っていた。
朝の光が差す自室で、わたしは机に紙を一枚広げ、羽根ペンを取った。
書き出したのは、わたしの知っている「未来」だ。
婚約破棄。
その後、開戦。
二年で、亡国。
ペン先が、止まる。
(これは要するに——人災だ)
国家規模の、巨大な災害。
地震や水害と本質は変わらない。
違うのは、これが「自然」ではないということ。
戦争には起こす人間がいる。
火事には火元がある。
(なら——止められる、はず)
そう考えると、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
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「避難計画は、三段構え」。
本命、対抗、大穴。
一つの想定だけに賭けるのは素人のやることだ。
最悪はいつも想定の外から来る。
前世で嫌というほど思い知らされた。
ただ、今は計画以前。
まず、情報。
そして、味方。
どんなに正しい計画も、動かす人がいなければただの紙切れだ。
災害対応は、いつだって人と人の繋がりで回っていた。
一人で抱え込んで、消耗して倒れた人間が、ここに一人いる。
二度目は、御免だった。
物語の知識を、ひとつずつ思い返す。
開戦のきっかけ。
戦争の進み方。
引っかかったのは、その「きっかけ」だった。
物語の中で、戦争は「隣国が攻めてきた」という形で語られていた。
冷酷なヴェルゴ帝国が、平和なライエル王国を一方的に踏みにじる。
そういう筋書きだ。
でも、後日談の年表をよく思い出すと、その引き金はどうにも作られた気がしてならない。
国境で起きるある事件。
それが開戦の合図になる。
原作では「帝国の卑劣な挑発」として、たった一行で語られていた。
けれど、後日談の年表と照らし合わせると——その「挑発」が起きた直後に得をした人間が自国の側にいる。
あまりにも都合よすぎる人間が。
(まるで、誰かがわざと火をつけたみたいに……いえ。今は、そこまで踏み込めない)
材料が足りなさすぎる。
知っているのは「未来の結末」だけ。
なぜそうなるのか、誰が裏で動いているのか。
肝心な部分がまだ霧の中だった。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
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「お嬢様、朝のお召し替えを……あら」
入ってきたのは専属侍女のローザ。
机に向かうわたしを見て、少し目を丸くした。
「ずいぶんと早起きですね。それに——なんだか、背筋がしゃんとしていらっしゃる」
「……そうかしら?」
「ええ。昨日までのお嬢様と別人のようです」
別人。
言い得て妙だ、と内心で苦笑する。
半分は本当に別人なのだから。
ローザは平民の出だ。
市井の暮らしに近く、噂や情報に誰より通じている。
そしてこの人は、いずれわたしの本気を最初に信じてくれる人になるだろう。
物語の知識が、わたしにそう囁いた。
けれど今はまだ、何も打ち明けられない。
亡国の話なんて、口にした途端、頭のおかしな令嬢の烙印を押されて終わりだ。
少しずつ信頼を積み上げていくしかない。
「ローザ。一つ聞いてもいい?」
「なんでしょう」
「最近の街の様子はどう? パンの値段とか、人々の暮らしぶりとか」
ローザはきょとんとした。
わたしがそのようなことを尋ねるとは、想像していなかったのだろう。
なぜなら、今までのわたしはドレスと夜会の噂話にしか興味を示さなかったのだから。
「……正直に申し上げてよろしいので?」
「ええ。本当のことが知りたいの。綺麗事じゃなくて」
ローザは少し声を落とした。
「重税で皆さん苦しんでおりますよ。パン一斤がまた値上がりして。銅貨三枚だったものが、今では四枚です。市場じゃ、税のことで役人に食ってかかる人も増えてきて……たまに衛兵が出る騒ぎになります」
「……そう」
(まるで時限爆弾のようだ)
民の不満は、静かに、けれど確実に溜まっている。
そこへ戦争という火種が落ちれば一気に燃え上がる。
そして為政者は言うのだ。
「全部、敵国のせいだ」と。
本当の火元から目を逸らさせるために。
——物語の通りだった。
それも、想像していたよりずっと早く進んでいる。
「ローザ。その税は何のために集められているか、街ではどのようなうわさが流れているの?」
「さあ……お国を守るため、と。近頃はやけに『隣国が攻めてくるかもしれない』という噂が増えました。誰が広めているのやら。井戸端でも、酒場でも、判で押したように同じ話で。誰かがわざと種を蒔いているみたいです。」
(誰かが、ね……。ローザ、あなたの市井の勘は本物だわ)
民の恐怖を煽れば重税も飲み込ませやすい。
軍備の増強にも文句が出にくくなる。
憎しみは、為政者にとってこれ以上なく安価な燃料だ。
ペンの先でこつこつと机を叩く。
前世からの考え事の癖だ。
民の恐怖を煽り、税を絞り、敵国への憎しみを育てる。
——戦争へのお膳立てはもう始まっている。
「お嬢様。差し出がましいことを申し上げます。昨日までのお嬢様は、こういうお話をなさいませんでした。ロデリック様のことや、ドレスのことばかりで。でも、今のお嬢様は……なんだか、ずっとしっかりして見えます」
ローザの瞳がまっすぐにわたしを見ていた。
侍女の分をわきまえた人だ。
普段は決して、こんなことを言わない。
その彼女が口にした。
だからこそ、その言葉には重みがあった。
(……この人は見ている。わたしの変化を)
いつか、この人を頼ることになるかもしれないが今はまだ亡国の話なんて打ち明けられない。
それでも、その「いつか」のために、信頼の糸を一本ずつ繋いでおこう。
焦らず確実に。
前世で根回しの大切さは骨身に染みている。
「ありがとう、ローザ。聞いてくれてありがとう」
「……? いえ。わたくしは何も」
ローザは不思議そうに首をかしげた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
詮索しないこと。
それも優秀な侍女の美徳だ。
その距離感が今のわたしには、何よりありがたかった。
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その夜。
王宮の大広間は昨夜にも増して華やかだった。
社交の場こそ情報の宝庫だ。
貴族たちの力関係。
宮廷の空気。
誰が誰と繋がっているのか。
(行こう。敵を知らなきゃ戦えない)
ロデリックは案の定わたしには見向きもせずフローラの周りをうろついている。
(どうぞ、ご自由に)
未練の欠片もない。
むしろ清々しいくらいだった。
けれど、人々の視線は刺さる。
「冴えない悪役令嬢」を見る好奇と侮蔑の目。
情報を探そうにも、わたしには心を開く相手が一人もいなかった。
笑顔の仮面の下で皆が損得を数えている。
その中で、わたし一人だけが、まったく別の「最悪」を数えている。
それでも収穫はあった。
広間の隅で交わされるひそやかな会話。
「宰相閣下が、また軍備の予算を」「国境がきな臭いとか」。耳をそばだてれば、断片が拾える。誰が宰相グレーフェンベルク侯爵に媚び、誰が距離を置いているか。宮廷の力の地図が、おぼろげに見えてくる。
(……やっぱり中心にいるのは、宰相ね)
オスヴァルト・フォン・グレーフェンベルク——ロデリックの父であり、ライエル王国の宰相である。
きな臭い話には、グレーフェンベルク侯爵の名前が聞こえてくることも多い。
そこまで考えて息が詰まった。
一人であまりに多くを抱えすぎている。
(……少しだけ。外の。空気を)
回廊を抜け、人払いされた庭園へと、わたしはそっと足を踏み入れた。
冷たい夜気が火照った頬を撫でる。
月明かりに照らされた、冬枯れの庭園。
誰もいない静かな場所。
ようやく息ができた。
噴水の縁にそっと腰を下ろす。
冷たい石の感触がかえって心地よかった。
(誰か一人でいいからこの重さを分かってくれる人がいたら)
冬の星空を見上げる。
そんなことを思ったときだった。
——闇の向こうから、低い声がした。
「そこは冷えるぞ」
次の投稿本日の19時を予定しておりますm(__)m




