第1話「この国は、三年後に滅びます」
第1話「この国は、三年後に滅びます」
シャンデリアの光が、目に刺さった。
その瞬間、わたしは思い出した。
この国が三年後に滅びること。
そして、それを知るのが世界でわたしただ一人だということを。
「ヴィオラ。聞いているのか?」
声に、意識が引き戻される。
声の主はわたしの婚約者。
ロデリック・フォン・グレーフェンベルク。
宰相家の嫡男で、今夜の主役のはずの男だ。
けれど彼の視線は、わたしを通り越して広間の向こうへ流れていた。
その先には、男爵令嬢フローラ・ベルク——きれいな栗色の髪をした可憐な少女がいる。
彼女を見つめるロデリックの目だけが、今夜やけに澄んでいる。
「……申し訳ありません。少し、めまいが」
「ふん。婚約お披露目の夜に、しっかりしてもらわなくては困る。君は本当に、華がないな」
棘のある言葉。
普段なら、俯いて受け流していた。
けれど今夜のわたしは、それどころではなかった。
頭の中で、見たことのない映像と、見覚えのある記憶が激しく入り混じっている。
光の渦の向こうで、誰かが端末を叩く音。
サイレン。
避難所の毛布の匂い。
——ここではない、どこかの記憶。
これは——前世の記憶だ。
---
わたしには前世があった。
この世界の人間ではない、別の場所で生きた記憶。
災害に対して対応を行う公務員として働いていた。
来るかどうかも分からない災害に備えて、紙の上で何百通りもの「もしも」を数える。
地味であり、終わりのない仕事だった。
そして、働きすぎて倒れて死んだ。
我ながら、絵に描いたような最期だった。
そこまでは思い出した。
しかし、問題はその先だ。
前世のわたしは、あるゲームを繰り返し楽しんでいた。
『薔薇と剣の輪舞曲』。
略して『薔薇剣』。
西洋風の宮廷を舞台にしたゲームであり、いわゆる乙女ゲーと呼ばれるものである。
そして今、わたしの目の前で繰り広げられている、この夜会は——
(……嘘でしょう)
その物語の、一番最初の場面だった。
婚約者に冷遇される、地味な令嬢。
その婚約者が可憐なヒロインに一目で心を奪われる夜。
地味な令嬢の、名前は。
——ヴィオラ・フォン・アッカーマン。
わたし、だ。
つまりわたしは、あの物語に出てくる「悪役令嬢」に生まれ変わっていた。
ヒロインを妬み、いじめ、最後には大勢の前で婚約破棄され、断罪される。
哀れな噛ませ役。
(……まあ、いいです。断罪、上等です。)
正直に言えば、ロデリックへの想いなんて、記憶を取り戻した今、砂粒ほども残っていなかった。
婚約破棄、大いに結構です。
喜んでお受けします。
問題は、そこではないのだ。
---
わたしは前世で、この物語を「やり込んで」いた。
本編だけではない。
設定資料も、後日談も、隠された真エンドまで。
だから、知っている。
物語の本編が終わった後——つまり、この国に何が起きるのかを。
十ヶ月後、わたしが断罪される日に起きた事件がきっかけで、ライエル王国は、隣国ヴェルゴ帝国と戦争になる。
そこから、二年で完全に滅びる。
なぜ、そんな細部まで覚えているのか。
前世のわたしが、ただの暇つぶしでこの物語を遊んでいたわけではないからだ。
仕事で潰れた心を、寝る前のわずかな時間に、この煌びやかな宮廷の物語で慰めていた。
設定資料を隅まで読み込み、隠された真エンドにまで手を伸ばしたのは、たぶん、現実から逃げたかったから。
皮肉なものだ。
その逃避先が、まさか転生先になるなんて。
資料の最後のページにあった一枚の絵を思い出す。
焼け落ちた王都ヴァイスハイトの、灰色の風景。
崩れた尖塔。
煤けた石畳。
物言わぬ瓦礫の街。
その絵が今、この煌びやかな広間に、ぴたりと重なった。
背筋が、凍りつく。
楽団の音楽。
令嬢たちの笑い声。
グラスの触れ合う澄んだ音。
(ここにいる人たち、全員が。三年後にはいなくなる)
少し離れた席で、老いた伯爵が孫娘の手を引いて笑っている。
円柱の陰で、若い騎士が初々しく令嬢に花を渡している。
楽団の少年が、頬を上気させて弦を奏でている。
誰も知らない。
自分たちの足元で、もう終わりが始まっていることを。
(あの人も、あの二人も、あの子も)
三年後には、いなくなる。
焼け落ちた王都の灰色が、彼らの笑顔の上に、薄い膜のように重なって見えた。
知っているのは、わたし一人。
その事実が、喉の奥に苦い塊となってせり上がってきた。
めまいは、もう演技ではなかった。
「ヴィオラ嬢? おい、聞いているのか」
ロデリックの声が、苛立っている。
けれどその目は、もう半分、フローラへと向いていた。
栗色の髪の少女が小首をかしげるたび、彼の頬がだらしなく緩む。
物語の、お決まりの一幕。
婚約お披露目の夜に、婚約者がヒロインに見惚れる——よくある「悪役令嬢断罪」の、長い長い序章。
(どうぞ、お好きに。あなたに構っている場合じゃ、ないんです)
「……失礼します。少し、風に当たってまいります」
ロデリックの返事も待たず、わたしは壁際へと身を引いた。
誰も追ってこない。
婚約者でさえ、もうフローラの方しか見ていない。
それで、よかった。
今は、一人になりたかった。
考えなければならないことが、目の前の屈辱より、はるかに大きい。
---
冷たい窓ガラスに額をつける。
外は一面の銀世界。
(落ち着いて、わたし)
胸の奥で、深く息を吸う。
転生して悪役令嬢になったと気づいたら、普通はまず「自分の断罪をどう回避するか」を考えるのだろう。
婚約破棄を避けて、平穏に生き延びる。
それが王道のはずだ。
なのに、わたしときたら。
自分の身より先に、国の心配をしている。
三年後に訪れる、亡国という名の巨大な災害。
回避すべきなのは自分の破滅ではなく、この国の滅亡そのものだと、頭が勝手に切り替わっている。
(……職業病、かしらね)
我ながら、つくづく救いがない。
前世のわたしは、自分の休みを削ってでも他人の避難計画を立てる人間だった。
そういう生き方しか、知らなかった。
だから、結局、過労で死んだのだけれど。
——ええ、はい。
ちっとも学んでいません。
ガラスに映る自分の顔を見つめる。
亜麻色の髪。
灰青の瞳。
鼻のそばかす。
「冴えない」と笑われた、地味な令嬢の顔。
絶望している暇はない。
パニックは何も生まない。
手を動かした者だけが誰かを救える。
前世で、嫌というほど学んだ。
頭の中で、見えない砂時計がひっくり返る音がする。
落ち始めた砂は、もう止まらない。
——断罪される冬至の大舞踏会まで、残り十ヶ月。
味方はいない。
証拠も、計画も、何もない。
あるのは前世の記憶と滅びの結末を知っているという、たった一つの手札だけ。
(……心細いったら、ないわね)
正直、泣きたい気分だった。
けれど、弱音を吐くのは一秒だけ。
それが前世のルールだった。
一秒だけ嘆いて、あとは手を動かす。
それで、いくつもの危機を越えてきた。
(やるしかない。まずは——情報と、味方)
それが、滅びる国に転生した悪役令嬢の、最初の決意だった。
(……でも、正直勝てる気がまるでしないわね)
それでも、と思う。
知っているということは備えられるということだ。
砂時計の砂が落ちきる前に、できることを、一つずつ。
前世の自分に、それだけは負けたくなかった。
広間の方から何も知らない平和な夜の音が遠く聞こえてくる。
その音が今のわたしには、どこか哀しく響いた。
残された時間は、十ヶ月。
砂時計は、もう動き出している。
みなさま、はじめまして。
きなこ、と申します。
この度は私の作品である
「どうせ断罪されるなら、好きな人ごと国を救います 〜滅びる国の悪役令嬢、敵国の皇子と"戦争ごと"止めたら、冷酷なはずの彼に 溺愛されました〜」の1話を閲覧いただき、誠にありがとうございます。
本日は13時と19時に1話ずつ投稿予定ですので、先が気になった方はぜひ閲覧くださいm(__)m




