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第31.5話「SIDE エリアス ―― 継ぎ馬は、夜を駆ける」

ep26-30のエリアス視点です。

第31.5話「SIDE エリアス ―― 継ぎ馬は、夜を駆ける」



私は、言葉を惜しむ質だ。


言葉は、たやすく裏切る。


宮廷では、微笑みながら刃を研ぐ者ばかりを見て育った。


だから私は、口ではなく、手で示すことにしてきた。


庇う。


支える。


覚えておく。


それで足りると、思っていた。


――あの女に、会うまでは。


雪の丘だった。


ローレン川を見下ろす、グレンツの高台。


あと一月で、すべてが決する。


私は帝都へ戻らねばならず、あれはこの国に残る。


次に会えるのか、それすら分からない別れの前に、あの女は言った。


「もし、わたしが断罪されて、最悪、命を落とすようなことが、あっても。あなたは、計画を止めないでください」


自分を、計画の駒の一つのように数える。


いつもそうだ。


何万の民の命と、自分の命を、平然と秤にかけて、迷わず自分の皿を軽い方に載せる。


――許せなかった。


「お前を犠牲にして成る平和なら、私は要らない」


そう言った自分の声が、震えていた。


情けない話だ。


戦を止めるのは民のためだと、ずっと自分に言い聞かせてきたはずだった。


その大義の下に、いつの間にか、別のものが混じっていた。


あの女がいなくなる世界を、私は、想像できない。


それだけのことが、私の中の何もかもを、書き換えてしまっていた。


別れ際、私は外套を、あれの肩にかけた。


「冷える」――それだけ言って。


返す言葉も見つからず、私は背を向けた。


返してもらう。


その口実があれば、必ずもう一度、会える。


そう、自分に言い聞かせるように。


---


帝都アイゼンブルクは、いつもどおり、冷たかった。


石造りの宮廷。


磨かれた床。


誰もが微笑み、誰もが値踏みをする。


ここへ戻るたび、私は息を殺す癖を思い出す。


第二皇子。


予備。


兄の影。


――誰の目にも、私はそういう記号だった。


兄マクシミリアンは、武勲を欲していた。


戦を欲していた。


それが自分の玉座を確かにすると、本気で信じている。


国境の村が焼け、痩せた子どもが飢えても、兄にとってそれは「勝利の値段」でしかない。


その兄と、ライエルの宰相が、川を挟んで手を結んでいた。


民を薪にして、利を分け合うために。


私は、証拠を握っていた。


ヴィオラが託した、宰相と兄の結託を示す覚書の写し。


そして――ノエルが、傷を負ってまで奪ってきた、兄の署名入りの密書の原本。


だが、証拠だけでは足りない。


兄を止めるには、兄より上の権威が要る。


私は、父の寝室へ向かった。


---


病床の皇帝ラインハルト二世は、痩せていた。


かつて帝国を統べた獅子の面影は薄い。


それでも、その目だけは、まだ鋭かった。


父としての声で、何か言いかけた父を、私はあえて断ち切った。


「陛下。お話があります」


父の目が、すっと細くなる。


私の顔から、何かを読み取ったのだろう。


「……お前、覚悟を決めたのじゃな」


「はい。私は兄を止めます。そして、私がこの国を、ゆくゆくは治めます」


言ってしまえば、後戻りはできない。


第二皇子が、第一皇子を玉座から退ける。


それがどれほどの罪か、私が誰より知っている。


だが、私は目を逸らさなかった。


証拠を、父の枕元に並べた。


覚書。


密書。


国庫から傭兵へ流れた金の経路。


父の指が、一枚ずつ、それを追う。


長い沈黙のあと、父は、天井を見上げた。


「……否定しようが、ないの」


そして、痩せた手で、私の腕を掴んだ。


思いのほか、強い力だった。


「聞け、エリアス。マクシミリアンの捕縛と、軍権の停止――皇帝の名において、私が命を下す。だが、今ではない」


「今、では」


「早すぎれば、あれの派が気取る。軍を動かすか、海の向こうの宰相に報せを飛ばすか。どちらも面倒じゃ」父の目が、氷のように醒めていた。「執行は、事の起きる前夜。冬至の、前の夜と決めよ。――そのころには、報せが国境や王都へ渡る猶予もない。宰相は、自分の足元が崩れる朝まで、兄の失脚を知らぬままでいる」


冷徹な計算だった。


病に伏してなお、この人は皇帝だ。


「お前は、行け」父は言った。「兄の始末は、私が引き受ける。お前は――お前の"止めたいもの"が、川の向こうにあるのじゃろう」


私は、息を呑んだ。


父は、何もかも見透かしていた。


私が言葉にしなかったものまで。


「……なぜ、それを」


「顔に書いてある。お前が、そんな顔をするのを見るのは、初めてじゃ」


冷たい宮廷で、私は、初めて父に、深く頭を下げた。


種は蒔いた。


兄の捕縛は、冬至の前夜。


私は帝都に留まらない。


国境へ向かう。


あの女と、同じ朝、同じ川を見るために。


---


冬至の、夜明け前。


私は、ローレン川の、帝国側の岸に立っていた。


対岸は、ライエル。


国境の村ミューレン。


雪の中で、藍色の闇が、少しずつ薄れていく。


あれは、来る。


一度も打ち合わせていない。


文の一通も交わせなかった。


それでも、私には分かっていた。


あの女は、必ず、同じ朝、同じ川の、向かいの岸に立つ。


自分を軟禁する籠を、平然と抜け出して。


――なぜ、分かるのか。


私と、同じだからだ。


最悪を想定し、火元を先に押さえる。


放火犯が松明を掲げる、その瞬間を狙う。


それが、あの女のやり方で、そして、私のやり方でもある。


夜明け前のいちばん暗い時刻。


村のはずれで、松明の火が揺れた。


粗末な双頭鷲を掲げた、宰相の傭兵たち。


「囲め。一人も斬るな。生きたまま、確保しろ」


帝国側へ逃げようとした男を、音もなく取り押さえさせた。


血は流さない。


血が流れれば、それこそ「衝突」の証拠になる。


あの女が言ったとおりに。


火は、藁に移る前に、雪で消えた。


対岸を見た。


朝靄が、川面を白く覆っている。


顔は見えない。


それでも、あの立ち姿は、すぐに分かった。


庭園の夜も、回廊のすれ違いも、礼拝堂の月光の下も――私はいつも、あの女を、まず見つけてしまうのだから。


私は、対岸に向かって、小さく頷いた。


(――届いたか。お前の岸でも、火は消えた)


声も、文も、届かない距離。


それでも、あの女が唇を噛んで頷き返したのが、靄の向こうに、確かに見えた。


ひと月、声を聞けなかった。


その飢えのようなものが、たった一つの仕草で、川を越えて、まっすぐに埋まっていく。


だが――終わっていない。


私はまだ、知らないのだ。


帝都で、兄が本当に捕らえられたのか。


父の下した命が、前夜、滞りなく執行されたのか。


それを確かめるまでは、王都へ行っても、宰相の前で「帝国の火種は消えた」と言い切れない。


私は、待った。


川岸の凍えた風の中で。


ただ一騎の、報せを。


---


それは、朝の光が薄氷を照らし始めた頃だった。


街道の彼方から、蹄の音。


宿場ごとに馬を替え、夜通し駆け通してきた――継ぎ馬だ。


単騎では、帝都からこの国境まで、一夜では届かない。


だが、幾人もの手で繋いだ一頭の報せなら、夜を跨いで駆けてくる。


泥にまみれた早馬の使者が、私の前で膝をついた。


息も絶え絶えに、封を差し出す。


「――帝都、アイゼンブルクより。皇帝陛下の名において。第一皇子マクシミリアン殿下、昨夜、御身柄を確保。帝国軍の指揮権、凍結。滞りなく、執行されましてございます」


私は、封を握りしめた。


安堵は、なかった。


あったのは、静かな痛みだけだった。


血を分けた兄だ。


幼い頃、剣を教えてくれたのも、兄だった。


その手が、いつから、民を薪と数えるようになったのか。


私は、知らない。


知ろうとして、間に合わなかった。


だが、ヴィオラは、私に兄の血を流させなかった。


「討つのではなく、大義を奪う」。


誰も殺さずに戦を止める道を、あの女は、私のために、わざわざ選んだ。


私の心の傷を、自分の国の命運がかかった計画に、勘定として組み込んで。


そこまで人のために動ける人間を、私は、他に知らない。


――だから、行かねばならない。


「馬を」私は言った。「換えの、いちばん速いのを。王都まで駆ける」


国境から、王都ヴァイスハイトへ。


半日の、道のり。


あの女が、荷車で半日かけて渡る道を、私は馬で駆け抜ける。


日が暮れる前に。


夜会の、断罪の刻限に、間に合わせる。


雪解け前のぬかるんだ街道を、私は馬の腹を蹴って駆けた。


――待っていろ。


心の中で、繰り返した。


あの雪の丘で、私が言った、たった一つの不器用な約束を。


「外套を返してもらう日まで、生きていろ」。


もっと優しい言葉があっただろうに。


だが、私には、それが精一杯だった。


生きていろ。


私のところへ、それを返しに来い。


それが、私にできる、たった一つの、愛の伝え方だった。


---


王宮の大広間に踏み込んだとき。


シャンデリアの光の下で、あの女は、立っていた。


泥のついた裾。


震える膝。


それでも、まっすぐに伸びた背筋。


宰相の冷たい声に、一歩も退かず、令嬢の微笑みを崩さずに。


――ああ。


生きている。


無事だ。


その事実だけで、私の中で、ひと月ずっと張り詰めていた何かが、音を立てて緩んだ。


私は、帝国の正装のまま、人垣を割って、前へ出た。


「私はヴェルゴ帝国第二皇子、エリアス・フォン・ヴェルゴだ」


低く、広間じゅうに通る声で、私は言い放った。


「帝国は本日、出兵していない。ミューレンを襲撃した兵など、存在しない。あの旗は、帝国の旗ではない」


宰相の「大義」が、当事者の口から、根元から崩れていく。


私は、兄の密書を掲げた。


ノエルが、痛みと引き換えに奪ってきた、一枚の原本を。


すべてを言い終えて、私は、ただ一瞬だけ、あの女を見た。


広間の喧騒も、宰相の声も、すべて遠ざかって。


その視線だけが、まっすぐに、繋がった。


無事か、と。


声には出さず、目だけで、私は問うた。


あの女が、わずかに頷き返す。


ええ、無事です。


あなたも。


――それだけの、たった一往復。


それだけで、この一月の、飢えのすべてが、報われた気がした。


私は、言葉を惜しむ質だ。


だが、この女の前でだけは。


いつか、言葉を惜しまずに、伝えたいと思う。


行動でしか示せなかった、この不器用な気持ちの、名前を。


――もう少し。


もう少しだけ、待っていてくれ。


戦は、止まった。


二人を隔てていた壁は、崩れ始めている。


次に会うときは、隠れてではなく。


私は、そう、心に誓った。


捕縛されていく宰相の背を見送りながら。


滅びるはずだった国の、明けていく空の下で。


本日の投稿は終了となります。

次の投稿は9/14の12:40となっておりますm(__)m

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