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第32話「壁が、ひとつずつ崩れていく」

第32話「壁が、ひとつずつ崩れていく」



宰相が失脚した朝、王都の空は、嘘みたいに晴れていた。


何ヶ月も、わたしの頭の上には灰色の雲がかかっていた。


焼け落ちた王都の絵が、いつも視界の隅にあった。


それが今朝は、どこにも見当たらない。


(……あの絵が消えてる)


窓辺で、わたしはそっと息を吐いた。


まだ、半分も信じられなかった。


---


オスヴァルト・フォン・グレーフェンベルクは拘束された。


外患誘致と公金横領。


前世の言葉で言えば、最悪の二枚看板だ。


証拠は揃っていた。


帳簿の写し、傭兵団への支払いの経路、帝国強硬派マクシミリアンとの密書。


逃げ道は、一つも残っていない。


あれほど隙のなかった「合理の悪」が、自分よりも上の合理に、外堀から埋められて落ちた。


最後に対峙したとき、彼は一度だけ、その余裕の仮面を崩した。


わたしが半年も前から、すべての証拠を別々の場所に分散して保管していたと知ったときだ。


「実に……合理的だ」——そう呟いた彼の声には、初めて、苦いものが滲んでいた。


自分の合理を、より上の合理に上回られた、敗者の声だった。


国を「効率化すべき機構」としか見ていなかった男。


その男が、たった一人の十七歳の令嬢に——いいえ、前世の記憶を持つ危機管理職崩れの令嬢に、敗れた。


けれど、宰相が落ちたからといって、すべてが終わったわけじゃない。


災害対応で、いちばん厄介なのは「本震のあと」だ。


建物は揺れで傷んでいる。


そこへ余震が来れば、もう一度崩れる。


わたしには、まだ片づけるべき「余震」があった。


「お嬢様」


ローザが紅茶を運んできた。


その顔が、いつになく弾んでいる。


「街が、大変な騒ぎですよ。宰相閣下が捕まったって、もう知らない人がいないくらい。みんな半信半疑で——でも、どこか、ほっとしてるみたいで」


「そう」


「軍税の話も、立ち消えになりそうだって。パン屋のおかみさんが泣いて喜んでました」


ローザの言葉に、肩の荷が下りた気がした。


数字でしか見ていなかった「世論の火薬庫」。


その火薬が湿り始めている。


憎しみという安い燃料を、誰も買わなくなりつつある。


(火は消えた。あとは——片づけるだけ)


---


その「燃え残った薪」の一人が、午後、わたしの前に現れた。


ロデリック・フォン・グレーフェンベルク。


元・宰相の嫡男にして、わたしの婚約者だった男。


公爵家の応接間に通された彼は、見る影もなかった。


仕立てのいい服は皺だらけで、いつもの傲慢な笑みは消えている。


落ちくぼんだ目で、彼はわたしを睨んだ。


「……ヴィオラ。君が、父を陥れたのか」


「いいえ」


わたしは、令嬢の微笑みを崩さずに答えた。


「閣下は、ご自分で落ちられたのです。わたしは、ただ——落ちる場所に、敷布を敷かなかっただけ」


「っ……詭弁を」


ロデリックの拳が震えた。


けれど、振り上げられはしなかった。


彼にはもう、それだけの力も、後ろ盾も、残っていない。


知っている。


この男は、すべてを知っていたわけではないが、「悪役令嬢を断罪すれば、開戦の世論が動く」——その筋書きの、最初の一行くらいは、薄々知っていた。


けれど、彼は知らなかったのだ。


その筋書きの中で、最初に切り捨てられる駒が、自分自身だったということを。


「ロデリック様」


わたしは、静かに言った。


「閣下は、あなたを駒として使い、用が済めば切り捨てるおつもりでした。断罪劇のあと、世論が落ち着けば、あなたは『暴走した若造』として責任を負わされる予定だった。——昨夜の評定で、捕らえられた閣下が、ご自分の口で、そうお認めになりました」


ロデリックの顔から、血の気が引いた。


「……嘘だ」


「ご自分でも、薄々お気づきだったのでは?」


彼は答えなかった。


代わりに、ずるずると、その場に膝をついた。


傲慢で、見栄っ張りで、わたしを「冴えない女」と笑った男。


その背中が、今は、ただ小さく丸まっている。


(……ざまぁ、と言うには。少し虚しいわね)


スカッとは、しなかった。


彼は、ただの駒だった。


父という大きな歯車に、噛み砕かれただけの。


それでも、わたしは同情はしなかった。


彼にも選ぶ機会はあった。


フローラに見惚れ、わたしを侮辱し、父の言いなりになる道を、自分で選んだのだ。


「お引き取りください、ロデリック様。婚約は、王命で解消されます。——あなたとわたしの間に、もう、何もありません」


それが、わたしがこの男にかけた最後の言葉だった。


ロデリックは、廃嫡同然の身となり、領地の片隅へと退いた。


物語の「悪役令嬢を断罪する攻略対象」は、こうして、一行の後日談すら残さずに舞台から消えた。


---


夕暮れ。


わたしは、王宮の一室にいた。


向かいに座っているのは、フローラ・ベルク。


栗色の髪の、可憐な少女。


原作のヒロイン。


「ヴィオラ様」


フローラは、膝の上で両手を握りしめていた。


「わたし、ずっと……利用されてたんですね。


何も知らないまま」


宰相派は、彼女を「清純の象徴」に仕立てようとしていた。


慈善の催しに招き、市井と触れ合う絵を描かせ、やがては「戦争で傷つく無垢な民の象徴」として、開戦のプロパガンダの旗印に使うつもりだった。


純真で、人を疑わない彼女は、それに気づかないまま、舞台に上げられかけていた。


「あなたのせいでは、ありません」


わたしは首を振った。


「利用しようとした者が、悪いのです。あなたは何も悪くない」


「でも……わたしのせいで、ヴィオラ様が悪く言われて。本当は、ヴィオラ様がわたしを助けてくれたのに」


フローラの目に涙が浮かんだ。


そう。


原作では、わたしは彼女をいじめる「悪役令嬢」だった。


けれど、この物語では——わたしは、彼女を断罪せず、保護した。


彼女の誤解を解き、味方にした。


彼女は内側から、宰相派の世論操作の実態を証言してくれた。


その証言が、宰相を落とす一枚になった。


「フローラ様。一つ、お願いがあります」


「なんでしょう?」


「明日、王宮の評定で、あなたの名誉を回復します。あなたが宰相派に利用されかけていたこと。そして、何も知らずに巻き込まれただけだということを、わたしが公に証言します」


フローラが、目を見開いた。


「そんな……ヴィオラ様の方が、ずっと大変だったのに」


「いいえ」


わたしは微笑んだ。


「あなたが『清純の象徴』として使われたまま終われば、いつかまた、誰かが同じ手を使う。


だから、ここで断ち切るのです。


あなたは、誰かの旗印じゃない。


あなたは、あなた自身です」


「で、でも……」


「それにわたしを断罪する場で、あなたはわたしを守るために声を出してくれた。わたしの勇気ある恩人に、わたしも少しでも恩返しがしたいの」


その言葉を聞いたフローラは、しばらく言葉を失っていた。


それから、ぽろぽろと涙をこぼして、深く頭を下げた。


「……ありがとう、ございます。ヴィオラ様」


翌日の評定で、わたしの証言は、貴族たちの前で読み上げられた。


フローラ・ベルクは、宰相派の世論操作に無自覚に利用されかけた被害者であり、何ら罪はない。


むしろ、その清純さを政治の道具にされかけた、犠牲者である——と。


評定の場が、ざわめいた。


けれど、誰も反論しなかった。


証拠は揃っていた。


フローラを利用しようとした宰相派の計画書を、父が宰相の執務室から見つけ出していたのだ。


フローラの名誉は、回復された。


彼女は「利用された駒」から、「自分の足で立つ一人の少女」へと、戻った。


(……これで、また一つ。壁が崩れた)


評定の帰り道、わたしは回廊を歩きながら、指を折った。


宰相は、落ちた。


ロデリックは、退いた。


フローラは、解放された。


戦争という、わたしと彼を隔てていた一番大きな壁も、もう崩れ始めている。


二人を隔てていた壁が、ひとつ、またひとつと、崩れていく。


---


その夜、ヤコブの商隊を通じて、一通の密書が届いた。


差出人の名は、ない。


けれど、その筆跡を、わたしは知っていた。


何度も、繰り返し読んだから。


簡潔で、無駄がなくて、けれど不思議と温かい、あの人の字。


『そちらの片づけは、進んでいるか』


たった一行。


けれど、わたしの胸は、ぎゅっと締めつけられた。


帝国側でも、エリアスがすべてを収めたと聞いていた。


マクシミリアンは大義を失い、病床の皇帝ラインハルト二世の信任を背に、エリアスが軍権を凍結した。


戦争は、両国で、同時に止まった。


わたしと彼を引き裂いていた力は、もう、どこにもない。


(……会いたい)


その想いが、計画でも、政争でもなく、ただまっすぐに胸を満たした。


戦争という大義名分で、わたしは自分の本心に、ずっと蓋をしてきた。


「これは同盟だ」「利害が一致しているだけだ」と。


けれど、その大義名分が消えた今——わたしの胸に残っているのは、ただ、一人の人に会いたいという、剝き出しの気持ちだけだった。


わたしは、羽根ペンを取った。


返事を書こうとして、手が止まる。


何を書けばいいのだろう。


「会いたい」と? ——それは、あまりに危ない言葉だ。


迷った末に、わたしは、ただ一行だけ書いた。


『片づきました。——あなたに、会って、お話ししたいことがあります』


書いてから、頬が熱くなった。


(……我ながら、ずるい書き方ね)


「会いたい」とは書かなかった。けれど、書いたも同然だ。


密書を封じて、ヤコブに託す。


窓の外には、雪がやさしく空から降り注いでいた。


開戦のカウントダウンは、止まった。


砂時計は、もう、落ちていない。


——けれど、わたしの胸の鼓動だけは、一向に、止まってくれそうになかった。


二人を隔てる、最後の壁。


それはもう、「敵」でも「戦争」でもなかった。


ただ一つ残ったのは——まだ、互いに口にしていない、その言葉だけ。


本日の投稿は終了となります。

次の投稿は9/15の12:40となっておりますm(__)m

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