第31話「両国の火を同時に消す」
第31話「両国の火を同時に消す」
夜が明けていく。
大広間の高い窓から、冬至の朝日が白く差し込んでくる。
開戦予定だった、冬至の翌朝。
それは、何事もなかったかのように、ただ静かに訪れようとしていた。
砲声も、号令も、悲鳴も、ない。
昨夜、この広間で、すべてが引っくり返った。
偽旗は未遂に終わり、帳簿は暴かれ、宰相は捕らえられた。
そして――帝国の正装をまとったあの人が、衆人環視の中で言い放ったのだ。
「帝国の火種は、すでに消した」と。
その一言の重さを、わたしは、あとになって知った。
夜半、ヤコブの手の者が、そっと耳打ちしてくれた。
帝都では、冬至の前夜のうちに、第一皇子マクシミリアンの身柄が確保され、帝国軍の指揮権が凍結された、と。
継ぎ馬が夜を徹して運んだ報せを、エリアスは今朝、国境の岸で受け取り、それから半日、王都まで駆け通してきたのだという。
昨夜、彼が「間に合う」保証など、どこにもなかった。
国境の岸で別れて以来、わたしたちは一度も、互いの無事を確かめられなかったのだから。
それでも、彼は――間に合ってくれた。
(……ばかな人。半日も、馬を飛ばして)
胸の奥が、じん、と鳴った。
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詰めかけた貴族たちが、まだ呆然と立ち尽くす広間。
捕縛された宰相。
青ざめたロデリック。
涙ぐむフローラ。
その人垣の、向こう側に。
黒髪の、長身の人が、立っていた。
エリアス様。
彼も、こちらを見ていた。
広間の喧騒の中で、二人の視線だけが、まっすぐに繋がった。
ひと月、引き裂かれていた。
文も交わせなかった。
それぞれの岸で、それぞれの役を、果たしてきた。
そして今、戦争は起きなかった。
(……ねえ、エリアス様。わたしたち、やりましたね)
声には、出さなかった。
出せる距離じゃなかった。
それでも、彼の口元が、ほんのわずかに、ほどけた。
あの庭園の夜、初めて見た、微かな笑みと、同じ表情で。
冷酷だと噂された皇子の、誰も知らない、あの顔。
わたしだけが知っている、あの顔。
たったそれだけで、胸の奥が痛いくらいに、温かくなった。
彼が、人垣を縫って、こちらへ一歩、踏み出そうとした――気がした。
けれど、すぐに足を止める。
広間には、まだ大勢の目がある。
捕縛された宰相。
呆然とする貴族たち。
事の次第を、王へ報告する者。
終わったばかりの、戦後の混乱。
今は、近づける距離じゃない。
それでも、彼の琥珀の瞳は、ずっと、わたしから離れなかった。
離れたくない、とでも言うように。
(……あと少し。あと少しだけ、待っていてください)
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ふと、わたしは、広間を見渡した。
シャンデリアの光。
楽団の椅子。
円柱の陰。
――あの夜と、同じ広間だ。
前世を思い出し、焼け落ちた王都の灰色が、この煌びやかな景色に重なって見えた、あの夜。
あのとき、わたしは思った。
ここにいる人たち全員が、三年後にはいなくなる、と。
老いた伯爵が、孫娘の手を引いていた。
若い騎士が、令嬢に花を渡していた。
楽団の少年が、頬を上気させて弦を奏でていた。
誰も、自分たちの足元で終わりが始まっていることを、知らないまま。
その人たちが、今も、この広間にいる。
ざわめき、戸惑い、けれど――生きて、息をしている。
(……消えなかった。あの絵は、もう、どこにもない)
灰色の膜が、彼らの上から、剥がれ落ちていく。
そんな気がした。
わたしが守りたかったのは、これだ。
名前も知らない、この人たちの、何でもない明日。
それが、たった今、灰にならずに済んだ。
宰相は、衛兵に囲まれ、二度と、あの薄い仮面を取り戻さなかった。
ロデリックは、膝をついたまま、動けずにいる。
フローラは、涙をこぼしながら、それでも背筋を伸ばして、わたしの側に立っていた。
まだ、片づけるべきことは、山ほど残っている。
けれど――いちばん大きな火は、消えた。
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ローレン川に、冬の朝日が射している――そんな景色が、目に浮かんだ。
二つの国を隔てていた、あの川。
雪解けで増水する、あの境界線。
わたしたちを隔てていた壁は、敵国だった。
戦争だった。
その壁が、今、音もなく、崩れ始めている。
けれど、まだ、終わっていないものがある。
広間に残された者たちの、その後の始末。
利用されかけたフローラの、名誉。
驕った者たちの、それぞれの結末。
そして――川の向こうにいる、あの人と、わたし自身の、答え。
戦争という、いちばん大きな壁は、崩れた。
なら、残った壁は。
敵国の皇子と、滅びかけた国の令嬢という、二人の立場は。
(……それも、書き換えられるのかしら)
朝日の中で、わたしは、まだ言葉にできないその問いを、胸の奥に、そっとしまった。
砂時計の砂は、もう、落ちていなかった。
代わりに、別の何かが、胸の中で、静かに、けれど確かに、動き始めていた。
本日は番外編と合わせて2話同時投稿となっております。




