↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/34

第31話「両国の火を同時に消す」

第31話「両国の火を同時に消す」



夜が明けていく。


大広間の高い窓から、冬至の朝日が白く差し込んでくる。


開戦予定だった、冬至の翌朝。


それは、何事もなかったかのように、ただ静かに訪れようとしていた。


砲声も、号令も、悲鳴も、ない。


昨夜、この広間で、すべてが引っくり返った。


偽旗は未遂に終わり、帳簿は暴かれ、宰相は捕らえられた。


そして――帝国の正装をまとったあの人が、衆人環視の中で言い放ったのだ。


「帝国の火種は、すでに消した」と。


その一言の重さを、わたしは、あとになって知った。


夜半、ヤコブの手の者が、そっと耳打ちしてくれた。


帝都では、冬至の前夜のうちに、第一皇子マクシミリアンの身柄が確保され、帝国軍の指揮権が凍結された、と。


継ぎ馬が夜を徹して運んだ報せを、エリアスは今朝、国境の岸で受け取り、それから半日、王都まで駆け通してきたのだという。


昨夜、彼が「間に合う」保証など、どこにもなかった。


国境の岸で別れて以来、わたしたちは一度も、互いの無事を確かめられなかったのだから。


それでも、彼は――間に合ってくれた。


(……ばかな人。半日も、馬を飛ばして)


胸の奥が、じん、と鳴った。


---


詰めかけた貴族たちが、まだ呆然と立ち尽くす広間。


捕縛された宰相。


青ざめたロデリック。


涙ぐむフローラ。


その人垣の、向こう側に。


黒髪の、長身の人が、立っていた。


エリアス様。


彼も、こちらを見ていた。


広間の喧騒の中で、二人の視線だけが、まっすぐに繋がった。


ひと月、引き裂かれていた。


文も交わせなかった。


それぞれの岸で、それぞれの役を、果たしてきた。


そして今、戦争は起きなかった。


(……ねえ、エリアス様。わたしたち、やりましたね)


声には、出さなかった。


出せる距離じゃなかった。


それでも、彼の口元が、ほんのわずかに、ほどけた。


あの庭園の夜、初めて見た、微かな笑みと、同じ表情で。


冷酷だと噂された皇子の、誰も知らない、あの顔。


わたしだけが知っている、あの顔。


たったそれだけで、胸の奥が痛いくらいに、温かくなった。


彼が、人垣を縫って、こちらへ一歩、踏み出そうとした――気がした。


けれど、すぐに足を止める。


広間には、まだ大勢の目がある。


捕縛された宰相。


呆然とする貴族たち。


事の次第を、王へ報告する者。


終わったばかりの、戦後の混乱。


今は、近づける距離じゃない。


それでも、彼の琥珀の瞳は、ずっと、わたしから離れなかった。


離れたくない、とでも言うように。


(……あと少し。あと少しだけ、待っていてください)


---


ふと、わたしは、広間を見渡した。


シャンデリアの光。


楽団の椅子。


円柱の陰。


――あの夜と、同じ広間だ。


前世を思い出し、焼け落ちた王都の灰色が、この煌びやかな景色に重なって見えた、あの夜。


あのとき、わたしは思った。


ここにいる人たち全員が、三年後にはいなくなる、と。


老いた伯爵が、孫娘の手を引いていた。


若い騎士が、令嬢に花を渡していた。


楽団の少年が、頬を上気させて弦を奏でていた。


誰も、自分たちの足元で終わりが始まっていることを、知らないまま。


その人たちが、今も、この広間にいる。


ざわめき、戸惑い、けれど――生きて、息をしている。


(……消えなかった。あの絵は、もう、どこにもない)


灰色の膜が、彼らの上から、剥がれ落ちていく。


そんな気がした。


わたしが守りたかったのは、これだ。


名前も知らない、この人たちの、何でもない明日。


それが、たった今、灰にならずに済んだ。


宰相は、衛兵に囲まれ、二度と、あの薄い仮面を取り戻さなかった。


ロデリックは、膝をついたまま、動けずにいる。


フローラは、涙をこぼしながら、それでも背筋を伸ばして、わたしの側に立っていた。


まだ、片づけるべきことは、山ほど残っている。


けれど――いちばん大きな火は、消えた。


---


ローレン川に、冬の朝日が射している――そんな景色が、目に浮かんだ。


二つの国を隔てていた、あの川。


雪解けで増水する、あの境界線。


わたしたちを隔てていた壁は、敵国だった。


戦争だった。


その壁が、今、音もなく、崩れ始めている。


けれど、まだ、終わっていないものがある。


広間に残された者たちの、その後の始末。


利用されかけたフローラの、名誉。


驕った者たちの、それぞれの結末。


そして――川の向こうにいる、あの人と、わたし自身の、答え。


戦争という、いちばん大きな壁は、崩れた。


なら、残った壁は。


敵国の皇子と、滅びかけた国の令嬢という、二人の立場は。


(……それも、書き換えられるのかしら)


朝日の中で、わたしは、まだ言葉にできないその問いを、胸の奥に、そっとしまった。


砂時計の砂は、もう、落ちていなかった。


代わりに、別の何かが、胸の中で、静かに、けれど確かに、動き始めていた。


本日は番外編と合わせて2話同時投稿となっております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。