第30話「合理の悪は、より上の合理に敗れる」
第30話「合理の悪は、より上の合理に敗れる」
「衛兵! この令嬢を捕らえよ。証拠は捏造、女は敵国の手先だ」
宰相オスヴァルトが冷たく言い放った。
病弱な国王ヴィルヘルム三世と、宰相に取り込まれた王太子ジークベルトの権威を盾に、彼はなお、押し切ろうとしている。
証拠を捏造と断じ、わたしを逆に「帝国の手先」に仕立て直そうと。
(……来ると思った。あなたなら、必ずそう出る)
衛兵の槍が、わたしへと向きを変える。
——今だ。
ここまで温存してきたものを、ここで、一点に集中させる。
「衛兵諸君。その槍を、向ける相手を、間違えていないか」
大広間の扉が開いた。
進み出たのは、父コンラート・フォン・アッカーマン公爵。
その背後には、穏健派の貴族たちが、ずらりと連なっていた。
宰相の眉が、初めて、わずかに動いた。
---
(……これは、お父様の独断じゃない)
娘に無関心だった父が、こうして貴族連合の先頭に立っている。
その背中を見ながら、わたしは思う。
これは、父一人の手柄じゃない。
誰がどの利害で動くか。
どの中立貴族を、何で説得すれば、衛兵の指揮権を割れるか。
誰が宰相に恩があり、誰が密かに恨みを抱え、誰が中立の顔をして日和見を決め込んでいるか。
その票読みと、説得の順番と、切り出す言葉まで——その筋書きは、わたしが、ひと月前に描いたものだ。
前世で、災害のたびに繰り返した仕事。
各部署の長を、関係機関を、どう動かすか。
誰に先に話を通し、誰を最後に口説くか。
一人でも順番を間違えれば、根回しは崩れる。
動かない人間を無理に動かそうとせず、動く人間から確実に固めていく。
その地味な積み重ねの設計図を、宮廷という盤面に、そっくり置き換えただけ。
父コンラートは、その設計図を忠実に実行する役だった。
穏健派の重鎮として、人を集め、説き、束ねる。
それは、父にしかできない仕事だった。
(設計したのは、わたし。実行したのは、お父様。――決着を人任せにはしない。でも、一人でも、できなかった。設計図を描く者と、それを動かす者。どちらが欠けても、この包囲は完成しなかった)
「中立を保っておられた諸侯の半数が、すでにアッカーマン公爵の側に。宰相閣下。衛兵の指揮権は、もう、あなた一人のものではありません」
そして、広間の入口から、もう一つの影が進み出る。
黒髪。
琥珀の瞳。
長身。
帝国の正装に身を包んだ、その人。
「わたしはヴェルゴ帝国第二皇子のエリアス・フォン・ヴェルゴだ。」
低い、よく通る声が、広間を貫いた。
「帝国は本日、出兵していない。ミューレンを襲撃した兵など、存在しない。あの旗は、帝国の旗ではない。——縫い目を検めればわかる」
偽旗の前提が、当事者である帝国の口から、正式に否定された。
「帝国が攻めてきた」という、宰相の大義そのものが、根元から崩れていく。
(……エリアス様)
ひと月ぶりに見る、その顔。
今朝は、川向こうの靄の中に影だけだった。
今は、本物の彼が、シャンデリアの光の下に、はっきりと立っている。
黒髪。
琥珀の瞳。
長身。
帝国の正装が、悔しいくらいに似合っている。
あの庭園で「名乗らぬ同士」と笑い合った青年と、原作で国を焼くはずだった皇子が、今、同じ一人の人として、わたしを救うために、敵国の只中に立っている。
胸が、痛いくらいに高鳴った。
けれど、今は、見惚れている場合じゃない。
彼も、わたしも、それぞれの役を果たしている最中だ。
それでも——一瞬だけ、彼の琥珀の瞳が、わたしを捉えた。
たった一瞬。
広間の喧騒も、宰相の冷たい声も、すべて遠ざかって、その視線だけが、まっすぐに届く。
「無事か」と。声には出さず、ただ目だけで、彼はそう問うた。
わたしは、わずかに頷き返す。
ええ、無事です。
あなたも。
それだけの、たった一往復。
それだけで、ひと月分の不安が、すっと溶けていく。
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そして、決定打の三つ目。
エリアスが、一枚の書状を掲げた。
「宰相オスヴァルトと、帝国第一皇子マクシミリアンとの間で交わされた、密書。——その原本です。両国を戦わせ、その利を分け合う結託の証」
それは、ノエルが、帝国第一皇子から奪い取ってきた、ただ一枚の原本だった。
あの飄々とした従者が、命の危うい場所から、傷を負ってまで、持ち出してきた一枚。
(ノエル。あなたが払った代償の重さ、わたしは忘れない)
証拠は降ってこない。
空から、都合よく落ちてはこない。
決定打の一枚は、いつだって、誰かが、痛みと引き換えに、掴み取ってくるものだ。
それを、わたしはよく知っている。
前世でも、最後の一枚の証拠は、いつも誰かの覚悟の上にあった。
わたしはひと月前、エリアス様へ「あの第一皇子の紋が入った手紙」を託していた。
その手紙を頼りに、第一皇子と宰相の間に存在するであろう、正式な密書の原本を探してもらうように依頼していたのだ。
そして、それはノエルが持ち出し、現在、ここにある。
(武力は、最後の一手だけ。災害現場と同じ――力で押すのは、逃げ道を全部塞いでから。包囲が完成していない突入は、ただの蛮勇よ)
票も、証言も、密書も。
全部、一年かけて、この人の退路を一本ずつ潰してきた。
四方からの包囲が完成した。
その時——終始、余裕を崩さなかった宰相オスヴァルトが、初めて崩れた。
「なぜ、それを持っている……?」
ベルントが淡々と告げる。
「確かに手紙の原本は焼かれ、わたしは投獄されました。けれど、写しは事前にアッカーマン様へ後日渡るように手を打っていました。——そこから、この密書の存在を突き止めました」
宰相の目が見開かれる。
終始、感情を見せなかった男の、初めての揺らぎ。
(……ええ、そうよ。あなたは、わたしの全部を、半年前から見透かしていたつもりだった。でも、わたしは、見透かされる前提で動いていたの)
原本を一つ焼かれても、写しが残るように。
一つの計画を潰されても、別の計画が動くように。
三段構えで、本命、対抗、大穴。
最悪を想定して、退路を、一本ずつ、潰しておいた。
それを見たロデリックが、青ざめた顔で、言葉を発した。
「自分が最初に切り捨てられる駒」だとも知らない道化の彼が。
「……父上。どういう、こと、ですか……本当に戦争を、わたしを切り捨てるおつもりだったのですか……」
その瞬間。
オスヴァルトが声を荒げた。
生まれて初めて、というように。
「——だまれ、できそこないが!婚約者である令嬢一人すら、操ることができない無能が!」
冷静沈着で、有能だった黒幕。
その合理は、完璧だった。
(でもね。あなたの合理が完璧だったから――わたしは、それより一段上の合理で勝つしかなかったの。最悪を想定して、先に手を打つ。それが、わたしの仕事だったから)
「あなたは、わたしを『断罪に使うだけの駒』と見ていた」
わたしは静かに言った。
声を荒げず、淑やかな令嬢の口調を崩さないまま。
「だから、わたしは、ずっと、見られていないつもりで動けました。冴えない悪役令嬢。俯いて、流されるだけの脇役。——その評価が、いちばんの隠れ蓑でした。あなたが、わたしを侮ってくれたおかげです。礼を申し上げますわ」
オスヴァルトの顔から、すうっと、表情が抜け落ちていく。
怒りでも、焦りでもない。
理解できないものを見る、空白の顔。
侮られることが武器になる。
それも、前世で覚えたことの一つだった。
期待されない者ほど自由に動ける。
合理の悪が、より上の合理に、敗れた瞬間だった。
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「衛兵」
父コンラートのよく通る声が、広間に響いた。
「槍を向ける相手を改めよ。——捕らえるべきは、公爵令嬢ではない。宰相オスヴァルト・フォン・グレーフェンベルクだ」
衛兵たちの槍が、ためらいながら、けれど、確かに向きを変えていく。
武力は最後の一押し、ただそれだけ。
剣は、すべてを囲み終えた後の、仕上げにすぎない。
槍の穂先が、宰相へと収束していく。
けれど、捕縛の直前。
オスヴァルトは、再び、あの薄い仮面を取り戻した。
そして、嗤った。
「……わたしを捕らえても、火種は消えませんぞ。海の向こうの第一皇子が——まだ、健在だ。あの方が動けば、戦は、こちらの都合などお構いなしに始まる」
その言葉に対して、エリアスは珍しく不敵に笑う。
「宰相よ、残念なお知らせだが、帝国の火種すでに消した。だから、わたしは、ここにいる」
「なっ、そんなことが……」
その言葉を最後に宰相は衛兵に連れ去られていく。
黒幕の最後はとてもあっけなかった。
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