第28話「偽りの旗は証拠になる」
第28話「偽りの旗は証拠になる」
雪明かりの中で、偽物の旗がはためいていた。
ヴェルゴ帝国の双頭鷲。
けれど、その縫い目は粗い。
本物を一度でも見た者なら、すぐに分かる。
あれは、ライエルで急ごしらえに仕立てた、偽の旗だ。
冬至の、当日早朝。
国境の村ミューレンは、まだ夜の藍を残していた。
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軟禁の窓は外からかんぬきが掛かっていた。
けれど、わたしには窓よりも確かな抜け道があった。
ヤコブの商隊の荷車だ。
早朝、薪を運び込む荷の下に潜り込んで、わたしは屋敷を抜けた。
藁の匂いと、凍えた板の冷たさ。
荷の隙間から覗く空は、まだ星が残っていた。
屋敷の見張りは、薪運びの荷車を、いちいち検めない。
「お嬢様、無茶が過ぎますぜ」
御者台のヤコブが、前を向いたまま唸る。
「無茶じゃないわ。計算ずく。最悪を想定して、先に手を打つ。それだけよ」
「その計算ずくが、いっとう無茶なんですがね。軟禁中の公爵令嬢が、夜明け前に国境の村へ。見つかりゃ、今度こそ首が飛びますぜ」
「見つからないわ。見つかる前に全部終わらせる」
ヤコブは、ふっと肩を揺らした。
呆れ半分、感心半分の笑い。
「……へえ。半年前まで、夜会の隅で俯いてた令嬢が、よく言うようになったもんで」
ミューレンは、エリアスと下見した渡し場「カルテ渡し」のすぐそばにある、ローレン川西岸の小さな村だ。
冬の川は雪解け前で、岸辺に薄氷が張っている。
ここで、今朝、火が放たれる。
原作なら、たった一行。
「帝国兵が国境の村を襲い、ライエルの怒りに火がついた」。
けれど、本当の事実は違う。
襲ったのは帝国兵ではない。
帝国の軍装を着せられた、宰相の傭兵だ。
(火元を先に押さえる。放火犯が火をつける、その瞬間に)
決行地、時刻、実行犯。
エリアスと掴んだ手がかりと、軟禁の隙間からヤコブの網が運んだ断片を継ぎ合わせて、わたしは全部、逆算してあった。
そして——川向こうにも、同じ絵を見ている人がいる。
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村のはずれの納屋の陰に、わたしは父コンラートの警備隊とヤコブの商隊を、息を殺して伏せさせていた。
対岸の帝国側にも、人の気配がある。
雪の白に紛れて、ほとんど見えない。
けれど、分かる。
エリアス様だ。
ひと月前、引き裂かれるように別れた、あの最後の夜。
彼は短く、言った。
「お前を信じる。
わたしは、わたしの側で必ず動く」と。
その言葉どおり、彼はそこにいる。
一度も打ち合わせていない。
文も交わせなかった。
それでも、同じ朝の、同じ川の、向かい合った岸に、二人で立っている。
(顔も見えない。声も届かない。なのに、あなたが何を考えているか、手に取るように分かる)
雪を踏む、自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
吐く息が、白く凍って、すぐに消える。
指先の感覚は、もうとっくに無い。
それでも、川向こうのあの気配を確かめるたびに、胸の真ん中だけが、不思議と温かかった。
引き裂かれた、ひと月。
文の一通も交わせなかった。
お互いの無事すら、確かめられなかった。
それなのに、こうして同じ場所に立っている。
彼が同じ朝、同じ村に来ると、なぜか、最初から知っていた。
彼もきっと、わたしが来ると知っていた。
不思議だった。
距離は、ローレン川の幅のぶんだけある。
けれど心は、その川の上で、とっくに繋がっていた。
(早く、終わらせて。終わらせて、あなたの顔をちゃんと見たい)
そう思ってしまってから、慌てて頭を振った。
今は仕事中。
優先順位を、間違えるな。
——なのに、こういうときに限って、わたしの心は、いちばん大事なことを、こっそり先に数えてしまう。
夜明け前のいちばん暗い時刻。
村の井戸の方で、火が揺れた。
松明を持った男たちが、十数人。
粗末な村の藁屋根に、火を移そうと松明を掲げる。
その肩には、縫い目の粗い双頭鷲。
今だ。
「——囲んで」
わたしの合図に、警備隊とヤコブの荷車が、四方から滑り出る。
剣は抜かせない。
斬り合いにすれば、本物の血が流れる。
血が流れれば、それこそ「帝国の襲撃」の証拠になってしまう。
「逃すな! 縄を打て! 一人も斬るな——生きたまま、囲め!」
警備隊が松明の男たちを取り囲み、荷車で退路を塞ぐ。
商隊の屈強な荷役たちが、組み付いて縄を打つ。
制圧ではない。
現行犯を、逃さず、傷つけず、ただ囲んで確保する。
証拠を保全するための確保だ。
川向こうでも、同じことが起きていた。
岸へ逃げようとした一人が、対岸から伸びた手に、音もなく取り押さえられる。
火は、藁に移る前に、雪で消された。
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縄を打たれた男の、軍装の襟を、わたしは引き下ろした。
肩の内側に焼印があった。
ライエル傭兵ギルドの刻印。
帝国兵が、ライエルの傭兵ギルドの焼印を持っているはずがない。
「帝国の旗」は布一枚だった。中身は、ライエルが雇った偽物だった。
捕えた傭兵が、観念したように吐き捨てる。
「……前金をもらった。
グレーフェンベルクの、人を介してな。
村を焼いて、帝国の仕業に見せかけろ、と。
それだけだ。
俺たちゃ、雇われただけだ」
(言質、いただきました。しかも、はっきりと、グレーフェンベルクの名まで)
ヤコブが、傭兵の言葉を、書記役の商隊員に書き取らせる。
署名と拇印。
証言は、形にして初めて、証拠になる。
前世で、何百回となく繰り返した手順だ。
聞き取り、記録、保全。
災害の現場でも、汚職の調査でも、最後に物を言うのは、いつだって紙に残った一行だった。
「——一人も逃すな。けが人がいたら、手当てして。死なせたら、証人が一人減る。生きていてもらわなきゃ、困るの」
そう言うと、警備隊の隊長が戸惑った顔をした。
村を焼こうとした男たちを手当てしろ、と令嬢が言ったのだから。
「敵じゃないわ、まだ。証人よ。——いちばん大事な生きた証拠」
ヤコブが早馬の支度を始める。
傭兵の証言を王都へ運ぶために。
わたしは、縄を打たれた男たちを見渡しながら、自分に言い聞かせた。
落ち着け。
これで終わりじゃない。
(火事は、出火点を一箇所消しても安心できない。別の場所に飛び火する。今日掴んだのは、消火そのものじゃない――"放火犯の指紋がついた証拠"よ)
宰相オスヴァルトは、まだ知らない。
今朝の火が消されたことを。
彼は今夜、予定どおり大舞踏会で、わたしを断罪するつもりでいる。
それを開戦世論の号砲にするつもりで。
だからこそ、これは切り札になる。
(この証人と、この焼印。今夜の舞踏会で——断罪する側とされる側を入れ替えてあげる)
そのとき、ヤコブの荷車に、もう一頭の早馬が追いついた。
乗っていたのは、頬のこけた、目の下に隈のある若い文官。
「ベルント様!」
「アッカーマン様……! コンラート公爵閣下が、わたしの拘留が手続き上違法だと、昨日のうちに突かれまして。未明に、釈放されました。そのまま夜通し馬を駆って、隠していた帳簿の原本を抱えて参りました」
息を切らせながら、彼は革の鞄を、ぎゅっと胸に抱いた。
釈放されたのは、昨夜遅く。
王都からこのミューレンまでは半日では届かない。
だからベルントは、解かれたその足で、馬を乗り継ぎ、休む間も惜しんで、夜の街道を国境まで走り通したのだ。
目の下の隈は、投獄の疲れと、夜通しの強行軍とで、いっそう深くなっていた。
「無茶を、なさいましたね」
わたしが思わずそう漏らすと、ベルントは、ふっと、力なく笑った。
「あなたに、言われたくはありませんよ。
アッカーマン様」
——違いない。
わたしは、小さく笑い返した。
数字は嘘をつかない。
その数字を読める唯一の男が、原本を抱えて出てきた。
半年前、投獄を覚悟で写しを五か所に隠したあの執念が、今朝、国境のこの場所まで、彼自身の足で運ばれてきた。
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川向こうの岸に、黒い人影が立ち上がった。
雪明かりの中、ほんの一瞬。
長身の、外套の影が、こちらを向いた。
朝靄が、川面を白く覆っている。
顔は見えない。
それでも、その立ち姿だけで、わたしには分かってしまう。
庭園の夜も、回廊のすれ違いも、礼拝堂の月光の下も——わたしはいつも、その背中を、まず見つけてきたのだから。
その影が、確かにわたしに向かって、小さく頷いた。
(——届いた。あなたの岸でも火は消えた)
わたしは、唇を噛んで、頷き返す。
声も、文も、届かない距離。
手を伸ばしても、川一本ぶん、遠い。
それでも、ひと月分の想いが、たった一つの仕草で、川を越えて、まっすぐに伝わってくる。
(……不思議、ね。顔も見えない、言葉も聞こえない、なのに、あなたの思いがはっきりとわかる)
朝の光が、ローレン川の薄氷を白く照らし始める。
偽兵と物証は確保した。
釈放されたベルントが、帳簿を抱えている。
ヤコブの早馬が、傭兵の証言を運ぶ。
舞踏会まで、あと半日。
わたしは、空の荷車に乗り込んだ。
王都ヴァイスハイトへ、引き返すために。
これ以降、舞台が始まるまでエリアスと会うことはできない。
でも、最後にあなたに勇気をもらった。
わたしは悪役ではなく、主役としてこの舞台をやり遂げる。
(こちらから、出向きましょう。断罪されに、ではなく——断罪を、ひっくり返しに)
本日の投稿は終了となります。
次の投稿は9/9の12:40となっておりますm(__)m




