第25話「最悪を、二人で書き換える」
第25話「最悪を、二人で書き換える」
一晩中、泣いた。
考えた。
そして、決めた。
——どちらか、なんて。
誰が決めたのだ。
誰かを犠牲にすることを前提にするなんて。
もし、前世でそんな計画を提案されたら、前世のわたしは絶対に許さなかっただろう。
泥臭くてもいい。
甘くてもいい。
それでもわたしは—— 「片方だけしか選べないなんて嫌だ。絶対に両方を救う。」
朝の光の中で、わたしは心の中でそう決意した。
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机に、新しい紙を広げる。
国を取るか、彼を取るか。
昨夜のわたしは、その二択に潰されかけていた。
けれど、二択で物事を考えるのは、いちばん危険な思考の罠だ。
(避難計画は三段構え。本命、対抗、そして——大穴)
二つの道しか見えないなら、三つ目を、自分で作ればいい。
誰も歩いていない道を、地図に描き足せばいい。
前世でも、そうだった。
「逃げ場がない」と誰もが言う場所に、必ず、見落とされた抜け道が一つはある。
崖だと思い込んでいた壁の、わずかな段差。
誰も使わない古い裏口。
それを探し当て埋めるのが、危機管理という仕事の、いちばん地味で、いちばん肝心なところだった。
それを思い出して苦笑する。
(前世では、抜け穴を埋めるのが仕事だったのに、今は、それを探さなければいけないなんて——)
抜け道はとても小さいかもしれない。
それでも、わたしは、国も、彼も、両方とも諦めない。
そう決めた瞬間、不思議と、頭がすっと冴えた。
紙の真ん中に、わたしは大きく書いた。
『戦争を止め、なおかつ、彼の兄を"討たず"に終わらせる道』
これが、わたしの探すべき第三の道だ。
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考えるべきことは二つ。
一つ。
宰相オスヴァルトを、いかにして失脚させるか。
これは、わたしの国の問題だ。
武力で倒すのは論外だった。
宰相は、王宮の兵を握っている。
正面からぶつかれば、勝ち目はない。
それに——血が流れれば、それこそ宰相の思う壺だ。
「アッカーマン家の反逆」という、新たな号砲を与えるだけ。
(力で押すのは、最後の最後。逃げ道を全部塞いでからでないと、ただの蛮勇)
なら、どうするか。
答えは、もう出ていた。
証拠だ。
宰相の不正の動かぬ証拠。
それを、誰にも握り潰せない形で、白日の下に晒す。
剣ではなく、紙と数字で、あの男を裁く。
そのためには——王を動かさなければならない。
病弱な国王ヴィルヘルム三世を。
そして、宰相に逆らえずにいる、貴族たちを。
ここで、前世の記憶が、静かに立ち上がった。
(……これ、災害対応の、合意形成と同じだわ)
大きな危機に、組織を動かすとき。
トップに直訴するだけでは動かない。
鍵は周囲だ。
誰が、どの利害で動くのか。
どの部署を先に説得すれば、芋づる式に他が続くのか。
賛成しそうな者、反対しそうな者、日和見の者。
一人ずつ、顔と立場を思い浮かべて、説得の順番を組み立てていく。
前世のわたしが、何百回もやってきた、関係各所の根回し。
それを、宮廷の貴族たちに置き換える。
わたしは、紙に、貴族の家名を書き出し始めた。
穏健派の筆頭、我が父コンラート・フォン・アッカーマン。
宰相に不満を持つが、声を上げられずにいる中堅貴族たち。
日和見の者。
宰相派だが、結束の弱い者。
一人ずつ、誰が何を恐れ、何を欲しているかを書き込んでいく。
この家は、重税で領地が苦しい。
この家は、宰相の専横に、面子を潰されている。
この家は、息子の出世を宰相に握られている。
(……見えてきた)
ばらばらに見えた不満が、線で繋がっていく。
どの順で、誰に、何を囁けば、雪崩のように傾くか。
賛成の票が過半数を超える瞬間が。
これは、わたしにしか描けない設計図だった。
父にも、ベルントにも。
前世の根回しの記憶を持つ、わたしにしか。
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「父上。折り入って、ご相談が」
その夜、わたしは父コンラートの書斎を訪ねた。
父は、最近のわたしの変化に、戸惑いと——かすかな期待を抱き始めている。
それは、ここ数ヶ月のやり取りで、感じ取っていた。
わたしは、書き上げた紙を、父の前に広げた。
貴族たちの相関図。
説得の順番。
崩しの手順。
父が、それを見て、息を呑んだ。
「……これは。お前が考えたのか」
「はい。父上には、この通りに、動いていただきたいのです。誰に、いつ、何を話すか。順番が、命です」
父は、しばらく紙を見つめていた。
長年、宮廷を渡ってきた重鎮の目で、その精度を測るように。
「ヴィオラ。お前は……いつの間に、こんな目を持つようになった」
「いろいろ、ありまして」
わたしは、令嬢の微笑みで、はぐらかした。
父は、それ以上は問わなかった。
代わりに、紙を手に取り、深く頷いた。
「分かった。この戦、お前の描いた絵で勝ちにいこう。——わたしも本気を出す」
その言葉に、胸が熱くなった。
長年、無関心だった父が。
今、わたしの設計図を信じてくれている。
味方が増えていく。
一人で抱え込まなくて、いい。
前世で学べなかったことを、わたしは今、ようやく学んでいる。
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そして、もう一つの問題。
帝国側だ。
これは、わたしの手の届かない領域。
動かせるのは、ただ一人。
打ち捨てられた礼拝堂で、わたしはエリアスと向かい合っていた。
手のひらの傷は、もう塞がっている。
わたしは、二通の密書を取り出した。
一通は、宰相とマクシミリアンの結託を示す、覚書の写し。
もう一通は、わたし自身が書いた王国側の計画の骨子。
「エリアス様。これを、あなたに託します」
彼が、わたしを見た。
「帝国側で、戦を止められるのは、あなただけです。マクシミリアン殿下を——討つのではなく。その『大義』を奪うのです」
「大義を……奪う」
「戦は、起こす理由がなければ、起こせません。『ライエルが攻めてきた』という、嘘の理由。それさえ崩せば、いくら兄君が望んでも、戦は始められない。剣を抜く前に、剣を抜く"口実"を消すのです」
エリアスの琥珀の瞳が、ゆっくりと見開かれた。
「……兄を、討たずに済む」
「ええ。わたしの計画は、誰も殺さずに戦を止める道です。あなたに、兄君の血で手を汚させない。——それが、わたしの、譲れない一点です。」
わたしはつづけた。
「ですが、わたしには帝国のことはわかりません。だから、わたしが描いた結末を叶えるために、手伝ってください。あなたでなければ、できません。」
エリアスは、密書を受け取った。
そして、長いあいだ、それを見つめていた。
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「お前は」
ようやく、彼が口を開いた。
「わたしの兄を討つこともできた。その方が、お前の国にとっては、確実だ。なのに、なぜ、わざわざ難しい道を選ぶ」
「あなたに、痛い思いを、してほしくないからです」
考えるより先に、言葉が出ていた。
礼拝堂の、薄暗がりの中。
彼の表情が、変わったのが分かった。
乏しいはずのその顔に、確かな動揺が、走った。
「……ヴィオラ嬢」
彼が、一歩、近づいた。
距離が縮まる。
月光の帯を、彼が越えてくる。
「お前は、自分の国の命運がかかった計画に、わたしの心の傷を——勘定に入れたのか」
「いけませんか」
「……いや」
彼の声が掠れた。
「ただ、そこまで人のために動ける人間を、わたしは、知らない」
二人の間の距離が、あと一歩。
彼の外套から、夜気に混じって、かすかに彼の匂いがした。
わたしの計画書を持つ彼の手と、わたしの手が、紙の端で、触れた。
ほんの指先だけ。
それだけのことなのに、わたしの心臓は、計画のことも、亡国のことも、何もかも忘れて、ただ、その一点の熱を数えていた。
エリアスも手を引かなかった。
引けなかった、のかもしれない。
紙を挟んで、わたしたちの指先は、しばらくそのまま、触れ合っていた。
これは共犯だ。
誰にも言えない計画を、二人で、同じ紙の上に描いている。
世界中で、わたしたちだけが、同じ秘密を分かち合っている。
(……こんなときに。こんな、状況なのに)
胸の奥が、温かくて、痛い。
彼の指先の熱が、紙越しに、わたしの指へと移ってくる。
離したくない、と思ってしまう。
「……必ず、成功させる」
エリアスが、低く言った。
紙を、そっと握り直す。
その拍子に、わたしの指に、彼の指が、もう一度重なった。
今度は、偶然ではなかった。
「お前の描いた結末を、わたしは、帝国側で必ず通す」
「……はい。信じています」
見つめ合う。
月光が、二人の輪郭を淡く繋いでいた。
これが、わたしたちの「共犯」の証だった。
指先一つ分の距離で、わたしたちは、世界を書き換える約束を交わした。
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別れ際、わたしは念を押した。
「その密書の写し、必ず、無事に帝都へ。あなたが先に、帝国側の根回しを進めておいてください。当日、慌てて間に合わせるのでは、遅すぎます。——情報を運ぶには時間がかかる。だから、種は、今のうちに蒔いておくのです」
「分かっている」
エリアスは、密書を、外套の内側へ、大切にしまった。
心臓に、いちばん近い場所へ。
それを見て、わたしの胸が、また、ぎゅっと鳴った。
残り、二ヶ月。
そして、冬至の決行日まで、わたしの胸の中の小さな時計も、刻一刻と、その日へ近づいていく。
けれど、もう、わたしは一人ではなかった。
父がいる。
ベルントがいる。
ローザが、ヤコブが、ノエルが——そして、彼が、いる。
最悪の未来を、二人で書き換える。
その道筋が、今、確かに見え始めていた。
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