第22話「盾になった、あなた」
第22話「盾になった、あなた」
それは、白昼の人通りの中で起きた。
ベルントが投獄される前に残していた重要な情報を手に入れ、それを渡すためにノエルへと連絡を入れた。
受け渡しの場所は、王都の市場の外れ。
雑踏に紛れての、ほんの一瞬の接触。
会うな、と言われた約束は守った。
これは密会じゃない。
情報の受け渡しだ。
そう、自分に言い聞かせて。
ノエルの姿を探して、わたしは雑踏を縫って歩いた。
市場は、残暑が残る中でも賑わっている。
重税にあえぎながらも、人々はそれでも生きている。
パンを買い、子を叱り、値段を交渉する。
この、当たり前の営みを——三年後の亡国は、すべて、焼き尽くす。
(守りたい。この何でもない景色を)
雑踏の温かさに、ふと、胸が締めつけられた。
だからこそ、わたしは戦っている。
この賑わいが、灰にならないように。
そのときだった。
人混みの隙間から、こちらへ、まっすぐ近づいてくる男がいた。
商人の身なり。
けれど、その足取りには、買い物客の気ままさがなかった。
一直線に、わたしへ。
そして——外套の下で、何かが鈍く光った。
(——刃物!)
頭より先に体が反応した。
とっさに横へ。
けれど、雑踏の中。
逃げ場がない。
---
刃が閃いた。
その瞬間、わたしの視界を、黒い影が遮った。
「——!」
低い呻き。
聞き覚えのある声。
エリアスだった。
いつの間に。
彼が、わたしと刃の間に身を割り込ませていた。
商人風の外套を着て、雑踏に紛れていたのだ。
ノエルと一緒に。
きっと、わたしの身を案じて。
刃が、彼の肩を斬り裂いた。
鮮やかな朱色が石畳の上に散る。
「エリアス様!」
叫びそうになった声を、彼の背中が押し殺させた。
「——騒ぐな」
低く鋭い声。
痛みを噛み殺しながら、彼は、わたしを背にかばったまま、暗殺者を睨んでいた。
暗殺者は、刃を振り上げ、二の太刀を狙う。
このままじゃ、エリアスが——。
頭が、猛烈な速さで回転した。
剣も魔法も、わたしにはない。
あるのは——この、雑踏。
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「人さらいよ! 誰か! その男、子供をさらおうとしてるわ!」
わたしは、ありったけの声で叫んだ。
雑踏がざわめいた。
「人さらい」。
市場で、いちばん人が反応する言葉。
子を持つ母親が、屈強な荷運びの男たちが、いっせいにこちらを振り返る。
暗殺者の顔に、初めて焦りが走った。
人々の視線が、彼に集中する。
何人かが、「どいつだ!」と詰め寄ってくる。
雑踏が、彼を取り囲む、人の壁になる。
仕事は、密かに済ませるもの。
衆人環視の中では続けられない。
暗殺者は、舌打ちをして、刃を引いた。
そして、人混みを掻き分け、脱兎のごとく逃げ去っていく。
群衆が、その背を追って、わっと動く。
混乱が、彼の退路を塞ぎ——同時に、わたしたちの周りに、一瞬の空白を作った。
その隙に、わたしは、エリアスの腕を掴んだ。
「こっちへ!」
血を流す彼を人混みの陰へ、路地の奥へ。
引きずるように、連れていく。
(怪我人と暗殺者を、群衆が勝手により分けてくれる。——逃げるなら今しかない)
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路地の奥、誰の目もない物陰で。
わたしは、彼を壁にもたれさせた。
「肩を見せてください」
「……かすり傷だ」
「かすり傷が、こんなに血を流すものですか!」
つい、声を荒げてしまった。
彼の肩は、外套ごと斬られ、赤く濡れていた。
わたしは、自分のショールを引き裂いて、傷の上を、きつく縛った。
手が震えていた。
「……手当ては慣れているのか」
エリアスが、わたしの手元を見ながら、低く言った。
「最悪を想定する癖があるので。応急手当てもその一つです」
止血を続けながら、わたしは唇を噛んだ。
彼の血で、わたしの手が、赤く、温かく濡れている。
——この人が、わたしの代わりに斬られた。
手当てをするわたしの指が、止まらないほど震えていた。
前世で、応急処置の手順は、何度も身につけたはずなのに。
冷静に、傷の深さを見て、圧迫して、固定する。
手順は、頭が覚えている。
なのに、心が、まったく追いつかない。
だって、いつもの「誰か」じゃない。
この傷を負ったのは、エリアスだ。
わたしのために、迷わず刃の前に立った、この人だ。
「なぜ」
声が震えた。
「なぜ、庇ったのですか。
庇わなければ、あなたは無傷だったのに」
エリアスは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと。
「……考える前に、体が動いた」
たった、それだけ。
けれど、その一言が、どんな言葉より、深く刺さった。
考える前に。
理屈ではなく。
彼の体が、わたしを守ることを選んだ。
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止血を終えても、わたしは、彼の肩から手を離せなかった。
エリアスの、もう片方の手が、ゆっくりと伸びてきた。
そして、震えるわたしの手を、上から、そっと包んだ。
大きな温かい手。
傷を負ったのは彼の方なのに、わたしの手の方が震えていた。
「ヴィオラ嬢」
低い声が、わたしの名を呼んだ。
痛みに耐えながら、それでも、わたしだけを見つめる声で。
見上げると、琥珀の瞳が、すぐ近くにあった。
痛みに耐えながら、それでも、わたしだけを見ている瞳。
「お前を失いたくない」
それは、初めて聞く、剥き出しの本音だった。
寡黙な彼が、いつも飲み込んでいた言葉が、傷の痛みと一緒に、こぼれ落ちた。
わたしの胸が、痛いくらいに熱くなった。
敵同士だと、突きつけ合ったばかりなのに。
越えられない川が流れているはずなのに。
それでも、この人は、わたしの前に、迷わず身を投げ出した。
「……わたしも、です」
わたしは、彼の手を、両手で握り返した。
「わたしも——あなたを失いたくない」
言ってしまった。
言ってしまえば、もう、引き返せないと知っていたのに。
夏の暑さが残る、薄暗い路地で。
それなのに彼の手の体温しか感じなかった。
それ以上は近づかなかった。
近づけなかった。
けれど、握り合った手だけは、もう、離せなかった。
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ノエルが、息を切らして駆けつけたのは、その直後だった。
「殿下! ご無事——って、おやおや」
血の止まった肩と、固く握り合った二人の手を見て、ノエルは片眉を上げた。
飄々とした顔に、からかうような笑みが浮かぶ。
「これはこれは。手当ての最中に、ずいぶんと、仲がよろしいことで」
「ノエル」エリアスが、低く制した。けれど、握った手は離さない。
「へいへい。何も見ておりませんよ」ノエルは肩をすくめた。「ただ、まあ……殿下が女性のために身を張るところを見るのは、初めてでしてね。長生きはするものです」
「ノエル」
「はい、口を閉じます」
飄々とした男は、すぐに表情を引き締めた。
声を落として続ける。
「ですが、殿下。
今のは、ただの物盗りじゃありません。
狙いは、明らかに、ヴィオラ嬢でした。
——宰相は本気です」
その言葉に、わたしとエリアスは、顔を見合わせた。
ついに、向こうは、刃を向けてきた。
証拠の握り潰しでも、世論の中傷でもなく。
直接、命を奪いにきた。
帳簿を消し、ベルントを捕らえ、世論で追い詰め、そして——殺す。
宰相の手は、一つずつ、確実に、こちらの首を絞めてくる。
合法の仮面をかぶったまま、いちばん残酷なところへ踏み込んできた。
それは、宰相が焦っている証でもあった。
わたしたちが、核心に近づきすぎたから。
合理だけで動く男が、わざわざ刺客を放った。
それは、合理では片づけられない何かに、こちらが触れたということ。
「殺してでも、口を塞ぎたい何か」に。
(……追い詰めてる。追い詰められてるのは、こっちのはずなのに。向こうも必死なのね)
恐怖の裏側に、ほんのわずかな、手応えがあった。
宰相は無敵ではない。
焦りもするし、手も汚す。
それが見えただけで、ほんの少しだけ、前に進める気がした。
エリアスの手の温もりが、まだ、手のひらに残っている。
失いたくない、と言った、あの声も。
絆は深まった。
けれど、それ以上に危険が近づいてきた。
わたしは、エリアスの傷を、もう一度、見た。
わたしのために、流された血。
この人は、言葉ではなく、いつも体で、想いを示す。
「失いたくない」——たった一言で、わたしの世界を塗り替えてしまう人。
「……必ず治してください」わたしは、彼の手を、もう一度握った。「あなたを、失いたくないのは、わたしも同じです。だから——無茶をしないで」
「善処する」
「約束、です」
エリアスの口元が、ほんのわずか、ほどけた。
痛みに耐えながらの、かすかな笑み。
それを見られただけで、わたしの胸は、また、締めつけられた。
そして——ノエルの掴んだ、もう一つの報せが、次の嵐を予感させていた。
暗殺者が落としていった、指令書の切れ端。
そこに押された、見覚えのある——帝国の紋章。
その意味を、わたしたちが知るのは、もう少しだけ、先のこと。
残り、四ヶ月。
蒸し暑い日だった。
けれど、握り合ったこの手だけは、確かに温かかった。
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