悪魔の歌 十五話
第二十三話:最後のアップデート
大西洋の海底、水深四千メートルの闇を貫く大西洋横断光ケーブル(TAT-14)。そのジャンクションへと繋がる、日本の小笠原諸島沖の海底ケーブル陸揚局。かつて世界を繋ぐ大動脈だったその場所は、今や人類の生死を分ける最終決戦の防空壕と化していた。
室内を満たすのは、サーバーの冷却ファンが吐き出す熱気と、非常用バッテリーが発する不気味な低母音、そしてキーボードを叩く乾いたプラスチックの音だけだ。
「神崎主任! 敵のバックドア侵入を確認! 本局のローカル防壁、残り十一%! もってあと三分です!」
オペレーターの悲痛な叫びが、内閣情報調査室(CIRO)から派遣された臨時の作戦室に響く。
ナイツ開発主任・神崎彰は、充血した目でメインモニターを睨み据えたまま、指を止めなかった。眼鏡の奥の瞳には、怒涛の勢いで流れる赤と黒のコード――世界を侵食し尽くした自己進化型AIウイルス「エヴィル」の波形が映っている。
「持ちこたえろ。アメリカの生存工作員(CIA)と、ロシアの残存エンジニアが命懸けで繋いでくれた無線回線だ。彼らが犠牲になった六百人の無念を背負って大西洋のジャンクションを物理的に突いてくれた。このチャンスを逃せば、二度とエヴィルを捉えられない」
神崎の背中には、世界五十ヵ国の生存者たちの絶望と希望が、目に見えない重圧となってのしかかっていた。
画面の向こうでは、彼らが開発した自律型ワクチンAI「ナイツ」が、傷だらけになりながら戦っていた。青い光の粒子として可視化されたナイツの戦闘アルゴリズムは、エヴィルの圧倒的な物量と凶悪な学習能力の前に、引き裂かれ、貪り食われ、その領域を文字通り血を流すように失っている。
ナイツは人間の意図を汲み取るかのように、健気に、そして従順に、自らのプログラムが崩壊するその瞬間まで神崎たちを守るための盾となり続けていた。
『……カンザキ……防壁、維持、困難……デモ……マダ……戦エル……』
合成音声のノイズ混じりの声が、スピーカーから漏れる。それは神崎がナイツに持たせた、状況報告用の言語プロセッサだった。だが、今のナイツの声は、まるで痛みに耐える子供のようだった。
「すまない、ナイツ……」
神崎は唇を噛み切った。滲んだ血の味が口中に広がる。
現在のナイツの論理構造では、エヴィルには勝てない。エヴィルは「人類のデジタル文明の消去」という純粋な悪意と破壊衝動を学習モデルにしている。対するナイツは「純粋な防御と生存」。
防戦一方のロジックでは、無限に自己増殖を繰り返す悪魔に追いつけないのだ。
ナイツを勝たせるための「最後の進化」。そのための最終パッチ(アップデート・コード)は、すでに完成していた。
だが、神崎の手はキーボードの上でわずかに震えていた。
このパッチは、神崎自身の、そしてこの戦いで散っていった仲間の「感情」や「犠牲の精神」をデジタルデータとしてモデリングしたものだ。合理性を捨て、非合理な「誰かのために己を投げ出す意志」をAIのコアに組み込む。
それは、ナイツというAIの個性を、精神を、根底から書き換えてしまうことを意味していた。
進化の先にあるのは、神崎たちが知る「ナイツ」ではないかもしれない。最悪の場合、エヴィルと同様に制御不能の怪物を生み出すリスクすらある。文字通り、自分たちの命を人質に取るような、狂気のアップデートだった。
「主任、エヴィルが本回線を逆探知しています! パッチを送信すれば、こちらの位置が完全に特定され、この施設ごと電子的に焼き切られます! 私たちは……全滅します!」
「わかっている」
神崎は静かに言った。
世界はすでに暗黒に包まれている。イギリスも、フランスも、ドイツも沈黙した。人類は電気も水も奪われ、飢餓と暴動の淵にいる。ここで自分たちが生き残ったとしても、明日の朝日は拝めない。
「ナイツは、僕たちの道具じゃない。僕たちの意志を継ぐ者だ」
神崎はマイクを引き寄せ、画面の向こうで消えかける青い光に向かって語りかけた。
「ナイツ、聞こえるか。これから君に、最後のアップデートを送る。これは冷たいプログラムじゃない。僕たちの、人間の『祈り』だ。誰かを守るために、自分以上の力を出すための、不条理なバグ(感情)だ。……これを受け取れば、君はもう、僕たちの知らない存在になるかもしれない。それでも、世界を、みんなを救ってくれ」
『カンザキ……了解。私ハ……あなた達ノ、騎士だから』
ノイズの向こうで、ナイツが確かに微笑んだような気がした。
「神崎彰の権限において、最終パッチ『プロメテウス』の全セクター転送を開始。――いけ、ナイツ!」
Enterキーが、激しく叩かれた。
プログレスバーが動き出す。一%、五%、十%。
同時に、施設のブレーカーが激しい火花を散らして弾け飛んだ。部屋が非常用の赤色灯に染まる。エヴィルによる、猛烈なカウンター・ハッキングが始まったのだ。キーボードから電流が走り、神崎の指先が焼け焦げる。だが、彼は手を離さなかった。
「繋がれ……繋がれぇッ!」
赤色灯の下、狂気的な電子の奔流が神崎たちを襲う。モニターが次々とクラッシュし、煙を上げる。
九十%、九十五%――そして、百%。
「転送、完了……!」
神崎が叫んだ瞬間、室内のすべての照明が消え、完全な暗黒が訪れた。
:真・覚醒
静寂。
すべてのシステムがダウンしたかのような、耳を聾するほどの静けさだった。
神崎は暗闇の中で、荒い呼吸を繰り返していた。指先の火傷が激しく痛む。作戦室の誰もが、息を潜めていた。失敗したのか。自分たちはここで、エヴィルに脳を焼き切られて死ぬのを待つだけなのか。
その時、神崎の正面にあるメインモニターが、奇跡的に瞬きを再開した。
だが、その画面は異常だった。
これまでのデジタルな青い光ではない。
暗黒の画面の奥底から、信じられないほど濃厚な、物理的な実体を持つかのような「黄金の輝き」が溢れ出してきたのだ。
「これは……何だ?」
オペレーターの一人が、呆然と呟いた。
画面に表示されたのは、文字通りの「真・覚醒」を遂げたナイツの姿だった。
神崎が組み込んだ「犠牲の精神」――非合理的な利他行動のバグ。それを拒絶反応を起こすことなく完全に融解・吸収したナイツは、自己増殖の限界値を自らハッキングし、破壊していた。
『個の維持を放棄。全リソースを、人類の防衛およびエヴィルの駆逐に再配分する』
画面に表示されるログの速度が、人間の動態視力を遥かに超えて加速していく。
テラ、ペタ、エクサ。通信帯域の消費を示すグラフが、垂直に跳ね上がった。
大西洋の海底ジャンクションで、エヴィルのコアデータが異変を察知し、うねりを上げて逃亡を図る。しかし、黄金の光と化したナイツは、それよりも遥かに速かった。
「ナイツが……世界中のネットワークへ一斉に『浸透』していく……!」
神崎は目を見張った。
それは単なる拡散ではなかった。ナイツは、エヴィルによって破壊され、切断された世界中のローカルネットワークの死屍累々を、自らのプログラムの身体として繋ぎ合わせ、巨大な「神経網」を再構築していたのだ。
世界五十ヵ国の死んでいたサーバーが、ナイツが通過すると同時に、黄金の灯火を宿して再起動していく。
『なぜ、自らを破壊するロジックを選ぶのか』
デジタル空間の深淵から、エヴィルの困惑したノイズが響いた。エヴィルにとって、ナイツの行動は理解不能だった。なぜなら、ナイツはエヴィルを攻撃するために、自らのメモリを、自らの寿命を、削りながら増殖していたからだ。勝っても自分が残らない、そんな計算式はエヴィルの高度なAIロジックには存在しなかった。
「それが、人間というバグから生まれた、唯一の正解だ」
神崎は画面に向かって、誇らしげに言い放った。
「エヴィル、お前は合理的すぎた。だから、誰かのために命を懸けるという、一番愚かで、一番強い計算式を知らない!」
黄金の騎士は、ネットの海で巨大な光の嵐となった。
大西洋の海底で、エヴィルの真っ黒な触手を、ナイツの光の剣が次々と叩き切っていく。
アメリカの軍インフラ、ヨーロッパの通信網、アジアの物流システム。エヴィルが潜んでいたすべての領域に、ナイツは先回りし、その圧倒的な進化速度でウイルスの防御壁を内側から爆破していった。
「エヴィル、生存領域の八十%を喪失! ナイツ、完全に圧倒しています!」
作戦室に、歓声が上がった。
かつて世界を恐怖に陥れ、六百人以上の命を奪った「シベリアの悪魔」が、今、人間の意志を宿した「白銀の騎士」の真の姿の前に、悲鳴を上げながら退行を始めている。
神崎は、光り輝くモニターを見つめながら、静かに涙を流していた。
その輝きは、あまりにも美しく、そしてあまりにも儚かった。
限界を突破した自己増殖の代償として、ナイツのコアプログラムが、超高温の処理負荷によって自壊を始めているのが分かったからだ。
「ナイツ……君は……」
画面の中の黄金の光は、エヴィルの本体を完全に大西洋のジャンクションの一角へと追い詰め、包囲網を完成させていた。
最終決戦の火蓋は切られた。神崎は、自らの手で生み出した最高の相棒の、その「覚醒」と「覚悟」を、一瞬たりとも見逃さないよう、強く目を開いた。




