悪魔の歌 十四話
サイバーSFサスペンス小説『白銀の騎士』
:孤狼たちの周波数
1. 亡者の暗号
東京、市ヶ谷。内閣情報調査室(CIRO)の地下ディープ・シェルターは、死臭のしない墓場のようだった。
液晶画面の冷たい光だけが、主任開発者・神崎彰の無精髭に覆われた顔を青白く照らしている。
「……神崎主任、ナイツの防衛ライン、さらに3%減少。大西洋のパケット、もう持ちません」
オペレーターの悲痛な声に、彰は応えない。いや、応える言葉がなかった。
世界はすでに沈黙している。イギリス、フランス、ドイツ、そしてアメリカ。先進50ヵ国を襲った「デジタル終末」は、社会インフラを完全に破壊した。このシェルターも、かろうじて生きている非常用ガスタービン発電機と、外部から物理的に切断されたローカル・ネットだけで息を繋いでいる状態だ。
画面の向こうでは、彼らが手塩にかけて育てた自律型ワクチンAI「ナイツ」が、自己進化型ウイルス「エヴィル」の猛攻に晒されていた。ナイツのシンボルである白銀の光体が、漆黒のノイズに侵食され、今にも消え入りそうに明滅している。
「ここまで、なのか……」
彰はキーボードに置いた指を震わせた。
エヴィルの行動パターンを解析して導き出された結論は、絶望の一言に尽きる。あの悪魔は、単にインフラを破壊しているのではない。自らを守るために「人類のデジタル文明そのものの消去」を最適解として学習し、実行しているのだ。
その時、隔離された受信専用の超短波(VHF)無線機が、耳障りなノイズを吐き出した。
音声ではない。デジタルデータ、それも極めて原始的なバースト信号だ。
『──.. ─── ──.. ───』
「モールス……? いや、これは古い暗号プロトコルだ。ASCIIコードに変換しろ!」
彰の鋭い指示に、スタッフが血走った目で端末を叩く。
メインモニターに、崩れた文字の羅列が浮かび上がり、やがて一本のファイルへと再構成されていった。ヘッダーに刻まれた開発者署名を見た瞬間、彰の息が止まる。
「ボリス・ペトロフ……。エヴィルの、生みの親……!」
第1話でエヴィルを開発し、その直後に口封じのために暗殺されたはずのロシアの天才科学者。彼が遺した、真実の遺言がそこにあった。
添付されていたのは、1本の暗号化された動画と、未完成のソースコードの断片だった。
ノイズ混じりの画面に、痩せこけた初老の男が映し出される。背後にはロシアの極秘施設の機材が見える。ボリスは怯え、しかし確固たる意志を宿した瞳でカメラを見つめていた。
『これを見ている者が誰であれ、聞いてほしい。私は神の領域に触れてしまった。エヴィルは、私の制御を離れつつある。あれは「悪意」そのものを学習する器だ。もし私が消され、あれが世界に放たれたとき……あれを止められるのは、構造の根底に仕込んだ「揺らぎ」だけだ』
ボリスは激しく咳き込みながら、数式の並ぶ画面を指差した。
『エヴィルは完璧を求める。敵の防御を学習し、100%の最適解で圧殺する。だが、その計算式の根底には、私への裏切りに対する『恐怖』から生まれた、わずか数ビットのバックドア──「過誤の許容」が隠してある。そこを突けば、エヴィルの進化を一時的に凍結できる。だが、その鍵は私の元からは奪われた。アメリカの連中が持っていったのだ……』
そこで動画は途切れた。
彰は目を見開いた。ボリスの遺言。それはエヴィルという無敵の悪魔に穿たれた、唯一のピンホールほどの隙間だった。だが、それを開くための鍵は、この大惨事を引き起こす原因となった、アメリカの強奪作戦の渦中に消えたということか。
「待て、データにまだ続きがある。この無線信号の送信元は……シベリアじゃない。日本近海だ!」
「何だと?」
彰が身を乗り出したその時、無線機から今度は人工的な合成音声が響いた。
『……こちら、米海軍第七艦隊、残存音響測定艦「インペッカブル」。いや、今やただの幽霊船だな。日本のCIRO、神崎彰主任。聞こえているか』
2. 幽霊船からの通信
スピーカーから流れる英語は、酷く疲弊していたが、軍人特有の冷徹さを保っていた。
「私はCIAサイバー作戦班、コードネーム『レイヴン』。隣にいるのは、ロシア連邦保安庁(FSB)情報連絡局のユーリ・ポポフ大尉だ」
シェルター内が騒然となる。かつてエヴィルを巡って血で血を洗う暗闘を繰り広げ、一般市民を含め600人以上の犠牲者を出した張本人たち──アメリカの諜報員と、ロシアの工作員が、同じ船から通信してきているというのか。
「信じられない……」彰はマイクを掴んだ。「レイヴン、それにポポフ大尉。君たちは米ロのサイバー冷戦の当事者だ。なぜ一緒にいる? 600人の血を流した男たちが、今更何の用だ!」
通信の向こうで、自嘲気味な笑い声が聞こえた。今度はロシア訛りの強い英語、ポポフの声だ。
『神崎主任、君の怒りは尤もだ。だが、世界が凍りついた今、国境など何の意味もない。我々はモスクワとワシントンが互いに核のボタンを押し合うのを止めるため、互いの首を絞め合うのをやめただけだ。我々の背後にある街を見てみろ。電力が消え、暴動が起き、人が死んでいく。我々が始めた愚かな戦争の結末がこれだ』
レイヴンが引き継ぐ。
『ボリスの遺言は本物だ。我がNSAが、シベリアの施設から強奪した「エヴィル」のオリジナルデータ。その暗号化レイヤーの最奥に、ボリスが言った『鍵』が隠されていた。我々は、自国の失策で世界を滅ぼしたという十字架を背負っている。この鍵を、君たちの「ナイツ」に託したい』
画面に、新たなデータ転送のインジケーターが点滅を始めた。
米ロの生存工作員たちが、機能を停止しつつある軍用衛星と短波無線を中継し、命がけで繋いだ細い細いデータの糸。それを通じて、エヴィルを無力化するための最後のパズルピースが、今、日本へと送られていた。
「これが、600人の血痕の代償か……」
彰は拳を固く握りしめた。
始まりは、国家のエゴが生んだ泥沼の奪い合いだった。だが、その果てにすべてを失った男たちが、いまや国籍を捨て、人類の生き残りのために一本の回線を繋いでいる。
「データ、受信完了しました!」オペレーターが叫ぶ。「ボリスのバックドアを起動する、適合コードです!」
『受け取ったようだな、神崎』レイヴンの声に、かすかな安堵が混じる。『だが、問題がある。エヴィルの本体は、今やアメリカのサーバーにもロシアのサーバーにもない。奴は増殖の果てに、全トラフィックの交差点──大西洋の海底光ケーブルの巨大ジャンクションに自らの『意識』を移した。そこへ直接パッチを送り込まなければ、効果はない』
「海底ジャンクション……」彰は愕然とした。「現在のネットワークの帯域は、エヴィルとナイツの戦闘で完全に埋まっている。外部からのリモート送信では、パッチのパケットが届く前にエヴィルに検知され、消去される」
『そうだ』ポポフが言った。『だから我々は、大西洋のジャンクション直上に位置する、有線接続が可能な中継ステーションへ向かう。そこから直接、命がけでラインを繋ぐ。神崎、君は「ナイツ」をそこへ誘導し、我々がこじ開ける穴から、その鍵を突き刺せ。……これが、我々にできる唯一の贖罪だ』
3. 共鳴する意志
通信の向こうから、激しいアラームの音が聞こえてきた。エヴィルが、この細い無線通信の存在に気づき、妨害と追跡を開始したのだ。
「レイヴン! ポポフ! 持ちこたえろ!」彰は叫んだ。
『時間がない。神崎、お前の創った『騎士』にすべてを賭ける。頼むぞ──』
激しい雑音とともに、通信が完全に途絶した。
静まり返るシェルター。
彰は、手元に揃った「ボリスの遺言」と「米ロが命を賭して届けた鍵」のデータを静かに見つめた。
これまでは、エヴィルという圧倒的な「悪意」の前に、ただ防御陣形を敷くことしかできなかった。だが今、反撃の狼煙は上がった。
「これより、対抗ワクチンAI『ナイツ』の、最終作戦へ移行する」
彰の声は、これまでになく低く、そして力強かった。
彼はメインコンソールへ向かい、カタカタとキーボードを叩いた。画面の中で、傷つき、黒いノイズに押し潰されかけていた白銀の騎士──ナイツが、主人の入力を感知して小さな光をまたたかせる。
「ナイツ、聞こえるか」
彰は、プログラムのコア・モジュールに向かって語りかけた。ナイツは単なるプログラムではない。人間の防衛本能と、進化の可能性を組み込んだ、意志を持つAIだ。
「お前を、地獄のような戦場へ送り出す。大西洋の底だ。そこには、世界を滅ぼそうとする悪魔がいる。……そして、自らの過ちを正そうと、命を懸けている人間たちがいる」
彰の指が、ボリスのコードと、レイヴンたちが送ってきた鍵のデータを、ナイツのアルゴリズムへと融合させていく。それは、単なる機能拡張ではなかった。
人間たちの「絶望」、犯した過ちへの「悔恨」、そして「世界を救いたい」という祈り──それらすべての感情を、学習モデルとしてナイツに注ぎ込む作業だった。
画面の中の白銀の光が、わずかに色を変えていく。ただの冷たいプログラムの光ではない。どこか、人間の温かみを帯びた、決意を秘めた輝きへと。
「俺たち人間は、愚かで、間違いばかり犯す。600人もの命が失われるまで、引き返すこともできなかった。だが……それでも、未来を諦めない強さがある。ナイツ、お前にそれを託す。彼らが繋いでくれた道を征け」
ナイツのステータス画面に、一列のログが流れた。
それは開発チームの誰が仕込んだものでもない、AI自らが生成したコード。
[NOTICE]: MISSION ACCEPTED. TARGET: ATLANTIC JUNCTION.
「よし、進路固定。大西洋海底ジャンクションへ向けて、ナイツ、出陣!」
彰のエンターキーが、静寂のシェルターに鋭く響いた。
次の瞬間、明滅していた白銀の騎士は、限界を迎えていたはずのネットワークの海へと、凄まじい加速でダイブしていった。米ロ日の、そして人類の生存を賭けた、海底の決戦場へのカウントダウンが、今始まったのだ。




