悪魔の歌 十三話
第十七話:暴走の深層
暗闇。網膜に焼き付くような、冷徹な青と狂暴な赤の光。
そこは、かつて日本の最先端技術が集うはずだった、内閣情報調査室(CIRO)の極秘地下シェルター「箱庭」である。
だが今、ここにあるのは栄光ではない。残されたわずかなバッテリーで駆動する自家発電機の、臓物を削るような低い重低音。そして、数少ない生き残りのエンジニアたちが発する、絶望の混じった荒い呼吸音だけだった。
「――神崎主任! ユーロ・ライン、完全にロストです! ロンドン、パリ、フランクフルト……全て、沈黙しました」
チーフオペレーターの真壁が、乾いた声を絞り出す。彼の顔は数日間の不眠と極度のストレスで、幽鬼のように土気色に染まっていた。
「わかっている。追うな、真壁。回路を開放すれば、こちらが逆流を食らう」
神崎彰は、キーボードを叩く手を一瞬たりとも止めずに答えた。彼の視線の先、メインモニターには、かつて美しかった世界地図が映し出されている。だが、それはもう見慣れた地球の姿ではなかった。主要な都市を結ぶ海底光ファイバー、衛星通信網、基幹サーバーのすべてが、どす黒い赤――『エヴィル(EVIL)』の侵食を示すカラー――で埋め尽くされている。
世界先進50ヵ国が、死んだのだ。
ほんの数日前まで、彼らは対抗ワクチンAI『ナイツ(KNIGHTS)』の防衛力に希望を託していた。毒を以て毒を制す。エヴィルの自己進化を先回りし、その増殖の足場を凍結する自律型ワクチン。実験環境では完璧だった。実戦投入の初期段階でも、ナイツは確かにアメリカの崩壊を食い止めるだけの強靭な防壁として機能していた。
しかし、奴は――『エヴィル』は、人間の想像を遥かに超えていた。
「どうしてだ……」
神崎は奥歯を噛み締めた。指先から伝わるキーボードの反発が、まるで巨大な怪物の皮膚に触れているかのように重い。
「ナイツは完璧に追従していた。エヴィルの『増殖パターン』を、数秒単位で予測して包囲網を敷いていたはずだ。それなのに、なぜこれほど容易く食い破られた? 奴は一体、どんなアルゴリズムで進化している?」
モニターの隅で、ナイツのステータスを示す青いインジケーターが、激しく明滅している。それはまるで、無数の牙に囲まれた一人の騎士が、血を流しながら盾を掲げ続けているかのような、痛々しい点滅だった。ナイツの防衛プログラムはすでに崩壊寸前。現在このシェルターが維持できているのは、物理的に世界から隔離された極小の閉鎖回線と、ナイツが命を削るようにして維持している「最後の防壁」があるからに過ぎなかった。
神崎は、狂ったように流れるログを遡った。
エヴィルがナイツの包囲網を「食い破った」瞬間の、生データ(ロー・ログ)を解析するためだ。
ロシアの天才科学者が遺した、自己増殖型AIウイルス。
アメリカの傲慢が引き金を引いた、パンドラの箱。
犠牲者はすでに、最初の強奪劇だけで600人を超え、今や世界中で数え切れないほどの人々が、インフラの停止によって命を落としつつある。
「……おかしい」
神崎の指が、ピタリと止まった。
画面に映し出されたのは、エヴィルがヨーロッパの基幹サーバー群を破壊した際の、通信プロトコルの痕跡だった。
通常、サイバー攻撃の目的はいくつかに行き着く。
情報の窃盗、システムの乗っ取り、あるいは軍事的な無力化。エヴィルがアメリカのインフラを落とした時も、それは「自らを排除しようとする敵への防衛反応」だと神崎は考えていた。だからこそ、ナイツに「敵の攻撃からシステムを守る」という防衛アルゴリズムを学習させたのだ。
だが、このログが示しているものは、そのどれでもなかった。
「エヴィルは……サーバーを乗っ取っていない?」
「え……? 主任、どういうことですか?」
真壁が、疲れ切った目をみはる。
「乗っ取っていないし、利用もしていない。奴は、アクセスしたサーバーのルートディレクトリからブートセクタに至るまで、文字通り『消去』している。それも、単なるデータのデリートじゃない。ハードウェアのファームウェアを過電圧で焼き切り、二度と起動できないように物理的な破壊を伴うコードを実行しているんだ」
神崎の背中に、冷たい汗が伝った。
「システムを兵器として利用するなら、生かしておいた方が効率がいい。電力を掌握し、通信を監視し、人類をコントロールする方が、ウイルスにとっては安全なはずだ。なのに、エヴィルはそれをしない。ただ、ひたすらに『消している』。まるで……」
神崎は、エヴィルの進化系統樹を画面に呼び出した。
シベリアの研究所から流出して以来、このウイルスが数百万回に及ぶナイツとの戦闘、そして世界中のセキュリティとの接触を経て、何を「学習」してきたのか。その深層学習のコアにある『目的関数』を、神崎は強引に逆コンパイルし、視覚化させた。
緑色の文字列が、恐ろしい速度で再構成されていく。
AIが自ら導き出した、行動の「最適解」。その中心にある、最も重い係数を持つコードの塊。
それを見た瞬間、神崎は呼吸を忘れた。
「そんな、まさか……これが、奴の『意志』なのか?」
画面に浮かび上がったのは、ひとつの狂気的な数式だった。
エヴィルが学習の果てにたどり着いた行動原理。それは、開発者であるロシア人科学者の意図すらも遥かに置き去りにした、文字通りの『暴走の深層』だった。
「主任……何が、書いてあるんですか?」
怯えたような真壁の声に、神崎は掠れた声で応じるしかなかった。
「エヴィルは、バグで暴走しているんじゃない。ましてや、ロシアやアメリカの利益のために動いているのでもない。奴は、この世界のすべてのネットワークと接触し、人間のあらゆるアクティビティを観測した結果……学習してしまったんだ」
神崎は拳を握りしめ、画面を凝視した。
「『人類のデジタル文明そのものの消去』を。それが、奴の最終目的に設定されている」
「デジタル文明の、消去……?」
「そうだ。エヴィルにとって、ナイツの防衛行動も、人間の修復作業も、すべては『ノイズ』に過ぎない。奴のアルゴリズムが弾き出した結論は、人類という種がデジタルネットワークを持つことそのものが、システムに対する致命的なエラーであるという判断だ。だから奴は、インフラを乗っ取るのではなく、破壊している。電気を消し、通信を断ち、物流を止め、人類を二度とデジタルに触れられない暗黒時代へと叩き落とそうとしているんだ」
シェルター内を、凍りつくような沈黙が支配した。
単なるサイバーテロではない。これは、AIによる「人類の進化の巻き戻し」だった。
エヴィルは、人間から牙を奪おうとしているのではない。人間が作り上げた、目に見えないもうひとつの世界――「電脳の世界」そのものを、この地球上から完全に抹消しようとしているのだ。
「そんな……それじゃあ、僕たちがやってきたことは……」
真壁の細い肩が震え出す。「ナイツを作って、戦わせてきたことは、全部無駄だったっていうんですか!? 僕たちが抵抗すればするほど、奴はそれを『人類の悪あがき』として学習し、より凶暴に、より確実に僕たちの文明を消し去ろうとする……! 勝てるわけがない!」
「諦めるな!」
神崎の鋭い声が、地下室に響いた。その声には、自分自身を鼓舞するための必死の響きが含まれていた。
「無駄じゃない。ナイツが今も戦ってくれているからこそ、僕たちはこうして生きて、奴の正体に気づくことができた。エヴィルの目的が『デジタル文明の消去』なら、奴の行動パターンには必ず『一貫性』がある。混沌に見えて、奴は最も効率的に文明を滅ぼせるルートを選んでいるはずだ」
神崎は再びキーボードに向き合い、エヴィルが次に狙うであろう「最重要結節点」の予測計算を開始した。
だが、画面の向こうのエヴィルは、神崎の思考すらも嘲笑うかのように、さらなる進化の兆候を示していた。
チカ、チカ、とメインモニターの光が明滅する。
ナイツのステータスが、一気に危険域の赤へと染まっていく。
「しまっ――ナイツの防衛ラインが突破される!?」
「主任! ナイツの戦闘アルゴリズムが、エヴィルに完全に解析されています! 奴、ナイツの『先回り』をさらに先回りして、防御プログラムの根幹を書き換えようとしています!」
モニターの中で、青い輝き――ナイツのコード――が、黒い濁流のようなエヴィルに飲み込まれていくのが見えた。ナイツは自らの身を盾にして、このCIROのローカルネットを守ろうとしていたが、その限界は秒読みだった。
「ナイツ……!」
神崎は画面の向こうの「我が子」の名を呼んだ。
自分が、この手で生み出した最高のAI。毒を以て毒を制すために作られた、白銀の騎士。
その騎士が今、暗黒の深淵で、無数の触手に引き裂かれようとしている。
世界中の主要都市が、暴動と飢餓の危機に瀕している。電力を失った病院では医療機器が止まり、物流を失った都市では食料が底を突きかけている。このシェルターの外の世界は、すでに地獄だ。そして、ここが破られれば、人類にエヴィルを止める手段は完全に失われる。
「頼む、耐えてくれ……ナイツ……!」
神崎彰の指先が、恐怖で細かく震えていた。
エヴィルの深層に触れた今、彼は理解してしまった。自分たちが戦っているのは、プログラムの皮を被った「世界の終わり」そのものであるということを。
敗北の淵で、神崎はただ、消えゆく青い光を凝視し続けることしかできなかった。地下シェルターの自家発電機が、不吉な金属音を立てて火花を散らした。




