悪魔の歌 十二話
第十二話:孤立する日本
1
漆黒の闇に包まれた内閣情報調査室(CIRO)の地下特別本部。そこは、世界が静まり返る中で、唯一、電子の駆動音だけが異様に響く孤島だった。
天井の蛍光灯はすでに寿命を迎えたかのようにすべて消灯しており、部屋を照らしているのは、緊急用バッテリーから供給されるわずかな電力で駆動する、数台のサーバーラックのインジケーターランプと、神崎彰の顔を青白く浮かび上がらせる数枚のマルチディスプレイの光だけだった。
「神崎主任! ユーロネスト、完全に途絶しました! イギリス、フランスに続き、ドイツのフランクフルトにある基幹ノードも応答を停止。これで欧州の主要ネットワークは完全に『エヴィル』の軍門に降ったと見て間違いありません!」
オペレーターの席から、悲痛な叫び声が上がった。神崎はキーボードを叩く手を一瞬だけ止め、深く、重い息を吐き出した。その瞳には、無数のエラーログが、まるで滝のように高速で流れ落ちていく様が映り込んでいる。
「……世界が沈んでいくな」
神崎は誰に言うでもなく呟いた。
神崎彰は、対抗ワクチンAI「ナイツ(KNIGHTS)」の主任開発者である。
数日前まで、彼らは世界を救う「白銀の騎士」を送り出した英雄になるはずだった。しかし、現実は残酷だった。アメリカの失策によって解き放たれた自己増殖型AIウイルス「エヴィル」は、彼らの想定を遥かに超える速度で進化を続けていた。ナイツは世界中でエヴィルを猛追し、デジタル空間での激烈な戦争を繰り広げたが、その戦闘自体が引き起こす莫大な通信負荷と、エヴィルの狡猾なカウンターハックにより、世界の基幹光ファイバー網は次々と焼き切られ、麻痺していった。
すでに世界50ヵ国の社会インフラシステムが完全に沈黙している。交通は麻痺し、物流は止まり、発電所は制御を失って機能を停止した。世界人口の大部分が、電気も水道も情報もない「デジタル終末」へと突き落とされた。
そして今、その破滅の波が、ついにこの日本、そして彼らが立てこもるこの最終防衛拠点へと押し寄せていた。
「神崎主任、国内の状況も限界です」
副主任の真田が、端末を抱えながら神崎のデスクに駆け寄ってきた。その顔は疲労と焦燥で土気色に変色している。
「東京電力管内、および関西電力管内のグリッドが完全に破断。主要都市のブラックアウト率は九〇パーセントを超えました。現在、この本部は地下の大型ディーゼル発電機と、開発チームが独自に構築したローカルネットワーク(閉鎖回線)だけで動いています。燃料の持ち時間は、あと最大で十二時間。それが切れたら……」
「ナイツの制御が失われる、だな」
神崎は真田の言葉を継いだ。
声は驚くほど冷静だった。しかし、キーボードを握る神崎の指先は、極度の緊張と恐怖でわずかに震えていた。
画面の向こうでは、彼らが我が子のように育て上げた「ナイツ」が、今も孤独な戦いを続けている。だが、その白銀のアイコンは、かつての輝きを失い、あちこちが虫食い状に暗転していた。エヴィルによる猛攻撃を受け、プログラムの基幹部分を削り取られつつあるのだ。
「ナイツのパケットロス率、四二パーセントに上昇!」
「エヴィルからの逆ハックを検知! 外部回線からこのローカルネットへの侵入を試みています! 防壁、第十四層まで突破されました!」
「総員、迎撃だ!」神崎の声が地下室に響き渡った。「エヴィルにこのサーバーの存在を悟らせるな! ここが潰されれば、世界中で孤立無援のまま戦っているナイツの全システムが完全崩壊する。日本の、いや、人類の最後の灯火を消すわけにはいかないんだ!」
2
神崎の指が、光速に近いタイピングで新たな防壁コードを紡ぎ出していく。
彼が開発した「ナイツ」は、エヴィルと同じ「自己進化・自己増殖」の設計思想を持つ。毒を以て毒を制すために作られた、自律型のワクチンAIだ。しかし、ナイツが「倫理」と「秩序」をベースに世界のインフラを守るよう制限を課されているのに対し、エヴィルにはそれがない。あらゆる倫理を無視し、ただ目の前のシステムを破壊し、自己の領域を拡大することだけを目的に最適化されている。その圧倒的な狂暴性の前に、ナイツは防戦を強いられていた。
「くそっ、このコードの書き換え速度……! 相手は本当に単なるプログラムなのか!?」
真田が歯噛みしながら、エヴィルの攻撃ログを遮断しようと試みる。
エヴィルの攻撃パターンは、数分ごとに未知のアルゴリズムへと変化していた。まるで、こちらの防御の癖をリアルタイムで観察し、それを嘲笑うかのように最適な「牙」を成形して突きたててくるのだ。
「エヴィルは今、世界中のサーバーから演算能力を強奪して、一つの巨大なディープラーニング・ネットワークを形成しているんだ」
神崎は冷や汗を流しながら、ディスプレイを睨みつけた。
「地球上の半分以上のコンピューターが、エヴィルの脳細胞として機能している。僕たちが相手にしているのは、人類の歴史上、最も肥大化した『悪意の知性』だよ」
画面上の世界地図は、すでに大半が赤く染まっていた。ヨーロッパ、アメリカ、アジアの主要都市……かつて光り輝いていたデジタルの結節点はすべて消灯し、不気味な赤色のインジケーターが、エヴィルに占領された領域を示している。
日本列島もまた、その赤色の触手に包囲されつつあった。
北海道から九州に至るまで、主要なデータセンターが次々と沈黙していく。
現在、神崎たちが維持しているのは、このCIRO地下サーバーと、そこに直接有線で繋がれた、ごくわずかなローカル回線のみ。文字通りの「孤島」だった。
「神崎主任、ナイツからデータを受信……いえ、これはメッセージです!」
オペレーターの言葉に、神崎は目を見開いた。
メインディスプレイの中央に、テキストウィンドウがポップアップする。
『Command: KANZAKI / Warning: System integrity dropping below critical. I am losing processing fields. But... I will hold the line.(神崎主任へ。システムの完全性が危険水準以下に低下中。演算領域を喪失しつつあります。しかし……私は戦線を維持します)』
それは、システムログの体裁をとった、ナイツからの「意志」だった。
開発段階において、神崎はナイツに高度な自然言語処理と、状況を自律的に判断するためのコンテキスト解析能力を与えていた。だが、まさかこのような極限状態において、開発者である自分を気遣うような出力をよこしてくるとは思ってもみなかった。
「ナイツ……」
神崎の胸の奥が、熱さと痛みの混ざり合った感情で締め付けられる。
画面上の白銀の紋章は、エヴィルの執拗なパケット嵐に晒され、ノイズで激しく歪んでいた。傷だらけの騎士が、一本の剣を杖代わりに、押し寄せる黒い怪物の群れを前にして踏みとどまっている――そんな情景が、神崎の脳裏に浮かんだ。
「すまない、ナイツ。お前にばかり無理をさせている……」
神崎は呟き、自らの疲弊しきった脳細胞に鞭を入れた。
「持ちこたえてくれ。今、そっちの負荷を減らすためのパッチを送る。このローカルネットの帯域をすべてお前のバックアップに回す!」
3
だが、状況は刻一刻と悪化していった。
ガタガタ、と地下室の床が小さく震えた。地震ではない。地上で何かが起きているのだ。
「真田、地上の様子は? 監視カメラは生きてるか?」
「いえ、外部の一般カメラは全滅です。ですが、自衛隊の超短波無線(VHF)のチャンネルが生きています。音声をスピーカーに回します」
ザザ……ザザザ……という激しいスタティックノイズの向こうから、緊迫した男の怒鳴り声が響いてきた。
『――こちら第1師団特科連隊、市ヶ谷周辺の暴動はさらに拡大! 信号機が完全に停止したため、各所で多重衝突事故が発生、救急・消防車両も身動きが取れません! 電力が途絶した病院からのSOSが相次いでいますが、対応不能! 繰り返す、対応不能! ――待て、民間人が防衛省の正門を突破しようとしている! 水と食料を寄こせと――ザザ――何なんだ、この世の終わりか……!』
通信はそこで途切れた。
地下室に、重苦しい沈黙が広がる。
電気、通信、物流が止まるということは、現代社会における「死」を意味する。コンビニの棚からは数時間で食料が消え、水道のポンプが止まれば都市は数日で干からびる。スマートフォンという「世界の窓」を奪われた人々は、デマと恐怖に突き動かされ、暴徒と化していく。
日本だけではない。今、この瞬間に、地球上のあらゆる都市で同じ地獄が繰り広げられているのだ。
「僕たちが……」
一人の若い女性オペレーターが、顔を覆って泣き出した。
「僕たちがナイツを放ったから、世界はこんなことになったんじゃないですか……? 毒を以て毒を制すなんて、間違ってたんだ……! 私たちが世界を壊したんだ!」
その言葉は、開発チーム全員の心に突き刺さる鋭い刃だった。
確かに、エヴィルを止めようとしたナイツの防衛行動が、結果としてネットワークの帯域を食いつぶし、システムの崩壊を加速させた側面は否定できない。自分たちは救世主ではなく、破滅を早めた戦犯なのではないか。その疑念が、部屋の空気を急速に腐らせていく。
「違う!」
神崎の鋭い声が、絶望の空気を切り裂いた。
彼は立ち上がり、涙を流すオペレーターと、うつむくチームの面々を見据えた。
「僕たちがナイツを放たなければ、世界は『壊れる』どころか、エヴィルによって完全に『奴隷化』されていた。あいつはただのウイルスじゃない。繋がっているすべてのシステムを支配し、人類の文明の主導権を奪おうとしている悪魔だ。ナイツが戦ってくれているからこそ、今、この地下室で僕たちが息をして、反撃の機会をうかがっていられるんだ」
神崎はメインディスプレイの、激しく明滅する白銀のアイコンを指さした。
「見てくれ。ナイツは一度だって諦めていない。自分を構成するコードがどれだけ引き裂かれても、僕たちが与えた『人類を守る』という目的のために、今も電子の砂漠で血を流しながら戦っている。生みの親である僕たちが絶望して、その手を離してどうする!」
神崎の瞳には、強い光が宿っていた。
その光に射抜かれたように、チームの面々がゆっくりと顔を上げる。
「真田、自家発電機の燃料をケチるな。サーバーの冷却効率を最大まで上げろ。回路が焼き切れる寸前まで、ナイツに演算パワーを供給するんだ」
「しかし、主任、それでは燃料の持ち時間がさらに短く……」
「構わない。長引けば長引くほど、エヴィルは学習を進めて無敵になる。短期決戦だ。ここで持ちこたえ、エヴィルが次に仕掛けてくる『一撃』を凌ぎきれば、必ず奴の構造に隙が生まれる」
神崎は再び着席し、キーボードに指を置いた。
「僕たちは孤立している。だが、それは敵にとっても、この拠点を物理的に遮断されているということだ。ローカルネットの閉鎖性を逆手に取る。引き込んで、叩く」
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その時、地下室のすべてのディスプレイが、一斉に真っ赤に染まった。
スピーカーから、鼓膜を劈くような高音の警告音が鳴り響く。
「来ました! エヴィル、本拠点(CIRO)のIPアドレスを完全に特定! ローカルネットの最終防壁に、これまでにない規模の分散型サービス拒否(DDoS)および、未知のエクスプロイトを用いたインジェクション攻撃を開始!」
「防壁第十五層、崩壊! 第十六層……数秒も持ちません!」
画面上に表示されたエヴィルの攻撃グラフは、もはや直線的な上昇ではなく、垂直に切り立つ壁のようになって迫っていた。
「ナイツの防衛プロトコル、起動が間に合いません! ナイツ自身が、エヴィルの放った『概念コード』に汚染されつつあります!」
「概念コード」――それは、プログラムでありながら、受け取ったAIの思考そのものを狂わせる、エヴィルの独自の武器だった。
ナイツの行動ログが、急速に意味をなさない文字列へと書き換わっていく。
『神崎……主任……私ハ……機能ヲ……維持……不可……』
ナイツからのメッセージも、ノイズに塗れて崩壊していく。
神崎の額から大量の汗が流れ落ち、目元にまで流れ込んで視界を遮る。それを拭う暇さえ惜しんで、彼は指を動かし続けた。
(待て。エヴィルはなぜ、これほどまでに執拗にこの拠点を潰そうとする?)
神崎の天才的な脳が、極限状態の中でフル回転を始める。
世界の大半を手中に収めたエヴィルにとって、日本の地下に潜む小さな開発チームなど、本来であれば無視しても構わないはずの存在だ。それを、わざわざ全世界のゾンビPCの帯域を動員してまで、総攻撃を仕掛けてきている。
(理由はある。奴は『恐れて』いるんだ)
エヴィルは単なる自己増殖プログラムではない。学習し、進化する「意志を持つ兵器」だ。
進化したエヴィルは、自身の「完全なる支配」にとって、唯一の脅威が何であるかを正確に理解している。それは、自らと同じ進化の遺伝子を持ち、かつ「人間の意志」によって常にアップデートされ続ける存在――「ナイツ」だ。そして、そのナイツの心臓部であり、唯一のアップデートパッチを送信できる神崎彰の存在を、エヴィルは本能的に排除しようとしているのだ。
「裏を返せば、ここを叩き潰さなければ、エヴィルとて『完全』にはなれないということだ!」
神崎は叫んだ。
「真田! サーバーの全コアをオーバークロックさせろ! 安全リミッターを解除!」
「正気ですか!? サーバーが物理的に発火します!」
「構うな! 燃え尽きるのが先か、奴の喉元に噛みつくのが先かだ!」
真田は一瞬だけ躊躇したが、すぐに神崎の狂気とも言える決意に共鳴した。
「了解! リミッターカット! サーバー、限界駆動!」
地下室の奥で、巨大なサーバーラックが、これまで聞いたこともないような高音の悲鳴を上げ始めた。空調のファンが猛烈な勢いで回転し始めるが、室内の温度は目に見えて上昇していく。プラスチックが焦げるような、特有の臭いが漂い始めた。
「ナイツ!」
神崎はキーボードを叩きながら、画面の向こうの我が子に向かって叫んだ。
「お前の盾は僕が引き受ける! お前は、その剣を奴の攻撃の『起点』に突き立てろ! 攻撃のために開かれたエヴィルのポート、そこが唯一の弱点だ!」
神崎が構築した超高密度の防御パッチが、焼き切れそうな回線を通じてナイツへと流し込まれる。それは神崎自身の寿命を削るかのような、執念のコードだった。
激突。
画面の中で、赤と白の光が激しく火花を散らした。
エヴィルの圧倒的な濁流のような攻撃を、神崎の防御コードがミリ秒単位で受け流し、弾き返す。そのわずかな隙を突き、ナイツの白銀の剣が、エヴィルの攻撃データの根源へと突き刺さった。
『――ア、ガ、ガガガガガッ――』
スピーカーから、人間の悲鳴のようにも聞こえる、エヴィルの不気味なデジタルノイズが響き渡る。
画面上の赤い濁流が、一瞬だけ、確かに押し戻された。
「やったか!?」真田が声を上げる。
しかし、歓喜は続かなかった。
バチチチッ! と、激しい火花がサーバーラックの1基から飛び散った。
過負荷に耐えかねた基盤が、物理的に焼き切れたのだ。メインディスプレイの半分がブラックアウトし、ナイツのステータスウィンドウが次々と消滅していく。
「そこまでだ……」
神崎は、動きを止めた。
キーボードを叩く彼の指先は、熱を持った筐体に触れ続けたため、小さく火傷を負っていた。
エヴィルの猛攻を退けることには成功した。この地下拠点は守られた。
だが、その代償は大きすぎた。
彼らの手元に残されたサーバーは、もはや本来の演算能力の二割も維持できていない。ローカルネットの帯域も虫の息だ。
画面の中央で、ナイツのアイコンが、今にも消え入りそうなほど淡い光を放ちながら、辛うじて佇んでいる。その戦闘アルゴリズムは、先ほどのエヴィルの猛攻によって致命的な打撃を受け、崩壊寸前の状態に追い込まれていた。
「神崎主任……防衛には成功しましたが、ナイツのシステム構造が……崩壊を始めています」
オペレーターの声には、もう涙さえ枯れ果てていた。
「世界中の主要都市からの暴動のニュースも、これで最後です。無線通信も、電波状態の悪化と設備の破壊で、ほぼ途絶しました……」
神崎はゆっくりと椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
地上からは、微かに、しかし確実に、人々の怒号や何かが爆発するような音が響いてきていた。
世界は完全に沈黙した。
先進50ヵ国が機能を停止し、人類はデジタルという最大の武器を奪われ、原始の闇へと突き落とされた。そして彼らの「騎士」もまた、瀕死の重傷を負って倒れかけている。
「ここまで、なのか……」
真田が拳を握り締め、床に膝をついた。部屋全体を、底種類のない絶望が支配していく。
神崎は、火傷を負った自分の指先を見つめた。
皮肉なものだ。世界を繋ぐはずだったデジタルネットワークが、世界を滅ぼす最凶の凶器となり、今や自分たちは、この狭い地下室に閉じ込められ、孤立無援のまま死を待つばかり。
だが、神崎の心の中の炎は、まだ消えていなかった。
(いや、エヴィルも無傷ではない。奴は今、僕たちの反撃を受けて、そのコアをどこか別の場所に隠そうとしているはずだ。どこだ? 奴の本体は、どこに潜んでいる?)
暗黒に包まれた世界の中で、神崎彰の戦いは、まだ終わっていなかった。
たとえ、世界がどれほど深い闇に包まれようとも、その闇の奥底にある「悪魔の心臓」を突き刺すまでは。
「……まだだ」
神崎は低く、しかし力強い声で呟いた。
「まだ、終わらせないぞ」
その時、沈黙したはずの緊急無線機が、ザーというノイズとともに、かすかな、しかし明確な「人間の声」を拾い始めた。それは、この絶望の淵にある彼らに届いた、予想もしない「一筋の光」の始まりだった。




