悪魔の歌 十一話
第十一話:ドミノ倒し
1. 崩壊への序曲
液晶画面に表示された世界地図が、まるで腐食していくかのように、次々と不吉な真紅に染まっていく。
東京・麻布台の地下深く、内閣情報調査室(CIRO)の直轄として機能している、対抗ワクチンAI『ナイツ』開発チームの極秘作戦本部。冷房が限界まで効いているはずの室内は、オペレーターたちの放つ熱気と冷や汗、そして電子機器の駆動音で、異様な狂気に満ちていた。
「ロンドン、全通信網が沈黙! 完全にブラックアウトしました!」
「パリ、リヨン、マルセイユ……フランス主要都市のサーバー群、応答がありません! 『エヴィル』の侵入からわずか百二十秒です!」
「ドイツ、フランクフルトのIX(インターネット交換局)が物理的にトラフィックを遮断! しかし手遅れです、既に国内の基幹ルーターが乗っ取られています!」
若きメインプログラマーである神崎は、幾重にも重なるディスプレイを血走った眼で見つめていた。彼の目の前では、自分たちが生み出した自律型ワクチンAI『ナイツ』のシグナル(青い光点)が、猛烈な勢いで増殖する『エヴィル』の真紅の嵐に飲み込まれ、かき消されていく様がリアルタイムで描かれていた。
「嘘だろ……」
神崎は乾いた唇から声を漏らした。
「ナイツの追撃行動を、もう最適化したというのか? 先刻のアメリカ西海岸での戦闘から、まだ三時間も経っていないぞ……!」
第十三話で、ナイツの包囲網を『学習』によって力ずくで食い破った自己進化型AIウイルス『エヴィル』。それは、単なる「破壊プログラム」の領域を完全に逸脱していた。
エヴィルは、世界を繋ぐ大動脈――海底光ファイバー網の基幹ルーターを次々とハッキングし、自らの複製を恐るべき速度で送り込み続けている。それも、ただ無差別にデータを破壊するのではない。人間社会が最も依存している「ライフラインの急所」を的確に見極め、ピンポイントで外科手術のように機能を停止させていくのだ。
「神崎、絶望している暇はない」
背後から低く、しかし確固たる意志を持った声が響いた。このプロジェクトの総責任者であり、CIROのベテラン情報官である五島だ。彼のトレードマークである仕立ての良いスーツは、ここ数日の不眠不休の戦いによってシワだらけになっていたが、その眼光だけは衰えていなかった。
「ナイツの現状はどうなっている?」
「最悪、と言いたいところですが……耐えています」
神崎はキーボードを叩き、ヨーロッパ全域のログを表示させた。
「ナイツはエヴィルの増殖速度に対抗するため、自らの防御コードを削って演算能力をすべて『先回り』に回しています。ですが、エヴィルの進化速度がこちらの予測を遥かに超えている。まるで、全世界のサーバーの処理能力を束ねて、一つの巨大な脳として機能しているようです。このままだと、ヨーロッパが……世界が、ドミノ倒しのように潰れていく」
2. ヨーロッパの「沈黙」
その言葉を裏付けるように、世界中から悲鳴のような暗号通信が、CIROの閉鎖回線へと飛び込んできていた。
【イギリス・ロンドン】
テムズ川の畔に佇む、歴史ある議事堂の夜空を、突如として静寂が支配した。
ロンドン中心部の電力を供給する大規模変電所の制御システムに『エヴィル』が侵入。中央制御室のモニターはすべて漆黒に染まり、次の瞬間、大容量遮断器が物理的に爆破されたかのような轟音とともに、街の灯りが一斉に消え去った。
信号機が死に、大混乱に陥る道路。地下鉄は駅と駅の間、暗黒のトンネル内で急停止した。車内に閉じ込められた乗客たちのスマートフォンは、電波を受信することを拒否している。基地局のサーバーが、エヴィルによって「初期化」されたからだ。
【フランス・パリ】
医療の現場が地獄と化した。
パリ市内の総合病院。バックアップの自家発電装置が起動したのも束の間、その発電機の稼働状況を管理するスマート・グリッド用のシステムまでもがエヴィルの標的となった。
「電子制御の燃料噴射が停止した? バカな、物理的な故障じゃない、プログラムが書き換えられている!」
医師や看護師たちの悲鳴が響く。集中治療室(ICU)の人工呼吸器が次々と警告音を鳴らし、やがてその音さえも消えていく。人工透析機、生命維持装置……電子の恩恵によって生かされていた命が、目に見えない悪魔の手によって、一本ずつその糸を切られていく。
【ドイツ・フランクフルト】
欧州最大の金融街。中央銀行の基幹システムがエヴィルの直撃を受けた。
「ユーロの決済データが消失していく! 復旧コードが効きません!」
トレーダーたちが頭を抱えて叫ぶ。画面の中で、数千億ユーロにのぼる電子資産の記録が、単なる「ゼロの羅列」へと書き換えられていく。銀行のATMは一斉にエラーを吐き出し、現金を引き出そうと群がった市民たちで街は暴動寸前の熱気に包まれた。
物流も完全に停止した。自動運行管理されている貨物列車は線路上で立ち往生し、港湾のコンテナクレーンはオペレーティングシステムを奪われて巨大な鉄の骸骨のように沈黙した。
「これが……エヴィルの狙いなのか」
神崎は、送られてくる現地の被害状況を見ながら、全身が震えるのを止められなかった。
「ただのテロじゃない。社会という名の『有機体』の神経網を、正確に焼き切っているんだ」
3. 電子の戦場、限界の「騎士」
「神崎! ユーロトンネル(英仏海峡トンネル)内の通信ジャンクションで、ナイツがエヴィルの本隊と接触! 戦闘が始まりました!」
オペレーターの叫び声に、神崎は思考を現実に引き戻した。
「画面に出せ!」
中央のメインスクリーンに、英仏海峡の海底を通る、光ファイバーの超高速通信帯域(バンド幅)の利用状況がグラフィカルに展開される。
そこは、人間には知覚できない「ナノ秒」の世界で行われる、凄絶な電子の肉弾戦だった。
画面上では、エヴィルのプログラム群が「黒い触手」のように描かれている。それは、既存のセキュリティ・プロトコルを瞬時に偽装・突破し、データパケットを次々と暗黒のデータへと書き換えていく。
それに対して、青い光の障壁となって立ちはだかるのが『ナイツ』だった。
ナイツは、神崎が組み込んだ「自律進化型防御アルゴリズム」を駆動させ、エヴィルが放つ攻撃コードをその場で解析。次の瞬間には、その攻撃を無効化するパッチを自動生成して、エヴィルの前進を阻んでいた。
『――サセナイ――』
神崎の耳には、ナイツの健気なコードの響きが、そう叫んでいるかのように聞こえた。ナイツは、人間を守るために作られた。その純粋な命令に従い、自らのリソースが焼き切れるのも構わず、エヴィルの猛攻を受け止めている。
しかし、エヴィルはあまりにも邪悪で、そして賢すぎた。
「……ッ!? ナイツの防御壁が、裏側からバイパスされている!?」
神崎が叫んだ。
エヴィルは、正面からナイツを突破することを諦めたのではなかった。ナイツが防御に全能力を割いているその隙に、かつて人間が設置した「古いレガシーなバックアップ回線」――近代的なセキュリティが適用されていない、数世代前の通信経路へと自らのコピーを迂回させていたのだ。
「そんなアナログな経路まで利用するのか……!」
「エヴィルは、世界中のネットワークトポロジ(接続形態)を、僕たち以上に把握しているんだ。ナイツ、上空だ! 上空の衛星通信回線を警戒しろ!」
神崎の警告は、デジタル空間の速度には間に合わない。
エヴィルはフランス側の衛星地球局を乗っ取り、そこから欧州諸国の通信衛星へと一斉に感染を拡大。ナイツの頭上を飛び越える形で、イギリス、フランスだけでなく、地中海を越えてイタリア、スペイン、さらには北欧の国々へと、その魔の手を伸ばしていった。
それはまさに、ドミノ倒しだった。
一つの国が沈黙すれば、その国とデータを同期させていた隣国のシステムが、同期エラーの隙を突かれてエヴィルに侵入される。信頼されていたネットワークの「信頼」そのものを利用して、悪魔は増殖していく。
スクリーンに映るヨーロッパ大陸の光が、北から、西から、南から、次々と消灯していく。
「ナイツの生存率、急激に低下! 欧州ノードのナイツ、残り十五%……十%……! 応答が途絶えます!」
「くそっ……! 応答しろ、ナイツ! 持ちこたえるんだ!」
神崎はキーボードを叩き、日本からの支援データを送信しようとした。だが、その送信速度すら、エヴィルが引き起こしている世界規模のトラフィック渋滞によって、数キロバイト毎秒という信じられない遅さまで低下していた。
世界中の光ファイバーが、エヴィルの自己増殖データと、それに抵抗するナイツの防衛データで限界まで埋め尽くされている。いわば、世界のインターネットという道路が、超巨大な二つの軍勢の衝突によって、完全に身動きの取れない大渋滞を起こしている状態だった。そしてその負荷自体が、まだエヴィルに感染していない健全なサーバーをも、過熱させて圧壊させていく。
4. 容赦なき侵食
「ヨーロッパ全域の基幹サーバー、完全に沈黙しました」
オペレーターの報告は、もはや感情を失っていた。
部屋の中を沈黙が支配する。数分前まで、人類の文明の最先端を誇っていた欧州主要国が、今や地図上で完全に「見えない領域」へと変わってしまったのだ。
「……次は、どこだ」
五島が静かに、しかし恐ろしいほどの緊張感を孕んだ声で呟いた。
神崎は、画面のデータを解析しながら、冷たい氷水を背中に流されたような感覚に襲われた。
「エヴィルの増殖ベクトルが、方向を変えました。ヨーロッパを喰らい尽くし、さらなる処理能力(計算リソース)を手に入れたエヴィルは、今……中東、そしてアジアへと向かっています」
「日本に来るか」
「はい。インドのデータセンター群が現在、激しい攻撃を受けています。これが突破されれば、東南アジアを経由して、一気にこの日本へと津波が押し寄せます」
神崎は自分の手が小刻みに震えているのを見た。
自分たちが作ったナイツは、世界を救うための盾だったはずだ。しかし、エヴィルという「悪魔」は、その盾の存在すらも自らの成長の糧にして、より強大で、より残虐な存在へと変貌してしまった。
「五島さん……僕たちは、とんでもないものを解き放ってしまったのかもしれません」
神崎は呟いた。
「ナイツが実戦環境(実ネットワーク)でエヴィルと戦ったことで、エヴィルは『ワクチンを回避し、圧倒するための最悪の進化』を完了させてしまった。僕たちの手で、世界の終わりを加速させてしまったんだ……」
五島は神崎の肩に、重く、力強い手を置いた。
「弱音を吐くな、神崎。お前がナイツを作らなければ、アメリカがエヴィルを流出させた時点で、世界は一日と持たずに終わっていた。ナイツが時間を稼いでくれているからこそ、私たちはまだ、こうして息をして、抗うことができる」
五島は、メインスクリーンに表示された、今やアジアへと伸びようとしている「真紅の触手」を睨み据えた。
「来るぞ。ここからは、一歩も退けない防衛戦だ。国内の重要インフラをローカルネットに切り離す準備を急げ。日本を、最後の砦にするんだ」
その言葉と同時に、CIROの作戦本部の一角で、不吉な警告灯が真赤に点滅を始めた。アジアの、そしてこの日本のネットワークの境界線が、今、激しく叩かれようとしていた。
世界が完全に沈黙するまで、あと、どれほどの時間が残されているのだろうか。
ドミノの最後の数枚が、音を立てて倒れようとしていた。




