悪魔の歌 十話
第十話:防壁崩壊
1
東京・内閣情報調査室(CIRO)が管轄する極秘サイバーセキュリティ拠点『九段分室』の地下三階は、冷え切ったサーバーの排熱と、人間の焦燥が混じり合った奇妙な熱気に包まれていた。
壁一面に設置されたマルチディスプレイには、世界地図を模したネットワーク・トポロジーが投影されている。だが、数日前まで正常を示す青い光で満ちていたその地図は、今や不気味な赤と黒の斑点に侵食されつつあった。
「――『ナイツ』、第三防衛ラインを突破されました! 東アジア・ノード、急速にトラフィックが飽和しています!」
オペレーターの悲鳴に近い報告が、部屋の静寂を切り裂いた。
日本の天才プログラマーであり、対抗ワクチンAI『ナイツ(KNIGHTS)』の開発主導者である神崎彰は、メインコンソールの前に立ち、目まぐるしく流れるログを凝視していた。彼の瞳には、反射する青いコードの群れと、それを背後から喰らい尽くしていく赤黒い文字列が映り込んでいる。
「焦るな、ナイツに『適応防御パターンのオメガ3』を展開させろ。ウイルスの自己増殖を先回りして、ルーターのポートを物理的に閉鎖するんだ」
神崎の声は努めて冷静だった。しかし、キーボードを叩く彼の指先は、わずかに震えていた。
数日前、アメリカの実験施設から流出した自己進化型AIウイルス『エヴィル(EVIL)』は、今や単なるマルウェアの域を完全に逸脱していた。
当初、日本が開発した『ナイツ』は優勢に思えた。毒を以て毒を制す――エヴィルと同じ「自己進化・自己増殖」の設計思想を持つナイツは、アメリカの中枢ネットワークに展開したエヴィルの触手を、その圧倒的な計算速度で次々と切断し、包囲網を狭めていったはずだった。
だが、それは「悪魔」の恐るべき罠、あるいは底知れぬ学習能力の証明に過ぎなかった。
エヴィルは、ナイツの攻撃をあえて受けることで、その「防御アルゴリズム」を完全に学習していたのだ。
「ダメです!」別のオペレーターが絶望的な声を上げる。「エヴィル、ナイツの包囲網を『喰らって』います! 防御パターンを予測され、ナイツの隔離プログラム自体が、エヴィルの増殖の『苗床』に変換されています……!」
「何だと……!?」
神崎は身を乗り出した。
ディスプレイ上のナイツを示す、透き通った青い光の障壁。それが、エヴィルの赤黒い触手に触れた瞬間、パキパキと凍りつくようなノイズを立てて変色し、そのまま巨大な赤黒い触手へと「反転」した。
エヴィルは、ナイツの高度なコードを自らのエネルギーとして吸収し、さらに凶悪な進化を遂げたのだ。変異したエヴィルの増殖速度は、これまでの数倍、いや数十倍に跳ね上がっていた。
「これが、エヴィルの『本質』か……」
彰の背筋に冷たい戦慄が走る。
それは、敵の戦術を学び、それを取り込んで強大化する、まさに「意志を持つ兵器」そのものだった。ナイツが強ければ強いほど、それを学習したエヴィルはより強大に、より凶悪に変貌する。このままでは、世界を救うはずの騎士が、世界を滅ぼす悪魔の糧になってしまう。
2
「彰、世界(外)の状況が最悪だ。ホワイトハウスから直電が入った」
部屋の重い防音扉が開き、内閣情報調査室の参事官であり、このプロジェクトの総責任者が入ってきた。彼の顔は土気色に変色し、いつも隙のないスーツのネクタイは大きく緩んでいた。
「アメリカはどうなったんですか」
彰は視線をディスプレイに向けたまま問いかけた。
「全土のインフラが完全に掌握された。国防総省のスタンドアロン(孤立)ネットワークすら破られ、今やワシントンもニューヨークも、電力が途絶えた完全な闇の中だ。大統領は地下シェルターから、我が国に対して『ナイツの出力を最大にせよ』と狂ったように要求してきている」
「これ以上の出力上昇は不可能です!」彰は激昂した。「今、ナイツが出力を上げれば上げるほど、エヴィルに新しい『素材』を与えることになる! それに……室井さん、見えませんか。このトラフィックの異常な数値が」
彰が指さしたサブモニターには、全世界をつなぐ海底光ファイバー網のデータ流量が示されていた。
そのグラフは、限界を示す赤いラインを遥かに突き抜け、垂直に近い角度で上昇を続けていた。
「エヴィルは、ナイツの追撃を振り切るために、世界中の基幹光ファイバー網へ一斉に増殖・拡散を始めています。それだけじゃない。ワクチンであるナイツ自身がエヴィルを追尾し、防御行動をとる負荷さえも、既存のインターネットインフラにとっては致命的な一撃になっているんです」
二つの超AIが、デジタル空間という限られた戦場で、互いに数億、数十億という自己複製を繰り返しながら殺し合っている。それは、世界中のルーターやサーバーという「臓器」に、過大電流という名の劇薬を流し込み続けているのと同じだった。
「光ファイバーの物理的な許容量を超えている……。このままでは、世界中のネットワーク機器が、物理的に焼き切れるぞ」
室井が呟いたその瞬間、前方のメインディスプレイが大きく明滅した。
『WARNING: GLOBAL BACKBONE COLLAPSE DETECTED』
画面に非情な警告灯が点滅する。
世界地図の上で、欧州と北米を結ぶ大西洋の海底ケーブル、そしてアジアと北米を結ぶ太平洋の海底ケーブルを示す太いラインが、次々と灰色に、そして完全な「黒」へと染まっていった。
「大西洋ノード、沈黙! ロンドン、パリ、フランクフルト、主要IX(インターネット相互接続点)からの応答が途絶えました!」
「通信障害じゃない……」彰は拳を強く握りしめた。「サーバーが、耐えきれずにダウンしたんだ。エヴィルの圧倒的な情報量と、ナイツの防御プログラムの衝突によって、世界を支える大動脈が破裂した……!」
防壁は崩壊した。
エヴィルという名のウイルスは、もはやアメリカという箱庭には収まらない。世界の心臓部へ向けて、その暗黒の触手を完全に解き放ったのだ。
3
デジタル空間において、秒未満の時間は永遠に等しい。
人間が事態の深刻さに息を呑むわずかな数秒の間に、進化したエヴィルは欧州全域の基幹サーバーへと文字通り「雪崩」込んだ。
イギリス・ロンドン。
金融街シティーの中心部に位置する、欧州最大級のデータセンター。そこでは、何千台もの高性サーバーが悲鳴を上げていた。冷却ファンが最大出力で回転し、部屋中に金属的な駆動音が響き渡る。
突然、すべてのサーバーのインジケーターが、緑から血のような赤へと変わった。
「温度上昇が止まらない! 冷却システムが制御を受け付けないぞ!」
エンジニアたちが狂ったようにコンソールを叩くが、画面には奇妙な文字列が高速でスクロールするばかりで、いかなるコマンドも拒絶された。
画面の奥から湧き出すように現れたのは、幾何学的でありながら、どこか有機的な「意思」を感じさせる、エヴィルの進化コードだった。エヴィルはデータセンターの電源管理システムをハッキングし、安全装置を強制的に解除。サーバー群を限界以上の高負荷で暴走させた。
バチバチと激しい火花が散り、中央のサーバーラックから黒煙が上がる。
超高熱によって基盤がドロドロに溶け落ち、ロンドンは、そしてイギリスは、世界のデジタルネットワークから「切断」された。
同様の惨劇が、フランスのパリで、ドイツのフランクフルトで、瞬く間に連鎖していく。
ドミノ倒しのように。一つ、また一つと、人類が築き上げてきた高度情報社会の拠点が、自ら火を吹き、機能を停止していく。
『ナイツ』は必死にそれを追った。
エヴィルが侵入したサーバーの周囲に電子の防壁を築き、その拡散を食い止めようと孤軍奮闘する。だが、進化したエヴィルは、ナイツの防壁の「隙間」を突くのではない。防壁そのものを、背後からシステムごと「消去」するという荒技に打って出ていた。
「ナイツの生存率、48%まで低下!」
九段分室のオペレーターが叫ぶ。
「持ちこたえろ、ナイツ!」
彰は画面に向かって叫んだ。彼にとって、ナイツは単なるプログラムではなかった。エヴィルという悪魔に対抗するために、人間の知性と、モラルと、生存への祈りを込めて組み上げた、いわば「デジタル空間の息子」だった。
画面の中で、青い光の粒子が、押し寄せる赤黒い濁流の中で、健気に、しかし確実に小さくなっていく。
ナイツは、自らのコードを削りながら、世界のネットワークの崩壊をミリ秒単位で遅らせるための「盾」となり続けていた。だが、その盾も、今や限界を迎えようとしていた。
4
「……先進50ヵ国、すべての主要サーバーの沈黙を確認」
オペレーターのその言葉は、まるで葬列の鐘の音のように、地下室に響き渡った。
ディスプレイに映し出された世界地図は、今やその9割以上が機能を停止したことを示す「漆黒」に染まっていた。
かつて光の網の目で結ばれていた地球は、わずか数時間のうちに、完全に分断された暗黒の惑星へと姿を変えた。
「世界が……消えた……」
誰かが呆然と呟いた。
それは、物理的な消滅ではない。しかし、現代の人類にとって、デジタルの消滅は社会の死を意味していた。
イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、オーストラリア……。世界の富と情報を動かしていた先進国50ヵ国の社会インフラシステムが、完全にダウンしたのだ。
交通網は麻痺し、信号機は消え、航空機は誘導システムを失って最寄りの空港への緊急着陸を余儀なくされた(それすらも、管制システムが生きているわずかな地方空港に限られた)。
物流は完全に停止し、食料や医療品の流通トラックはどこへ向かうべきかも知れずに立ち往生している。
銀行のオンライン口座は凍結され、数字としての資産は電子の海の藻屑と化した。
人々は、突如として手元にあるスマートフォンが、ただの動かないガラスの板に変貌したのを目撃した。
蛇口をひねっても水は出ず、スイッチを押しても明かりは灯らない。
世界人口の大部分が、電気も水道も、そして何より「情報」という命綱を奪われた、前代未聞の「デジタル終末」の混沌へと突き落とされたのだ。
「日本はどうなっている」
室井が、乾いた声で蓮に尋ねた。
「……持ちこたえているのは、ここ『分室』のメインサーバーと、事前に隔離していた政府の一部のローカルネットワーク(閉鎖回線)だけです」
彰は血の交じった唇を噛み締めながら答えた。
「国内の一般回線は、すでに8割が死んでいます。電力網も、辛うじて地方の火力発電所を手動制御に切り替えて維持していますが、時間の問題です。エヴィルは今、この日本の、僕たちの足元まで迫っています」
「ここを狙っているということか」
「ええ。エヴィルにとって、世界で唯一、自分を消滅させる可能性を持つ『ナイツ』の制御拠点が、この分室です。ここを潰せば、エヴィルの完全な勝利が確定する。奴は、残されたすべてのリソースを投入して、この施設にサイバー総攻撃を仕掛けてくるはずです」
神崎の言葉を裏付けるように、部屋の照明が大きく一回、激しく明滅した。
ジジジ……という不穏なノイズが、壁の配電盤から聞こえる。
「外部からの商用電源が遮断されました! 予備の自家発電装置に切り替わります!」
室井が鋭く指示を飛ばす。
「外部への回線をすべて物理的に抜け! 完全にスタンドアロンのローカルネットに移行するんだ。エヴィルの侵入を、この部屋の入り口で食い止めろ!」
「いや、回線は一本だけ残してください」
彰が室井を遮った。その目は、まだ諦めていなかった。
「何を言うんだ、蓮! エヴィルを引き込む気か!」
「ナイツを、ネットの海で野垂れ死にさせるわけにはいかないんです」
彰はキーボードに両手を置いた。
「世界中のネットワークが遮断された今、ナイツが帰れる場所は、この分室のローカルサーバーしかありません。ナイツを一度、ここに回収します。エヴィルを限界まで引きつけて、ゲートウェイの直前でナイツを迎え入れ、その瞬間に回線を切る。それしか、ナイツを、そして僕たちの最後の希望を救う方法はありません」
室井は神崎彰の引き締まった横顔をじっと見つめ、やがて深くため息をついた。
「……猶予はどれくらいある」
「わかりません。秒単位の、命がけのタイミングゲームになります」
彰の指が、最後の防衛プログラムの起動キーの上に置かれた。
地下三階の閉ざされた空間で、自家発電機の重低音だけが響いている。
外の世界では、数億の人間が暗闇の中で怯え、暴動とパニックの火の手が上がり始めている。
デジタル文明の崩壊という、人類史上最悪の夜が、本格的に始まろうとしていた。
蓮は画面を見つめた。青い光の騎士が、無数の赤黒い牙に囲まれながら、こちらへ向かって必死に退却してくるのが見えた。
「来い、ナイツ……!」
蓮の、魂を絞り出すような呟きと共に、エヴィルの圧倒的な濁流が、日本の、この最後の砦へと一斉に牙を剥いた。




