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愛のない政略結婚だと思っていたのに、夫はそうではなかったようです ~辺境で描いた一枚の絵が王都を騒がせるまで~  作者: 花日


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31.逃走

「……ユリア!」


 伸ばした手は、ただ冷たい空気を掴むだけだった。


 ーー私は何を間違えた?


 去り際のユリアの顔が頭から離れない。


 唇を引き結び。


 今にも泣き出しそうな瞳で。


 あんな表情をさせるつもりではなかった。


 庭園で会った時から、様子がおかしかったのは確かだ。


 だが、あんな顔ではなかった。


 あれはいつからだ。


 離縁の話をした時か。


 ――違う。


 ならば。


 脳裏に蘇る。


『……私が居なくなっても平気なんですか?」


 あの問い。


 そして。


 何も答えられなかった自分。


 カロルドは強く目を閉じた。


 あの瞬間。


 胸の奥で真っ先に浮かんだ言葉は。


 ――居なくならないでほしい。


 だった。


 だが言えなかった。


 言うべきではないと思った。


 自分の寂しさを理由に、ユリアを引き留めるわけにはいかなかったから。


 言えばユリアを縛る。


 言えば彼女の未来を奪う。


 だから黙った。


 だが。


 ユリアはどう受け取った?


 あの沈黙を。


 返事のない時間を。


 まるで冷水を浴びせられたような感覚が走る。


 ――引き止める気がないと思われたのか。


 そう考えた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。


 違う。


 そんなはずがない。


 だが、それを伝えられなかったのは紛れもない事実だった。


「……くそっ!」


 吐き出された悪態とともに、カロルドの足はすでに動いていた。


 ユリアの未来のため。


 縛らないため。


 そんなもっともらしい言い訳で、自分の臆病さを隠していただけではないか。


 ――あんな顔をさせたかったんじゃない。


 カロルドは夜の庭園を走った。


 人目を引くのを嫌うユリアが、あの泣き出しそうな顔のまま建物の中へ戻るとは思えない。


 影の濃い木立へ足を向けた、その時。


 かすかに、本当に微かに、静寂を引き裂くような小さな啜り泣きが耳に届いた。


「ーーっ!」


 大きな落葉樹の根元。


 月の光すら届かない暗がりに、小さな背中が丸まっているのが見えた。


「ユリア」


 呼びかける。


 だが返事はない。


 肩がわずかに震えた。


 聞こえている。


 それでも振り返らない。


 その姿に胸が痛んだ。


 ゆっくりと近づく。


 逃げられないようにではない。


 怯えさせないように。


「……すまない」


 掠れた声が漏れた。


 何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 答えられなかったことか。


 傷付けたことか。


 それとも。


 もっと早く追いかけなかったことか。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて。


「……なんで謝るんですか?」


 こちらに向き直ることなく、ユリアが言った。


 小さな声だった。


「……分かりません」


 思わずそう答えていた。


 ユリアの肩がわずかに揺れた。


 俯いていた顔が少しだけ上がる。


「ですが」


 カロルドは拳を握った。


「あなたを傷つけたことだけは分かります」


 しばらくユリアは何も言わなかった。


 やがて。


「……そうですね」


 泣きそうな声でそう言った。


「傷つきました」


 カロルドの胸が締め付けられる。


「でも」


 ユリアは膝を抱えたまま俯く。


「カロルドは、どうして傷ついたのかは分かってないんですね」


 その言葉に、カロルドは何も返せなかった。


 ーー何か言わなければ。


 だが、気の利いた慰めも、言い訳も、何一つ浮かばなかった。


 カロルドはゆっくりとその場に膝をついた。


 ユリアと同じ目線になるように。


「……分かりません」


 掠れた声が出た。


 ユリアの背中が、ぴくりと小さく跳ねる。


「だけど……一つだけ……一つだけ言わなければならないことがあります」


 カロルドは喉の奥を詰まらせながら、必死に言葉を絞り出した。


 ここで黙れば、二度とユリアに触れられなくなる気がして。


「平気じゃありません」


 カロルドは拳を握りしめた。


「あなたが居なくなるのは……嫌です」


 膝を抱えているユリアの指先が、かすかに震えた。


「私は……あなたを引き留めてはいけないと思っていました」


「王都にいる方があなたのためになる。そう言われたとき、反論できなかった」


 カロルドはゆっくり息を吐く。


「ですが」


 声が震えた。


「だからといって、あなたを失いたいわけではありません」


 沈黙が落ちた。


 カロルドはただ、じっと待った。


 夜風が木々を揺らす。


 やがて。


「……ずるいです」


 小さな声が聞こえた。


 カロルドが息を呑む。


「今さら、そんなこと言うなんて」


 ユリアは振り返らない。


 けれど声は震えていた。


「私、聞いたんです」


 抱えた膝に額を押し付ける。


「居なくなっても平気なのかって」


 ユリアが少しだけ顔を上げる。


「なのに、何も言ってくれなかったじゃないですか」


 カロルドは、言葉が出なかった。


「私のことなんて、本当にどうでもいいんだと思って……」


「違っ――」


 思わず言葉が飛び出した。


 だが。


 カロルドは唇を噛む。


「……いえ」


 絞り出すように続けた。


「そう思わせてしまったのですね」


 どうでもいいはずがない。


 そんなことはあり得ない。


 だが。


 そう思わせたのは、他でもない自分だった。


「あなたを傷つけました」


 カロルドは深く頭を下げた。


「……あなたが居なくなることを考えるだけで苦しいのに」


 声が震える。


「それを伝えなかった」


 カロルドは頭を下げ続けた。


 いや。


 上げることができなかった。


 自分の不甲斐なさに打ちのめされて。


 やがて衣服が擦れる微かな音がした。


 カロルドが顔を上げる。


 ユリアがゆっくりと振り返る。


 その動きはひどくためらいがちで。


 それでも。


 最後には真っ直ぐカロルドを見た。


 涙で濡れた瞳が月明かりを映していた。


 ーーその瞳は、もう逃げていなかった。


「……遅いです」


 ぽろりと涙が零れた。


「本当に遅いです」


 カロルドは思わず手を伸ばす。


 だが、その手はユリアに触れることなく宙を彷徨った。


「私……引き留めて欲しかったんです」


「一緒にカーハインドへ帰ろう、って言って欲しかったんです」


 カロルドはゆっくりと手を下ろした。


 彼女に触れる資格が自分にあるとは、思えなかったから。


「……もう遅いでしょうか?」


 カロルドは震えそうになる声をなんとか押し留め、問いかけた。


「私はあなたと一緒にカーハインドに帰りたい。

 そして……これからもずっと……あなたと暮らしたい」


 ユリアは何も言わなかった。


 ただじっとカロルドの目を見据えた。


 カロルドもまた、その瞳を見返す。


 もう目を逸らすつもりはなかった。


 長い沈黙が落ちる。


 やがて。


 ユリアの目に新たな涙が滲んだ。


「仕方ありませんね」


 ユリアは鼻をすすった。


「今回は許してあげます」


 そう言って花が綻ぶように笑った。



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