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愛のない政略結婚だと思っていたのに、夫はそうではなかったようです ~辺境で描いた一枚の絵が王都を騒がせるまで~  作者: 花日


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25.羽化

 とある侯爵家。


「あの娘は取り込めたのか?」


「もうすぐですわ。お父様」


 令嬢は自信を覗かせる。


「あの田舎者も、そろそろ自分の立場を理解する頃ですから」


 扇で口元を隠し、微笑む令嬢。


 その姿に侯爵は満足気に頷いた。


 ーーしかし。


 その日のお茶会に現れた「あの田舎者」は、いつもと雰囲気が違っていた。


 ここ最近は話の輪に加われず、どこか不安げな様子を見せていたはずだ。


 それなのに。


 今日はその佇まいからして違っていた。


 姿そのものは変わらない。


 上質なドレス。丁寧に整えられた髪。


 いつも通りだ。


 だが。


 纏う空気が違う。


 以前のような遠慮がない。


 誰かの機嫌を窺うような様子もない。


 まるで肩の力が抜けたように自然だった。


「ごきげんよう、ユリア様」


 令嬢が笑顔で声を掛ける。


 これまでなら。


 相手の顔色を窺いながら返事をしていた。


 だが今日は違う。


「ごきげんよう」


 ユリアは穏やかに微笑んだ。


 それだけだった。


 媚びもせず。


 怯えもせず。


 ただ自然に。


 令嬢は一瞬だけ戸惑う。


 調子が狂ったのだ。


「王都の生活には慣れまして?」


「まだ勉強中です」


 ユリアはあっさり答える。


「大変でしょう?」


「そうですね」


 肯定する。


「ですが面白いことも多いです」


 令嬢の笑顔がわずかに引きつった。


 これまでなら。


「はい、毎日ついていくのがやっとで……」


「私には難しいことも多くて」


 と下に出ていたはずだ。


 だが今日は違う。


 否定も卑下もしない。


 だから会話の主導権を握れない。


 周囲の令嬢たちも気付き始めていた。


 何かがおかしい。


 ユリアは変わっていない。


 態度が大きくなったわけでもない。


 失礼なことを言っているわけでもない。


 それなのに。


 以前よりずっと近寄り難い。


 いや。


 違う。


 以前が近寄りやすすぎたのだ。


「そういえば」


 別の令嬢が口を開く。


「最近は随分お忙しいとか」


 探るような声だった。


 ユリアは微笑む。


「ええ。ありがたいことに」


 それだけ。


 必要以上を語らない。


 相手が欲しい情報を自分から差し出さない。


 その振る舞いはまるで、長年社交界を渡ってきた高位貴族のようだった。


 令嬢は思わず息を呑む。


(なぜ……?)


 数日前まで、確かに追い詰められていたはずなのに。


 そのとき。


 茶会の主催者である令嬢が笑顔で言った。


「ユリア様。せっかくですもの」


 周囲の視線が集まる。


「何か興味深いお話を聞かせていただけませんか?」


 令嬢たちが顔を見合わせる。


 随分と曖昧な振りだ。


 話題も指定していない。


 要するに。


 “何か面白いことを話してみろ”


 ということだった。


 空気が変わる。


 周囲の視線が一斉にユリアに集まった。


 少し前のユリアなら困っていただろう。


 だが。


 今日の彼女は動じなかった。


「興味深いお話、ですか」


 ユリアは首を傾げる。


 そして。


 何か思いついたように目を輝かせた。


「では、一枚の絵のお話を」


 穏やかな返事。


 落ち着いた立ち居振る舞い。


 それを見た令嬢は、胸の奥を冷えた指でなぞられたような感覚を覚えた。


 言いようのない不安。


 自分たちは何かを見誤っていたのではないかーー


「皆様は、なぜ古い絵に人々が価値を見出すのかご存知ですか?」


 ユリアは、手元の上質な磁器のカップをそっと皿に戻し、鈴の鳴るような声で語り始めた。


「技術が優れているからだと思われがちですが、実はそれだけではありません」


 おかしい。


 彼女は今まで、こんな風に絵画の話をしたことなどなかった。


 少なくとも若い令嬢の集まる場では。


 皆と一緒に王都の流行や、ドレスの話をしていたはずだ。


「例えば百年前の画家が描いた街並み」


 ユリアの変化に周囲も顔を見合わせる。


 だが、ユリアは構わず続けた。


「本人はただの日常を描いたつもりだったとしても、後の時代から見れば貴重な記録になります」


 ユリアは楽しそうだった。


 本当に楽しそうだった。


「服装や建物、道具の形まで分かりますから」


「つまり絵は、過去から未来への手紙のようなものなのです」


 そう言って、花が咲いたような笑顔を見せた。


 誰かが思わず息を呑む。


 ユリアは気付かない。


 完全に自分の世界に入っていた。


「だから私は復元画が好きなんです」


「失われたものを取り戻すだけではありません。その時代の人が何を見て、何を残そうとしたのか考えることができますから」


 しん、と静まり返る会場。


 最初に口を開いたのは公爵家の令嬢だった。


「……まあ」


 感心したように呟く。


「そのような見方をしたことはありませんでしたわ」


 周囲も次々と頷く。


「……ええ、本当に素晴らしいお話ですわ」


 令嬢は、自分の手元で震えそうになるティーカップを必死で抑えていた。


 喉の奥がわずかに強張る。


「そろそろ自分の立場を理解する頃」――それはユリアではなく、自分たちの方だったのだ。


 追い詰めていたつもりだった。


 だが本当は。


 相手がこちらに合わせていただけだった。


 それをやめた途端、この有様だ。


 ーー


 その日を境に社交界の空気が変わった。


 ユリアは以前のように、周りに合わせただ微笑んでいるだけの存在ではなくなっていた。


 かと言って、強引に輪の中心へ割り込んでくるわけでもない。


「あら? その扇の刺繍、もしかしてローザ地方の伝統織物ではありませんか?

 以前、本で拝見して憧れていたのです」


 気付けばユリアは、自分からごく自然に話を振るようになっていた。


 その話題は不思議と相手の心を捉えた。


 故郷のこと。


 趣味のこと。


 家に代々伝わる宝飾品のこと。


 ユリアに尋ねられた令嬢たちは、気付けば楽しそうに語り始める。


 そしてその会話は自然と周囲へ広がっていった。


 いつの間にか、ユリアを中心に小さな輪ができている。


 以前は遠巻きに眺めていた令嬢たちも、今では当たり前のように彼女を呼ぶようになっていた。


 ーーあるお茶会で。


 二人の令嬢が微妙に言い争いになったときのこと。


 片方は王都の名門。


 もう片方は新興貴族。


 互いに笑顔だが、周囲には緊張が走っていた。


 そのとき。


「そういえば」


 ユリアが穏やかに口を開く。


「お二人とも園芸がお好きでしたよね」


 突然の話題転換。


 だが次の瞬間。


「先日見た温室がとても素敵だったのです」


 話題は花へ。


 温室へ。


 庭園へ。


 気付けば険悪な空気は消えていた。


 そんなことが一度や二度ではなかった。


 気付けば。


 茶会の空気が滞ったとき。


 誰かが輪に入れずにいるとき。


 話題に困ったとき。


 令嬢たちは無意識に、ユリアの方を見るようになっていた。


 そして困ったことがあると、ユリアの姿を探すようになったのだ。


 ーー


 あるお茶会帰りの馬車の中。


「どういうことですの……」


 令嬢は一人になった途端、笑顔を消した。


 あの娘はもっと追い詰められているはずだった。


 王都の社交に疲れ。


 味方を失い。


 誰かに縋ろうとしているはずだった。


 だから取り込めると思った。


 それなのに。


「なぜ、あの方が中心にいるの……?」



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