23.軋み
その変化に最初に気付いたのはカロルドだった。
夜会の帰り。
王宮へ向かう馬車の中でのことだ。
向かいに座るユリアは、いつもと変わらない。
疲れた様子も見せず、穏やかに窓の外を眺めている。
だが。
「今日の夜会はどうでしたか」
カロルドが尋ねると、
「楽しかったですよ」
という返事が返ってくる。
最近はいつもそうだ。
楽しかった。
勉強になった。
皆親切だった。
そのどれも嘘ではないのだろう。
だが、どこか違和感があった。
以前のユリアなら。
面白かった話や、珍しかったものを楽しそうに話していた。
だが最近は違う。
感想が先に来る。
中身が続かない。
まるで何かを飲み込んでいるようだった。
カロルドは口を開きかける。
――何かあったのか。
そう聞くべきなのかもしれない。
だが、その先が続かなかった。
もし本当に何かあったのだとして、それを話したくないから言わないのなら。
自分が踏み込んでいいのだろうか。
結局、何も言えないまま口を閉じた。
「そうですか」
出てきたのは、そんなありきたりな言葉だけだった。
ーー
数日後。
カロルドは王宮の廊下を歩いていた。
そのとき。
前方から数人の貴族が歩いてくる。
彼らはカロルドに気付いていない。
「まだどこの派閥にも付いていないそうだな」
「ああ」
「随分とのんびりしている」
小さな笑い声。
「王都のことを分かっておらんのだろう」
「辺境の者だからな」
カロルドの足が止まった。
「このまますぐに折れるかもしれんな」
「それは重畳」
男たちはそのまま通り過ぎていく。
カロルドは振り返らなかった。
ただ静かに立ち尽くす。
表情は変わらない。
だが胸の奥が冷えていく。
その日の夕刻。
今度は侍女たちの雑談が耳に入った。
「聞いた?」
「令嬢たちが動き出したそうよ」
「なにか失敗があったの?」
「いいえ。思ったよりも靡かないから、焦れちゃったみたい」
「えぇ〜」
「"現実を知っていただいたきましょう"ですって」
「怖ぁい」
くすくすと笑う声。
カロルドはその場を離れた。
歩きながら理解する。
――そういうことか。
最近の違和感の正体。
ユリアは圧力をかけられていた。
取り込みたいという自分勝手な理由で。
それを受けながら、何も言わずに笑っていたのだ。
カロルドは拳を握る。
王都へ来てから、ユリアはずっと頑張っていた。
慣れない社交。
慣れない人間関係。
故郷も家族も離れた場所で。
それでも文句一つ言わなかった。
なのに。
「……くだらない」
思わず言葉が漏れた。
自分でも驚くほど低い声だった。
自家の利益しか考えていない、そんな連中のために。
ユリアが傷付く必要などない。
ーーその夜。
王宮の庭園でユリアを見つけた。
胸にはスケッチブックを抱いている。
だが、いつものように鉛筆を走らせてはいなかった。
庭園へ来れば、ユリアはいつも夢中になって景色を描いていた。
それなのに今は、ただベンチに腰掛けているだけだった。
カロルドは少し離れた場所で立ち止まった。
ユリアはまだ気付いていない。
俯き加減の横顔は、どこか思い詰めているようにも見える。
ユリアの視線は庭園へ向けられている。
だが、その景色を見ているようには見えない。
何かを考え込んでいるように思える。
胸に抱えたスケッチブックだけが、ぎゅっと大切そうに抱き締められていた。
カロルドは息を呑む。
その姿は、最近夜会やお茶会で見せていた笑顔よりも、ずっと彼女の本心に近い気がした。
――守らなけば。
強く思った。
「ユリア」
カロルドが声を掛けると、ユリアはハッとしたように顔を上げた。
「カロルド!」
いつもの笑顔だった。
だがその穏やかさの裏に何を隠しているのか。
今のカロルドには少しだけ分かる気がした。
だから。
「カーハインドへ帰りましょう」
ユリアを真っ直ぐ見て言った。
「まだ社交シーズンの途中ですよ?」
ユリアは目を瞬かせる。
「構いません」
「でももう出席のお返事を……」
「断ります」
「カロルド、どうしたのですか? 何かあったのですか?」
頑なな様子のカロルドに、ユリアが心配の目を向ける。
「……何もありません」
カロルドは言えなかった。
王都の貴族たちがユリアを値踏みしていることも。
利用価値ばかりを見ている者がいることも。
そして。
ユリア自身が、それに気付きながら笑っていることも。
言葉にしてしまえば。
彼女はきっと、
「大丈夫です」
と笑う。
自分より周囲を優先してしまう人だから。
だから言えなかった。
沈黙が落ちる。
やがてユリアが小さく笑った。
「カロルドは、優しいですね」
「違います」
即座に否定する。
優しいのではない。
ただ。
胸の奥がざわついて仕方ないだけだ。
ユリアは少し首を傾げた。
「では、なぜ急に帰ろうだなんて」
「……」
答えられない。
答えが分からないからだ。
ただ一つだけ確かなことがある。
最近のユリアは無理をしている。
夜会へ行くたび。
お茶会へ出るたび。
少しずつ笑顔が薄くなっている。
それなのに誰も気付かない。
いや。
気付いていても見ないふりをしている。
カロルドは拳を握った。
「ユリア」
「はい」
「貴女は」
そこで言葉が止まる。
無理をしているのではないか。
辛いのではないか。
そう聞きたいのに。
上手く口にできない。
すると。
ユリアの方が先に微笑んだ。
「心配してくださっているのですね」
図星だった。
カロルドは何も言えなくなる。
そんな彼を見て、ユリアは困ったように笑う。
「ありがとうございます」
その笑顔が。
なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
その瞬間。
カロルドの中で何かが決まった。
「私が辛いのです」
ユリアから目を逸らさずに言った。
ユリアは目を見開く。
「……え?」
「貴女が辛そうなのに、何もできないのが」
言葉が止まらなかった。
普段なら絶対に口にしないようなことまで零れていく。
「貴女は大丈夫だと言います」
「それは……」
「ですが、私にはそう見えません」
ユリアが息を呑んだ。
カロルドは続ける。
「お茶会の話をするときも」
「夜会から戻ったときも」
「最近の貴女は、いつも笑っています」
それなのに。
「楽しそうではありません」
静かな声だった。
責めるつもりはなかった。
ただ。
見ていられなかった。
ユリアは何も言わない。
夕暮れの風だけが庭園を通り過ぎる。
やがて。
「……見ていたのですね」
小さな声が落ちた。
「見ていました」
「私は隠せているつもりでした」
「隠せていません」
即答だった。
ユリアは思わず苦笑する。
その笑顔も、やはりどこか寂しい。
「困りましたね」
そう呟いて、胸のスケッチブックを抱きしめた。
「皆さん悪い方ではないのです」
「はい」
「期待してくださっていますし、親切にもしてくださいます」
「はい」
「ですが」
そこで初めて。
ユリアの声が少しだけ震えた。
「少し疲れてしまいました」
その言葉を聞いた瞬間。
カロルドは胸が締め付けられるような気持ちになった。
大丈夫。
ではなかった。
やはり。
無理をしていたのだ。
ずっと。
笑って。
気を遣って。
誰にも弱音を吐かずに。
その事実を突き付けられて――
気付けば。
ユリアの肩を引き寄せていた。
だが次の瞬間、自分が何をしたのか理解する。
「……っ! 失礼しました」
慌てて離れようとする。
だが。
「いいえ。もう少しこのままで」
ユリアはそう言ってカロルドの胸に頭を寄せた。




