2.決断
ユリアが地下書庫に逃げ込み現実から目を背けても、事態は待ってはくれない。
元々交流の少ない国同士だったうえ、諸国外交会議という重要な外交の場で派手に対立してしまった。
そのため、双方の間を取り持つ国も現れず、話し合いは難航した。
歴史や文化への侮辱に怒るポーネと、事態の収拾を急ぐケルファ。
会談の席ではどうしても感情が先に立ち、交渉は遅々として進まなかった。
だが、ゆっくり議論を重ねる時間は残されていない。
開戦派がこれ以上勢力を伸ばす前に、落とし所を見つけなければならないからだ。
そこで提案されたのが政略結婚だった。
両国が戦争を望まないからこそ、関係を繋ぎ止める“目に見える証”が必要だったのだ。
だが。
「娘たちを人質に出すような真似は……」
王は苦悩した。
長女のシエルは王位継承者。
次女のメロディは国の宝。
三女のユリアはまだ十五歳だ。
誰を送り出せばいいのか。
誰も答えられなかった。
シエルは王位継承者として、姉妹で唯一その会議の場に同席していた。
表情を崩さず、ただ静かに議論を聞いている。
ーー重い沈黙が続く。
そのとき。
会議室の扉が静かに開いた。
「お待ちください」
現れたのは、メロディだった。
「その案には反対です」
シエルがわずかに目を細める。
「メロディ、ここは会議の場よ」
「だからこそです、お姉様」
メロディは一歩踏み出した。
「まだ結論を出すには早すぎます。王族を差し出すというのは、あまりにも重い決断です」
メロディの言葉で、会議室の空気は一段と重くなった。
王族を差し出すことへの反発は、誰の心にもあったのだから。
「……では、他にどうするの?」
シエルの問いに誰も答えられない。
沈黙が、再び重く積もっていく。
そのときだった。
「……私が行きます」
全員が振り返る。
ユリアだった。
「ユリア!?」
メロディの声が鋭く響いた。
今までにない強い動揺がそこにはあった。
「あなたが行く必要はないわ!」
そしてもう一人、口を開きかけた者がいた。
シエルだ。
「……っ!」
だが、その言葉は声になる前に飲み込まれた。
止めたい。
妹を異国へ送り出したくなどない。
それでも――他に道があるのかと問われれば答えられなかった。
(ここで止めても、解決にはならない……)
国を背負う者として、その沈黙が答えだった。
「絵はどこでも描けます」
ユリアは微笑む。
震えていた。
それでも笑った。
「でも戦争になったら、描けなくなるものがいっぱいあるもの」
誰よりも歴史を愛する国で育った。
だから分かる。
失われたものは戻らない。
「だから私が行きます」
怖くないわけではない。
家族と離れるのも嫌だ。
知らない国へ嫁ぐことも不安だった。
それでも。
ユリアは迷いを振り切るように言った。
ユリアは父を見た。母を見た。
そして姉たちを見た。
最後に集まった重臣たちへと視線を向ける。
誰もが苦しそうな顔をしていた。
誰もこの決断を望んでなどいない。
だからこそ分かる。
他に道がないのだと。
「お父様」
ユリアは深く頭を下げた。
「行かせてください」
王は目を閉じた。
ーー長い沈黙が落ちる。
そして。
「ユリア」
娘の名を呼んだ。
「本当に良いのだな」
ユリアは涙を堪えながら頷く。
王はゆっくりと玉座から立ち上がった。
「……わかった」
そして。
娘を抱きしめた。
「すまない……」
「謝らないで」
気が付けば王もユリアも、涙が頬を伝っていた。
「お父様」
ユリアは父の胸で静かに言った。
「私、歴史を守りたいの」
その言葉に王は娘を抱く手に力を込めた。
やがてゆっくりと身体を離すと、会議室を見渡す。
「ポーネ王国は、第三王女ユリアの婚姻について正式に打診する」
王の宣言に、会議室は静まり返ったままだった。
それはユリアの覚悟を受け入れた者たちの、痛みを伴う沈黙だった。
ーー
婚礼の準備は大急ぎで進められた。
嫁ぎ先は、特使として来ていたカーハインド伯爵家。
その嫡男。
カロルド=カーハインド
十七歳。
「カーハインド卿は確か子爵位だったのでは?」
「今回の功績で叙爵されたそうだ」
「それでも王族が降嫁するには爵位が足りないのではないか?」
そんな議論も出た。だが、王が退けた。
「特使であるカーハインド卿の人柄は、この目で確かめている。……嫡男については知らぬ。だが、あの者が築いた家であれば、王都の有力貴族に嫁がせるより安心だ」
王は重臣たちを見回した。
「王としてなら爵位を優先すべきなのだろう。だが、父として娘を託すなら、私はカーハインド家を選ぶ。
……私のわがままを通させてくれ」
そこにいたのは一国の王ではなかった。
異国へ娘を送り出さねばならない一人の父だった。
――ユリアの出発が決まった日の夜。
シエルは一人で庭園に立っていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
「こんなところにいたのね」
振り返ると、メロディが立っていた。
しばらく二人は無言だった。
先に口を開いたのはメロディだ。
「お姉様は止めないのね」
責めるような声だった。
シエルは目を伏せる。
「止めたかったわ」
小さな声だった。
「だったら――」
「でも止められなかった」
シエルは拳を握った。
「私だって嫌よ」
いつも冷静な姉らしくない声だった。
「ユリアを送り出したくない」
声が震える。
メロディはそこで初めて気付いた。
姉もまた苦しんでいたのだと。
「だけど私は次の王になる」
シエルは夜空を見上げた。
「国より私情を優先することはできない」
「国を守る方法を問われて、他に答えを出せなかった。だから……止められなかった」
その言葉にメロディは唇を噛む。
反論できない。
自分にも答えはなかったからだ。
ーー木々がさわめく音だけが耳に届く。
やがて。
「……ユリアは強いわね」
ぽつりと呟く。
シエルは首を横に振った。
「あの子だって怖いはずよ」
会議室で震えていた妹の姿を思い出す。
「ただ、怖くても前に進めるだけ」
メロディは眉を下げて笑った。
「昔からそうだものね」
危険だと言われても古い遺跡に入りたがり、気になるものを見つければ夢中になる。
二人の脳裏に同じ妹の姿が浮かんだ。
「……私には言えなかったわ」
メロディが悔しさを滲ませる。
「ユリアが全てを背負おうとしているのに、私は『代わりに行く』と言えなかった」
シエルはそっと妹の頭を抱き寄せた。
「仕方ないわ」
優しく髪を撫でる。
しばらくの間、メロディの啜り泣く声だけが静かな庭園に響いた。
「せめて幸せになってほしいわ」
絞り出すような願いに、シエルは静かに頷いた。
「きっと大丈夫よ」
その声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
ーー
数週間後。
ユリアは国境を越えた。
もう故郷へ帰れないかもしれない。
家族とも二度と会えないかもしれない。
そう思うと、胸の奥がじくじくと痛んだ。
(だけど私には絵がある)
ユリアは膝の上のスケッチブックにそっと触れる。
(会いたくなったら、絵の中で会えるもの)
ぎゅっと抱きしめる。
それは、家族との思い出が詰まった宝物だった。




