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幻晶侠、庵を訪ねる

 銀翼蝙吉(ぎんよくへんきち)で空を飛び、地上を行く球球に先んじて成慶(せいけい)へ向かう。その説明を聞いた光は、しかし素直に承伏する事は無かった。


「こ、こんな簡単なグライダーで遠くの街まで? 正気でやんすか!? 見た感じプロペラもなんとか翼もジェットも無いし……パラシュートも載せてない!」

「グライダー? これは『銀翼蝙吉』よ」

師姉(しし)、光のいた仙界はこちらとは違う技術を持っているようで……」


 例によって謎の言葉を口走る光に静蛉(じんれい)が戸惑い、幻晶侠(げんしょうきょう)が口を挟んだ。その勢いのまま、彼女との出会いや経緯を語る。


「それは善哉(ぜんさい)! 貴女がこの時この場所に来たのはきっと菩薩様の導きに違いないわ! 雨弟(うてい)、朝まで光天女をお借りできないかしら?」


 静蛉の目には隠しきれない好奇の色が、声には命じる事になれた姉弟子の威厳があった。


「しかし愚弟(ぐてい)たちは先を急ぐ身で……」

「ぜんざい!? 確かにあっしも夜中に起こされて小腹が空いているでやんす!」

「あら、空腹なのね? ではあちらで何か食べながら……」


 幻晶侠は抗議をしようとしたが、静蛉は既に光の手を取り工房の方へ歩み出した。


「で、でしたら自分は慈厳院(じげんいん)の方へご挨拶に……」


 しぶしぶかける声にも姉弟子は反応しない。代わりに光が彼の方を向き問題ない、とでも言うように手を振った。


 その手が階段を登る静蛉を自然に支えるのを見て、貴公子は長い溜息を吐いてからその場を後にした。




 慈厳院はその名の通り峨眉山(がびさん)の最も嶮しい場所に建っていた。いや建ってる、よりは岩壁に寄りかかっているという言の方が正しかろう。僅かばかりの松林の先に岩壁を削って作った道があり、その先の窪みに小屋が鎮座しているのである。


 厳扉松径(げんぴしょうけい)、とこしえに寂寥(せきりょう)、唯だ幽人(ゆうじん)の自ら来去(らいきょ)するあり……といった風景だが、軽功の覚えがない人物には行き来すら命がけの難所であろう。 

 

 その難所に幻晶侠の尋ね人、滅慈師太(めつじしたい)がいた。滅の字が物語る通り静蛉よりも更に上の世代であり武功も徳も計り知れない。ただ峨眉山の尼僧の例に漏れず慎み深いため、その偉業を知る者は限られている。


「滅慈師太、愚雨(ぐう)がご挨拶を申し上げます」


 月明かりの中、院の壁へ向かい座禅している老女へ、幻晶侠は叩頭した。静蛉が着ていたのよりも更に質素な僧衣に、細い身体が静かに振り向く。深い皺が刻まれた顔には知恵と慈悲が湛えられた瞳が輝いていた。


「久しぶりね。雨児(うじ)、よく顔を見せて」


 その声に従い、幻晶侠は仮面を取り簫雨へ戻って面を上げる。その顔を見て滅慈の瞳がやや曇ったのを、彼も見逃さなかった。


「相変わらず忙しくしているのね」

「師太もお変わりなく」


 簫雨(しょうう)は平凡な言葉を返した。窮地に陥っても軽口を絶やさない男が、次の言葉に詰まっている。


「まあ……。珍しく訪ねてきたと思えば、おねだりなの?」


 それを見て滅慈から口火を切った。


「師太は全てお見通しですか」

「どうかしら? 何かお願い事に来たのだけは分かるのだけれど。少し手合わせをしましょう。雨児、これを使いなさい」


 老いた尼僧は側の薪を杖代わりに立ち上がると、それを簫雨の方へ放った。そして弟子が受け取るのを待たず二本目を掴むと、彼の脳天めがけて振り下ろした!




 薪は老婆の腕力からは想像もできない速度で簫雨の頭へ迫った。剣と乾いた木の違いはあれど、その剣筋は紛う事なき峨眉派剣法『夜雪折竹(やせつせつちく)』である。


「お受け致します!」


 弟子はそう叫びながら投げられた薪を中指と親指で摘み、逆の側を滅慈の振り下ろす切っ先に当てて受け流す。


「善哉!」


 簫雨が見せた『転地衾枕(てんちきんちん)』を見て滅慈はにこりと笑った。『転地衾枕』は本来、剣先を指で掴み柄頭で相手を打つ奇襲技である。切りかかった刃先を掴まれた攻め手は、自らの手から離れた柄頭に頭部を打たれ布団へまっしぐらという筋書きだ。


 だが貴公子はそれを奇襲を捌く用法で使った。剣とは違い、刃の部分と柄の区別が無い薪の特性を利用した機転に、師は弟子の成長を見たのだ。


「滅相もない!」


 だが簫雨はその誉め言葉に驕ることなく、受けに回った。それは即ち、限りなく守勢に回ることを意味する。何故なら『夜雪折竹』は峨眉剣法の入門技でありながら、無限の奥深さも備える技であるからだ。


 夜に積もった雪が竹を折るが如し。早くもなく、激しくもない。だが雪が頑丈な竹を重みで破壊するかのように、確実に攻め手を重ね静かに相手を押し潰していく。


「雨児、遠慮するくらいなら仮面をつけなさい。幻晶侠の腕を知りたいわ!」


 五合、十合を越えて滅慈は簫雨を叱咤した。彼は反転攻勢を渋っているだけでなく、片手に幻晶侠の仮面を保持したままであった。逆手も仮面に仕込んだ仕掛けも使用していない。


「愚弟子、失礼します!」


 確かにこのまま守勢を続けては、老人の体力切れを待つ若人という図式にも写る。いまさら年齢を気にする滅慈ではないが、礼を欠いた振る舞いは避けるべきだ。幻晶侠は仮面を被ると薪を握り直し師太の振り下ろした一撃を正面から受け止めた。


 かん、と乾いた音に続いて激しく風が舞った。乾いた木と木の衝突でそれほどの衝撃は生じない。互いに込めた内力が巻き起こした現象である。 

 峨眉山の女長老が持つ重厚な内力と仮面の侠客の若々しい内力が僅かの間、均衡する。両者の視線が交錯し幻晶侠は老僧の瞳に溢れる英知を、滅慈は仮面の向こうの影を見た。

 

その直後、二本の薪がそれぞれの手を離れ崖の下へ落ちていく。滅慈が内力を操りそちらへ導いたのだ。


「あっ……」

「雨児、来なさい」


 落下する武器を幻晶侠は呆然と眺めた。渓谷の影はまるで己の運命を示唆するかの如く、二本の獲物を闇へ隠す。老女は彼の肩を軽く叩くと、庵の中へ誘った……。

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