03
そうして、ヴィヒレア伯爵は箝口令を敷くため部屋を辞し、ミカも難しい顔のままどこかへ行ってしまった。バルファイも、レミンと奏音に謝罪の言葉をかけ、何度も深く頭を下げながら部屋をあとにした。
再びふたりきりとなった。
戸口で控えていた近衛兵たちも、レミンの縛めを解いたいまはひとりもいない。奏音の混乱が落ち着くまで、ふたりは地下室で待つことを選んだ。
「大丈夫か?」
衝撃からさめやらず、ずっと口を閉ざしている彼女にレミンは訊く。
「―――こんなのって……」
奏音の動悸は、駆けたように速くなる。忙しなく胸を叩く鼓動に、呼吸は浅くなり苦しい。
「ひどい。なんだったの、あたし。嘘の予見で。嘘だったのに。嘘だったのに!」
身体の奥深くまで沁み込んでいる忌まわしい記憶。
なんだったんだろう。これまで堪えてきた時間、思い、苦しみ。すべてが無駄だったなんて。すべてが嘘の上に成り立っていただなんて。
「意味なかった」
皮膚が破れそうなほどに硬く握り締めた拳で憤懣やるかたなく、けれど行き先を持て余し、歯痒く虚空を叩きつける。
「カナ……」
絶望に堕ちようとする奏音の耳に、レミンの声は届かない。奏音は自らをかき抱き、自身を罰するかのように腕を拳で殴りはじめた。
「カナ。やめるんだ、カナ」
レミンはその大きな手で、暴れる奏音の両の手首を捕らえる。
「なんのために……!? あたしは……なんにも……」
大きく目を開いてレミンに縋る奏音に返る彼からの答えはない。ただ、痛ましい眼差しが見つめ返すばかり。
非情な暴力の日々。失ったものは、途方もなく大きい。それなのに。
「全然意味なかった。あたし、ひどい……! こんなの。返して。あたしを、返してよ……!」
予見ごときに踏みにじられた人生。偽物の予見に。すべてを奪われたというのに。
嘘だった。
偽りだった、と、たったひとことで片付けられてしまうなんて。
いまでさえ、まぶたを閉じれば眼裏から恐ろしい記憶がよみがえってくる。
獣のように乱暴に振り上げられる腕。暗闇の中逃げても執拗に追いかけて来る足音。隠れても無理やりに引きずり出してくる容赦のない手。
声がかれるほどに悲鳴をあげても、泣いても喚いても、どれだけ抵抗をしても許されることもなく、不条理な暴力に屈し続けるしかなかった日々。
それらすべてが。
すべてが偽りの上に成り立っていて、意味のない欲望によるものだったなんて。
イルマイラの一方的な片想いのせいだったなんて。
おぞましい記憶によみがえる恐怖。それに怒りと恨みが入りまじり、歯痒さと激しい虚しさに意識が侵蝕されそうになった瞬間、視界が揺れた。
潰されそうなほどきつく、抱き締められていた。
「もう、思い出すな。思い出しちゃだめだ」
「そんなこと!」
「忘れることしか、どうしようもないこともある」
「でも」
「あいつは、死んだんだ。死んだんだよ。もう、あいつはいない。終わったんだ」
国王のことをあいつと呼ぶレミン。絞るような掠れた声だった。
「忘れるんだ……」
苦しみにもがく声だった。
ライコの死。
確かに、あの過去のことは、忘れるしかないのかもしれない。
けれど―――、簡単に忘れることなどできない。ライコが刻んだ心の傷は、きっと一生奏音を苦しめ続ける。忘れようと思っても記憶は、身体に沁み込んだ恐怖は封印などできやしない。
一生、あの忌まわしい男に怯え続けるしかないのだ。
自分の勝手で、勝手に死んだ男のために。
「―――陛下のひとが殺されたこと、どうして秘密にするんですか」
地を這うような声が腹の底からせり上がる。
ライコは憎悪の対象であって同情に値する男ではない。偽の予見を――本人は偽とは知らなかっただろうが――振りかざし、すべてを奪い去った。何故みなが一様にライコの死を綺麗事で包み隠そうとするのかが理解できなかった。真相を隠そうとするミカに裏切られたとすら感じた。
「イルマイラさんに殺されたって、いいじゃない、そうやって公表しちゃえば。ざまあ見ろじゃないの」
外聞なんかどうでもいい。あんな男、無様に殺されたと公表されるべきだ。それだけのことをしたのだから。あの男の死を、美辞麗句で飾る必要なんてどこにもない。
「一国の主が、予見者に手を出して返り討ちにあったと?」
レミンは奏音を抱き締めたまま、葛藤をにじませながらも言い聞かせる。
「そんなことをしたら、諸外国はこの混乱に乗じて攻め入ってくる。フィザーンの脆弱な軍事力では太刀打ちできやしない。国民もそうだ。玉座は主の祝福によって授けられる。陛下の死の真相は、みなの不安をあおることになる。どんな反乱が起こるか判らない」
「自分が招いたことよ!」
奏音は言い放つ。予見の有無以上に、ライコは平穏に死を迎えていい男ではない。無様な死も、自業自得だ。
「一国の王なんだもの、自分の言動でなにが起こるかちゃんとわきまえるべきじゃない! それをしなかったあいつが悪いんじゃない!」
「陛下の死自体は、そうかもしれない。でも他の人々は? 陛下を諌める立場にあってなにもしなかった者たちはおいといても、国民は関係ない。反乱や戦争が起こって一番に苦しめられるのは、なんの落ち度もない彼らだ。秘密にできるものならなんとしても秘密裏に処理をして、余計な争いを避けなければならない。真実を敢えて隠す。それも、政治だ」
「だけど……!」
ずるいと、心の底から思った。
自分の愚かさで命を落としたのに、王というだけで、国の名誉のため真実を綺麗事で隠すなど。無難な死を装うなど。
騙せばいいと、国民や諸外国をそんな軽く扱っていいのか。
苦しみ虐げられた事実は事実なのに。
王というただそれだけで、その死が美化されるだなんて。守られるだなんて。
許されない。許さない。
あの男に、そんな価値はない。
死体に唾棄して踏み潰して八つ裂きにしても、足りないくらいだ。
「カナ。おれたちは真実を知っている。それだけじゃ、だめか?」
納得できない奏音に、レミンは穏やかに語りかける。
「おれだって悔しい。どうしようもないくらい腹立たしくてやりきれない。でも、こうしてちゃんと生きている。ふたり一緒にいられる。それで充分じゃないか」
ミカは去り際に言ったのだった。
『お前の反逆罪は、この秘密を口外するまで保留だ。だが僅かでも口外してみろ。そのときは一族郎党領民に至るまですべて命がないと思え。公爵もまた同様だと、判っておられるな?』
軽く身を起こしたレミンは、包み込む眼差しを奏音に注ぐ。
憎しみにたぎる思いが、奏音の中で猛り狂っている。
「陛下を許して差し上げろと言ってるわけじゃない。憎むのも恨むのも当然だし、だめだなんて言えない。でも陛下の死の真相を公表しても、新たな憎しみや辛い悲しみが生まれるだけで、なんの解決にもならない」
「そんなの……」
「おれと未来を紡ぐことだけを考えよう。少しでも幸せになるんだ。一緒にいられることを、感謝しよう? 口を閉ざすことでカナとの幸せが得られるなら、おれは一生だって黙ってる。真実よりも、カナのほうが大事だから。大切だから」
荒れる奏音の中に、彼の言葉は優しい雨のように降りてくる。
確かに、―――ああ、そうだ。
そうだった。
レミンと一緒にいられれば、それでよかった。
ただそれだけが、望みだった。それだけで、途方もなく幸せだったはず。
彼が言うように、ライコの死の真相によってフィザーンが外国に攻められたり、内側から瓦解してしまうのは避けるべきだ。たとえどんなに思うところがあっても、自分の感情を、国の根幹に関わる事態にはさんではならない。
レミンの罪は不問になった。すぐそばで、愛しく見つめてくれている。このままともに寄り添って、失ったと覚悟すらした未来を行くことができる。
それ以上のことを望んでどうする?
(だけど……!)
頭では、冷静に考える自分もいるけれど。
この国の未来に、イルマイラによって裏切られていたのも事実だ。消すことのできない、現実だ。
(あたしは)
奏音の中で、理性での理解と、怒りに荒れる感情とがせめぎ合う。
せめぎ合いせめぎ合い、一方が呑み込もうとすると、もう一方は逆に押し戻してくる。それがどれだけ繰り返されただろう。
眉間にしわを刻んで懊悩していた奏音だったが、ややして、きつく噛み締めていた歯、強く握り締めていた拳が、解けるように緩み始めた。
荒れて波立っていた気持ちが、ゆっくりとだが少しずつ少しずつ、レミンの眼差しを受け、落ち着いていく。
真実よりも大切なもの。
恨みや憎しみを晴らすことよりも、大切なこと。
ライコを許せたわけではない。きっとこれからも許すことはない。レミンへの想いで運命をいたずらに翻弄したイルマイラも同罪だ。一生、許せるはずがない。
それでも―――。
たったひとつ、欲しいのは、レミン。レミンだけ。
ここにレミンがいる。いてくれる。
失ってしまうのではと怯え、ともに冥府に向かおうと決意したのは、つい先程のことだ。
レミンとともにいられる、生きていける。
恨みを晴らすことで、その僥倖を手放すのは本末転倒でしかない。ふたり幸せになる道が、目の前に開けているのだから。未来へと、延びているのだから。
奏音のゆるゆるとした首肯に、レミンは強い意志に満ちた声で言う。
「これ以上、苦しい思いはさせない。おれがさせない。絶対にさせないから」
揺るぎない眼差しの奥に、深い決意があった。
(レミンさんも)
レミンも苦しんでいた―――。
苦しかったのは、あの過去にうちひしがれていたのは、奏音だけではなかった。
彼は身体を軽くかがめ、奏音を覗き込んだ。
「カナに出逢えてよかった。そう思ってる。カナに出逢えて、一緒にいられることがすごく嬉しくて、どうしようもなく幸せでならない」
泣きそうにも聞こえた。
「フィザーンに来てくれて、本当に感謝してる。だから、これ以上は望まない。カナがそばにいる。それだけでいい」
胸に、甘やかな痛みが広がっていく。
まっすぐ心の底までも見つめられ、甘い痛みにすべてが蕩けた。みるみるうちに涙がこみ上げてき、ひと粒がこぼれ落ちると、あとはもうとめどなく溢れ出た。
「あたし。あたしも……!」
抑えきれない想いに、言葉は追いつかない。
「辛い思いをさせて、ごめんな」
奏音は首を振るしかできない。
レミンは指の背で彼女の頬の涙をそっと拭い、静かに唇を寄せてきた。
彼の深い想いが流れ込んでくる。
レミンの愛情を受け入れ、自分の気持ちも返していく長いキスだった。
―――なんとなく気恥しくなって、奏音は俯きがちに視線を外す。そんな彼女の髪に、レミンは触れた。
「乱れてしまったな」
綺麗に結い上げていた髪だったが、ヴェールも外れ、ピンで留めていた幾つかの髪の房も落ちてしまっていた。
レミンは、ライコのせいだとは言わない。
奏音の癖のないまっすぐな髪は、軽く手櫛でとけば、背中にそのまま流すことができる。ここが領内の邸だったらそれで構わなかったが、さすがに宮殿内では憚られた。
髪にはまだピンが数本残っていたが、それを使ってひとりで結い上げられるほど、奏音は手先が器用ではなかった。せめてひとつにでもまとめられれば。
あ。と思い出す。
「バレッタがある」
「……バレッタ?」
「ええ。大聖堂で司教さまが返してくれた、キティちゃんのバレッタです」
「あ、ああ……」
よく意味の判らないまま、とりあえずレミンはベストの内ポケットに手を差し入れた。奏音のドレスにはポケットがなかったため、返還された辺縁の至宝を預かっていたのだ。上着のポケットではなにかあってはと――チョークを落とした前例があるので――、そこにしまっていたのだが。
その手が、止まる。ぎくりと表情をこわばらせて。
「どうかしたんですか?」
「いや……」
恐るおそるレミンは内ポケットから手を引き出した。緊張した面持ちで指を開くと、青地の布に包まれたキティのバレッタが現れる。―――無残にも圧し折られ、砕かれた姿で。
「……」
バレッタは、そう簡単に折れるものだろうか? 折れたとしても、全体が幾つもの破片となるまで砕けるだろうか?
「済まない……。大切なものだったのに……」
沈黙を気分を害したと思ったのか、レミンは謝る。
「―――いいえ、違うんです。たぶん、これ、レミンさんのせいじゃないと思います……」
眼差しで問うレミン。
「あの。バルファイさんがさっき言っていたじゃないですか、レミンさんの命を奪おうとした、って。でも、なにもなかった」
レミンは判りかね、ただ奏音の話に耳を傾ける。
「昔話だったかお伽話だったかよく判らないんですけど、身代わり地蔵っていうのがあるんです、日本に。お地蔵さんが―――ええと、石像が主人に降りかかる災難を身代わりとなってかぶってくれる、っていう」
レミンは、はっと手の中を見下ろす。
「おれの身代わりになったと……?」
奏音は頷きを返す。
「そうかもしれません。だって、レミンさんは無事で、バレッタが壊れてる。たぶん、こんな壊れかたはしないと思うんです」
金属部分まで割れている。それほどの衝撃があったのだとしたら、レミン本人も気付くはずだ。
「バルファイさんの魔法を、受けたせいだとしか、思えない」
レミンの交渉をうけ、教会が返還してくれたバレッタ。
効かなかったバルファイの魔術と、何故か砕けたバレッタ。
護られている、と奏音は感じた。
どんなに紆余曲折を経ても、どれほどの苦難が降りかかろうとも、ひとつの行き先に向かって進むよう護られている、と。
その行き先にこそ、もしかすると、フィザーンに落とされた本当の理由があるのかもしれない。
それがなんなのか、想像もつかないけれど。
「カナに護ってもらったんだな。これが、おれを助けてくれた」
「あたし……フィザーンにいても、いいんですよね? そういうことですよね……?」
問うというより、確認するかのように奏音はこぼす。
誰も口にはしなかったが、王太子を産むという予見が偽りだと判明したことで、辺縁の姫君である奏音がもたらす国益がなんなのかが判らなくなった。
なんのために自分はフィザーンに落とされたのか。なにももたらさない自分がフィザーンにいてもいいのだろうか。
けれどその一抹の不安も、このバレッタによって、バルファイが言ってくれたように主の祝福に護られていると思えた。
「フィザーンは、嫌か?」
そっと尋ねるレミン。
彼女には辛い経験ばかりが続いた。ふと顔を上げた奏音は、微笑んで否定をする。
「そんなこと、ないです」
「―――日本に繋がるものだったのに、こんなことになって」
「レミンさんのほうが、大切です」
レミンは感慨深げに眼差しを優しくする。
しかし、その表情はすぐに険しく研ぎ澄まされていく。
「これから、嵐が来る。誰も経験したことのない、激しい嵐が」
「―――ええ」
一国の主を亡くした国がどんな道を辿るものなのか、奏音には判らない。
「カナも、きっと巻き込まれる」
「……」
「護るから。命に代えても、護る」
「あたしもです。レミンさんと一緒なら、なにがあっても大丈夫。乗り越えられる」
「ああ」
レミンはすっと身をかがめ、奏音の耳元に唇を寄せた。
そうして、ひとつの名を囁く。
身体を離したレミンを、奏音は呆然と見上げる。
いまのは、もしかして。
「おれの、本当の名前」
「でも、本当の名前って、ひとに教えちゃいけないって、言ってたじゃないですか」
初めて出逢ったあのとき、本名を告げてしまってそう言われた。
「本当は、ずっと伝えたかった」
レミンは奏音を見つめる。蕩けるような眼差しに、呑み込まれそうだ。
「初めて逢ったあのときから、たぶんおれは、この名前を知ってもらいたかったんだ」
鼓動が、どきりと胸を震わせる。
「愛してる、カナ。出逢った瞬間から、お前に、恋をしてた」
いまなら判る。
どうしてあのとき、最初に出逢ったあのとき、転移魔術で彼女を大聖堂に向かわせなかったのかが。
一緒にいたかったのだ。少しでも長く、奏音と一緒にいたかった。
だから拘束魔術を行使してでも、奏音との時間を作りたかったのだ。
「後戻りができないくらい、惹かれてた」
甘い痺れが、身体の隅々にまで広がっていく。
レミンの眼差しはあまりにも深く、惹き込まれるほどに透明だった。
胸の底から沸き起こる喜びが、全身を震わせた。
「あたしも……、レミンさんを見た瞬間、好きになってた」
酔客に絡まれる自分を助けに現れたレミンの姿。
誰よりもヒーローだった。
レミンをひと目見たときから、きっと彼に恋をしていた。
「フィザーンに来てくれて、ありがとう」
レミンの大きな手が、奏音の頬を包む。
まぶたを伏せると、まなじりから涙がひと筋、こぼれ落ちた。
そうやってこの日、何度目かのキスの祝福を、奏音は唇に受け止めたのだった。
―――ヒューゴ・ラウリ・ヴァリスヘルム・ハイカイネン。
耳に囁き込まれた愛しい名前を、胸の底に刻み込みながら―――。
大広間では、祝宴がまだ続いていた。着飾った貴族たちは、楽しげに笑み、めでたさを祝福しながら宴の時間を過ごしている。
そんな貴族たちのもとへ、きっとミカは向かっているのだろう。
偽りの真実を伝えるために。
彼らはいまだ知らない。
これからフィザーンが大きく揺れるということを。
王朝開闢三百年。
この年、開闢以来の嵐を、フィザーンは迎えることとなる。




