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04

 幾つかの廊下を曲がり、女性は先を進む。

 歩を進めるごと、レミンの首筋あたりが、違和感を訴える。

 ―――なにかが引っかかる。

 研ぎ澄ました神経のすぐそばで、なにかが疼いている。

 これで、いいのだろうか。なにか大切なことを、忘れてはいやしないか。

 しかしそれがなんなのか、レミンの無意識は掘り起こすことができない。

(どこかで、見たことがあるんだが……。……)

 脳裏で、なにかが揺らめいている。

「こちらでございます」

 女性の声がレミンの思考を中断させた。

 彼女が示したのは、両開きの白い扉だった。扉を守る近衛兵がふたり、両側に立っている。

 近衛兵。

 なにかが、おかしい。

 ―――そうだ。

 繋がらなかった符合が合致する。

(彼女は)

 弾けるように答えが出たと同時、

「ハイカイネン伯爵さまをお連れいたしました」

 彼女はそう告げ、中からの返事を待たず近衛兵に合図をし、扉を開けさせた。

(侍女だ)

 意識の奥で、いけないともうひとりの自分が強く警告をする。しかし時既に遅く、レミンは近衛兵に押し込められる格好で部屋に足を踏み入れてしまう。

 背後で扉が閉まり、鍵のかけられる音が硬く響いた。

 目の前の人物に、息を呑むレミン。

 そこにたたずむすらりとした姿に、目が離せなかった。

「―――イルマイラ殿……」

「久しぶりね、レミン」

 懐かしそうに目を細めるイルマイラが、そこにはいた。

 先程の女性は、イルマイラの侍女のひとりだった。彼女と顔を合せたことは数える程度。名前も知らない。

「妻はどこに?」

 レミンの視線はイルマイラの上を通り過ぎ、部屋を見渡す。ここはイルマイラの居室ではない。壁際に床几と長椅子、小さなテーブルセットが置かれおり、あとはお揃いのキャビネットがふたつ並んでいるだけの部屋。がらんとしたそこに、窓から明るい空の光が差し込んでいる。

 部屋には、イルマイラひとりだけ。

 騙されたのだと、このときになってレミンは悟った。

「カナをどこにやった」

「怖い物言いね」

「イルマイラ殿!」

 声を荒げても、イルマイラは涼しい表情を変えなかった。

「どうしてそんなに必死になるの?」

「当たり前だろう!」

「……醜いわ」

 イルマイラは寂しげにレミンを見上げる。

「あなたのそんな姿、見たくない」

「なに言ってるんだ」

「あのとき……わたしのときも、いまのように必死になってくれた?」

 あまりにも純粋な眼差しに、レミンは心の臓を摑まれた。イルマイラは滑るようにレミンの懐に入り込む。

「いけない」

 慌てて身を引くレミン。予見者に不用意に触れるのは、(はばか)られる。しかしその配慮を、イルマイラは違う意味で受け止める。

「公爵に義理立てをするの?」

「そういうことじゃなく」

「じゃあなに?」

 レミンは苛立ちを抑えられない。

「おれは妻を探しに来たんだ。カナデは、どこにいるんです?」

 レイリアが見たという奏音。気分が悪くて別室で休んでいるという奏音。

 奏音は、なにかに巻き込まれている。

 こんなところで時間を費やしている場合ではない。一刻も早く探せと、本能が強く訴えている。

 しかしイルマイラは、レミンの詰問に沈黙を返すばかりだった。

「もういい。自分で探す」

 腹立たしく(きびす)を返したその背中に、激情のままの声がほとばしった。

「待ってくれてると思ってた」

 思わず、足が止まる。

「あなたが誰かと結婚するだなんて―――わたし以外の誰かを愛するなんて、ありえないって、ずっと思ってたのに」

 呆然とレミンは予見者を振り返る。イルマイラはいまにも崩れそうなほど脆い顔で、必死に訴えていた。

 愛しているのだ、と。

 彼女のそんな表情が、信じられなかった。

「おれたち、終わったはずだろう?」

「あなたが勝手にそう思ってるだけよ!」

「ちゃんと話し合ったじゃないか。お互いそれで納得したじゃないか」

 予見の才能に恵まれすぎたイルマイラ。レミンと結婚するため王宮の予見者の任についたが、その才能が逆に、ふたりを別離へと追い込んだ。

 すれ違いの日々に、ふたりが選んだ道。あれから、どれほどの年月が経ったろう。

「納得なんてしてない。いつか迎えに来てくれると、わたしを待ってくれていると思ってた。あなたが結婚をせずにいたのは、わたしを待ってくれてるからだって」

「そんなこと……」

 身を引き裂かれる思いに堪え、何年もかけこの別離を懸命に乗り越えたというのに。

「いまさら、どうにもならないだろう!?」

「そんなことない!」

「もうあの頃には戻れないんだよ」

「やめて」

 イルマイラは目を潤ませ、レミンの瞳の奥を覗き込む。

 どれだけ見つめられても、既にイルマイラとの関係は過去のものでしかなかった。見つめられると胸が高ぶり熱くなったイルマイラの瞳も、いまではどこにでもある誰かの目の色、ただそれだけでしかない。

 それだけの時間が流れたのだ。

「あなたが大切な存在であることに変わりはない。だがおれが愛してるのは妻だけだ」

「なに言うのよ、目を覚ましてレミン」

「何度でも言う。おれが愛しているのは、カナデだ。カナデだけだ。あなたじゃない」

「やめてちょうだい! どうしてそんなこと。どうして……。―――だめよ、いや。予見どおりなんて、許さないから」

「……え?」

 顔をこわばらせ、憑かれたように震える声でイルマイラ。

 突然降ってわいたかのようにこぼれた『予見』という単語。どうしてこの流れでその単語が出てくるのか、レミンには理解できなかった。

 ―――いや。

(待った)

 予見どおり? それが許せない?

 イルマイラがほとばしらせた言葉は、耳を素通りさせるには許されない危うい音をはらんでいた。

「させやしない。あなたに愛されるのは、わたしのはずなのに。どうして公爵があなたの……!」

 思い詰める彼女の発言。

 予見どおりになるのはいや? ―――とは?

 乾いた唾を呑みこむレミン。

 恐ろしい思いが、虚をつかれたままの脳裏に忍び込む。

「どういう」

「忘れたのレミン? わたしはあなたと一緒になるためだけにここに入ったのよ? なのにずっと独りでいろと? あなたに抱き締めてもらうこともなく一生ここに閉じ込められて死を待つの? いやよ、もう()えられない、こんなはずじゃなかった……!」

 切ないまでにまっすぐな眼差しで、レミンを仰ぐ。

「わたしを連れて逃げて。ねえレミン、お願い。いまならできる」

「……」

「お願い、助けてよ、レミン……!」

 必死にすがるイルマイラに、レミンは圧倒され、言葉を呑む。

 彼女はこんなことを言う女性だったろうか? まるで知らない女性と向き合っているようだ。

 呆然と、ただイルマイラを言葉もなく見下ろすことしかできないレミン。

『予見どおりになるなんていや』

 意識の底を、イルマイラの言葉がざらざらと逆撫でをする。

 宮廷は、悪魔の巣窟。レミンと別れたあとのイルマイラが、ひとり孤独にさらされるには、あまりにも無情な場所だ。

 人生を狂わされ、未来の希望を見いだせないまま、なのに国の将来を予見せよと命ぜられる日々だったのだろう。

 変わらないでいるほうが、無理なのかもしれない。

「いまなら大丈夫だから。公爵のふりをすれば、ここから逃げられるから」

「なに莫迦なこと」

「できるのよ。公爵はまだ、姿を現せないんだもの」

 勢い込むイルマイラ。

 レミンの胸に、かつんとなにかが落ちる。

(『まだ』、『現せない』……?)

 同情に傾きかけていた思いが、すっと研ぎ澄まされていく。

 何故、奏音が姿を現さないと言いきれる? それも、まるでここではないどこかにいるような言いまわしで。

(いいや、違う)

『現さない』ではなく、『現せない』だ。奏音の意思ではどうにもならない状況を、それは意味してはいないか?

 あらためてイルマイラを見下ろすレミン。

 彼女は、淡いグリーンのドレスをまとっている―――。

 淡い色のドレス。

 淡い、色。

『予見どおりになるなんていや。どうして公爵があなたの……!』

 なにかが、ある。なにかをイルマイラは隠している。

『わたしを連れて逃げて。ねえレミン、お願い。いまならできる』

(『いまなら』……?)

 いまなら、とは?

 奏音が姿を消したのは、イルマイラの悋気からではないのか? こうしてレミンとふたりきりとなり、未来を迫るためではないのか?

 姿を『現せない』奏音。

「!」

 国王は、いつから大広間からいなくなった?

 ぞわりと、背筋から鳥肌が全身に広がる。

 足元が、崩れていく気がした。

 ふたりは、―――一緒なのか?

 僅かな希望も見逃すまいと、こちらを見つめるイルマイラ。

 彼女の考えが、判らなかった。踊らされながら薄氷を踏んでいる自分を思い知らされる。

 イルマイラはなにを考え、なにを画策している?

 底冷えのする恐怖が、胸の奥に生まれた。

 予見―――。

 予見どおりになるなんていや。―――その、〝予見〟とはなにを指している?

 イルマイラは、どんな光景を幻視したのだ? 実現を阻もうとする、その予見の内容とはなんだ?

 奏音が関わっている予見。

 奏音が王太子を産むという、あの予見しか考えられない。しかし、レミンの存在はその予見にはなかったはず。『公爵があなたの』と、レミンを絡めるのはおかしい。

 第一、奏音が王太子を産むという予見を何故阻もうとする? そんな理由も意味も必要性も、彼女にはないのに。

 それとも、新たになにかを見たというのか?

(そういう話は聞いてない)

 公表できないような、新たな予見を得たのだろうか。

(判らない)

 実現して欲しくないという予見とは、いったいなんだ?

 過去の恋人を想うイルマイラが恐れていることとは、なんだ?

(―――!)

 さきほど一瞬だけ胸の底に生まれた小さな疑念。それが突如閃くように思考へと切り込んでき、レミンは息をつめた。

 そんなことは、ありえない。

 あってはならないことだ。

 国付き筆頭予見者の予見を(いぶか)るのは、許されることだろうか。

 しかし理性は、既にそれを疑ってしまった。

 イルマイラの予見。

 信じたくはないが、己の想像に、レミンは身を凍らせる。

「イルマイラ殿……、あなたが見たという予見とは、どんなものだったんです?」

 危険すぎる問いだった。

 けれど、訊かずにはいられなかった。

 イルマイラの瞳は一瞬ためらいに揺れたが、それを抑え込むように彼女は答える。

「予見なんて、もういらない」

「答えるんだ」

「……」

「答えるんだ、イルマイラ殿!」

 レミンはイルマイラの肩を摑み、揺さぶる。

 逃げていた目が、レミンを捉えた。逡巡を見せていたが、すぐに一切の迷いも揺らぎもなくした強い眼差しになる。

「知ってどうなるの。もう遅いわ。フィザーンは、わたしの予見に沿って進んでいるのよ。戻れないくらいに」

「!」

「もう終わりにしたかった。だからこれだけは……、これだけはどうしても現実にさせたくなかった、絶対に……!」

「イルマイラ殿!」

 どんなに問い詰めても、イルマイラは予見の内容を口にはしない。

 だが、いまの答えで判明してしまった。

 イルマイラは、フィザーンの筆頭予見者は予見を偽った―――。

「自分がなにをしたのか、判ってるのか!?」

「解放されるには、こうするしかなかったのよ。あなたと一緒になるために、他にどんな方法があって!?」

「!」

 あまりのことに、レミンは打ちのめされる。

 イルマイラは、国を裏切ったのだ。

 ただひたすらに、レミンを想うために。そばにいたいがために。

 予見に手を加える。

 国付き筆頭予見者―――予見者として決して犯してはならない過ちを、彼女は犯したのだ。

「レミンしかいないの。フィザーンを敵にまわしてもいい、一緒になりたかった! あなたと一緒になるためにすべて、なにもかも捧げてきたのよ! このくらい、このくらいなによ!」

「―――もう、そんなことは、言うな」

 すべての感情が削がれた低い声だった。

「レミン!」

「現実を見ろよ。前を見ろ。過去にしがみついて、それでどうなる」

「現実を見るのは、あなたのほうよ!」

 イルマイラはレミンに取りすがり、懸命に訴える。

「気付いていないだけ。本当は、わたしを待っているのよ。いまでも! いまでもわたしを待っているのよ!」

 なんて哀れな女性なのだろう。そう思わずにはいられなかった。レミンは、腕を取るイルマイラの手を、そっと押し戻す。

 イルマイラは強く力をこめるばかりで離そうとしない。

「わたしのほうがあなたのことを判ってる、公爵よりふさわしいのよ」

「あなたではない」

 愕然と目を瞠るイルマイラ。

「おれにはカナデが必要だし、あいつにも、おれが必要なんだ。おれは、カナデを愛してる。イルマイラ殿。あなたじゃない」

 青い顔になったイルマイラは震えだす。

「―――その口で言うの? 『愛してる。ずっと待ってるから。どこにも行くな』そう言った同じ口で、他のひとを愛してると……!?」

 それは、イルマイラが王宮に勤めだしたとき言った言葉だった。幾重にも重なった、過去の向こうの出来事。

 レミンは静かに首を振る。

「これが、おれたちの選んだ道なんだよ。もう別々の道を歩いているんだ。あのときとは、もう違う」

「またそう思えばいい」

 イルマイラは、希望の色を眼差しに乗せる。

「公爵はもう陛下のものになってる。あなたと別々の道を進むのは公爵のほうなのよ」

 息を呑むレミンに、重ねる。

「これからは、わたしと生きていくのよレミン。やっと一緒になれるのよ」

「お前が画策したのか」

「だって邪魔だもの」

 瞬間、かっと頭に血が昇り、レミンの中でなにかが音をたてて崩れ落ちた。

 それは、かつて愛を触れ合わせたイルマイラへの信頼と絆が崩れる音だった。

 そのときだった。

「―――!?」

 顔色を失ったレミンに、雷のような激しい衝撃が襲いかかる。

(カナ―――!?)

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