08-1
夕方に降りだした雨は、空に闇の色が混じりだす遅い時間にもなると、かなり強く世界を叩くようになっていた。
夏に向かっているとはいえ、雨の降りしきる夜ともなれば肌寒さは否めない。
奏音は、レミンの部屋の前でひとり立ち尽くしていた。
決意を、伝えよう。
悶々と部屋で葛藤し、なんとかここまで来たものの、どうしても扉をノックすることができなかった。
雨音とそれに冷やされた空気に包まれ、どれだけ廊下にたたずんでいただろう。
深呼吸を、繰り返す。
(―――ん。行く)
気持ちを落ち着け、扉を叩こうと手を上げた。すぐ向こうになにか気配があると思った瞬間。
いきなり扉が開いた。
「!?」
「!?」
レミンだった。
片手を上げたままのけぞる格好になって、奏音は固まってしまう。レミンも目の前の奏音に、虚をつかれたように瞠目していた。
「―――びっくりした……」
「ご、ごめ、すみません……」
「いや……」
それきり言葉を失くしたレミンだったが、すぐに訊いてきた。
「どうしたんだ? こんなところで」
「え。あの、その、なんですが」
まさか急に扉が開くとは思ってもみなかったから、混乱して言葉が見つからない。
「えっと……」
「―――入って」
じっと奏音を見つめていたレミンは、しどろもどろの彼女にそう促した。
廊下で話すだけのつもりだったが、ひとり逡巡している間に身体は寒さを訴えていた。再度静かに促されて、奏音は拒めないまま足を踏み出した。
レミンの私室に入るのは、初めてだった。
窓には臙脂色のカーテンが引かれていて、長椅子があり、書物机がある。造りつけの書棚には、書籍以外に実験装置のようなものも幾つか収められていた。家具の色は深い茶色で、カーテンの色とともに落ち着いた雰囲気をかもしだしている。部屋の奥には、寝台があった。
なんとなく部屋をざっと眺めまわし、寝台が目に入ったところで、思わず視線をそらしてしまう。
長椅子を勧められ、その端に腰を下ろしたものの、話のきっかけを見失ってしまった。
壁際にあった椅子を持ってきてテーブルを挟んだ向かいにレミンもつくが、彼も難しい顔で黙り込んでしまっている。
(……迷惑、だった、よね)
結局、後悔が沸きあがる。
明日は朝から式典がある。そんな夜にいきなり私室を訪ねるのは、迷惑に決まっている。
(どうしよう……)
帰りたいとすら思えた。
揺れる思いに、情けないほど翻弄されてしまう。
「―――明日だな」
雨音を聞くだけの長い沈黙のあと、ぽつりとレミンが口を開いた。
「緊張して、眠れないのか?」
「え。あの……、そう、かもしれませんけど」
自分自身のことを問われているのに、なんとも歯切れの悪い返事しか返せず、へこんでしまいそうになる。
(そうじゃなくて)
「おれも、緊張してる」
レミンは背もたれに身体を預け、口元だけの笑みを作った。
その笑みに、胸が締めつけられる。
明日。
レミンはライコに請うのだろうか。奏音を献上する代わりに、イルマイラを貰い受けたい、と。
(緊張、するよね)
やっと、愛するひとと一緒になれるのだから。
膝の上に置いた手に、知らず力がこもった。
(話せ、あたし……!)
「あの」
「どうした?」
そう問うレミンの眼差しは、悔しいほどに艶やかで、優しい。
「あたし、陛下のひとのところに、行きます」
単刀直入に切り込んだ奏音に、レミンの顔色が目に見えて変わる。
「あたしのせいでイルマイラさんと一緒になれないなんて、だめだから」
「―――」
「いままでありがとうございました。迷惑かけどおしでなんにもできないのに見守ってくれて。言葉も、喋れるようになれたし。レミンさんと一緒にいられて本当に幸せでした。すごく。幸せで。―――だから今度は、レミンさんが、幸せになる番で」
ひと言ひと言に力を込めないと、気持ちが萎えてなにも言えなくなる。既に声には涙が混じっていた。
言葉を発さないレミン。涙がこぼれる前にと、畳みかけるように奏音は続けた。
「構いません、あたし。レミンさんの願いがかなうなら、それで幸せだから。幸せすぎるくらい幸せにしてもらえたから。陛下のひとのところにいきます、覚悟、でき」
「だめだ」
悲鳴のようにレミン。青い顔で奏音を遮る。
「なに言うんだ」
訴えるような視線が、奏音を捉えて離さない。
胸が震える。欲しかった言葉が見え隠れしていた。身体の芯が、自身の決意を砕きたがっている。
「でもレミンさん、願ってたなら、イルマイラさんのこと好きなんだから、やっと一緒になれるんですよ? あたしで役立つなら」
「やめてくれ、なに言ってるんだ」
強い口調で、レミンは奏音を遮った。食い入るような彼の眼差しに、奏音はすがりつきたくなる。レミンは、この不安を否定をしてくれるのだろうか? あの噂を、否定してくれるのだろうか?
「陛下のもとには、行くな。行っちゃだめだ」
「……でも」
「王宮で暮らしたいのか?」
奏音は首を振った。涙がこぼれた。そんなはずない。そんなはず、あるわけがない。
レミンは苦々しく息を吐いた。
奏音は真意をはかりきれず、だから、それ以上なにも言えなかった。
「姉上だろう? 姉上から、貴族たちの滅茶苦茶な妄想を聞かされたからだろう?」
不安を隠せずにいる奏音に、レミンは苛立たしげに続ける。
「イルマイラ殿を手に入れるためカナを陛下に献上しようと画策している。その罪滅ぼしで優しく接しているのだと、そう聞かされたんだろう?」
疑心暗鬼になりながらも、奏音は眼差しで頷く。
「―――莫迦」
レミンの唇から漏れたのは、決して責めてはいない声音だった。
「イルマイラ殿のことなど、気にすることなんてないんだ。全然関係ないのに」
「でも、付き合ってたって。結婚も考えてたって」
「ああ。昔な」
顔色ひとつ変えることもなく、なんでもないことのように肯定するレミン。
「昔のことだよ。とっくに終わったことだ。イルマイラ殿ともちゃんと話し合って、終わってるんだ」
「……じゃあ」
「イルマイラ殿と一緒になるつもりはないし恋愛感情もない。全部過去のことなんだよ。イルマイラ殿を得るためにカナを献上する気なんて、まったく全然ちっとも微塵もない」
だとすれば、アーニキが聞いたという〝償い〟の意味は、なにに対するものなのだろう?
「それでもカナは、陛下のもとに上がりたいのか?」
「そんなわけ、ないです。そんなわけない」
ライコのもとに行きたいわけがない。レミンの望みが叶うのならと思っただけだ。
誤解、だった。
ようやく緊張から解放され、胸の底から安堵の息が漏れた。
ほっとした奏音を、レミンは眩しそうに見つめる。
ここしばらく、様子がおかしいと気付いてはいた。アーニキがなにか良からぬ噂話でも吹き込んだのかと察しはついたが、奏音本人からの相談なり文句なりを待っていた。
だが、なにも言ってこない。
もの言いたげな顔はするものの、すぐに視線をそらし、口を閉ざしてしまう。態度もぎこちなくなり、避けられているとすら感じた。
どうにも我慢ができず、この日、アーニキを訪ねたのだった。
そこでレミンの過去と思惑についての貴族たちの推測を、彼女が聞いたのだと知った。
レミンの脳裏に、サーリネン邸でのアーニキの言葉がよみがえる。
『あなたは甘いのよ。カナデさんは、レミンが思っているよりずっと大人よ』
宮廷で自分に関する不穏な噂が流れていることも、王による奏音を手に入れようとする動きがあることも知っていた。
ただ、奏音には知らせなかった。そういった情報は遮断していた。不快な思いはさせたくなかったから。
王宮で噂を知る場合のことなど、正直想定していなかった。守りきるつもりでいたから。
『なに莫迦なこと言ってるの。子供から噂話を遠ざけるのとはわけが違うのよ? カナデさんにも、状況を知る権利があるわ』
甘い甘いと、ことあるごとにアーニキは眉をひそめていた。
確かにそのとおりだと、レミンは感じいる。
レミンを思い、ライコのもとへ上がっても構わないと言った奏音。
ありえなかった。
そんな莫迦なこと、あっていいはずがない。
そんな莫迦なことを考えてしまうほど、奏音は、子供ではないのだ。
そう。
この娘は、いつの間にか目を奪われるほどの女性に成長している。




