08-2
「―――レミンさん?」
「あ。ああ」
奏音をじっと見つめたままだったようだ。
出逢った当初肩を過ぎる程度だった髪も、いまでは腰にまで伸びている。フィザーンでは珍しい癖のないまっすぐな黒髪は、まるでオーロラを透かしたように輝いている。
黒髪のひと房が肩に引っかかっていて、あとほんの僅かなきっかけで胸へと流れ落ちそうだった。
安堵の表情を浮かべる奏音だが、それでも、どこか痛みを抱えるような色が、黒い瞳に浮かんでいる。
憂いを帯びたそんな奏音と雨の夜、自分の私室でふたりきり。そう考えると、どうにも艶めかしく感じてしまう。
「先を、越されたよ」
「え?」
「ひとりで悩ませてしまって、悪かった」
「……」
「不安だったろう?」
「……はい」
「カナの部屋に、行くつもりだった」
鼓動が大きく胸を打つ。
レミンがまっすぐに見つめてきたせいだ。まるで〝男〟のように。
「最初は、同情だった」
膝の上でレミンは指を組み合わせ、視線をそこへと彷徨わせる。
浮かれだしていた奏音の気持ちが、すっと引き締まる。
「あのとき、初めてカナと逢ったあのとき、陛下のもとにお連れすれば辛い思いをするとは判ってた。でも予見に逆らうことは、どうしてもできなかった。逃がしたいと思っても、できなかった」
奏音の記憶に、あの夜のことがよみがえる。
帰してと必死で訴えた。逃がしてと懸命に頼んだ。
だがレミンは涼しい顔をしながらそれを拒絶し、奏音は悪夢の日々を送ることになった。
「だけどまさか、言葉を失くすまで打ちのめされるとは思いもしなくて。再会したとき愕然とした。あんな姿、正直、辛かった。結婚を命じられて、なんとしてもこれからは幸せにするんだって誓った。自分のすべてをかけて守っていかなければ、って。あのときカナを見逃さなかったから、魔術で無理やり従わせて、おれのせいで辛い思いをしたんだと思うと」
「そんな……」
レミンはあのとき見逃してはくれなかった。けれど、奏音に降りかかった苦しみは、決して彼のせいではない。
「日本から離れて、言葉を手放すほど苦しめられたんだ。可哀相だと、なんていう運命を背負ってるのか、言葉まで失ってどんなに辛かったろうと思った。でも、苦しまずに済むのなら、言葉なんて戻らなくてもいいと、そう思ったこともある」
世界と自分との間を隔てていた見えない闇。奏音にとって世界はまったくの他者であり、通り過ぎていくだけの事項であって、存在しないも同義だった。
そんな日々の中で意識を引いたレミンの存在。その優しい眼差し。
その奥に、負い目を抱いていたなど。
「結局、自分勝手なんだよおれは。カナが辛い思いをすると、責められている気がするんだ。あのとき、逃がさなかったから」
「レミンさんのせいじゃないです」
フィザーンに無知なあのときとは違う。
いまは自分の立場を知っている。待望の王太子を産むと予見された娘を見逃す国民が、いったいどこにいよう?
「あたし、レミンさんを責めたことなんてないです、そんなこと思ったこともないし、そんなつもり全然ないです」
「悲しい思いや辛い思いは、させたくなかった。いつも楽しくいてもらいたかった。笑っていて欲しかった。だから最初は、本当に申し訳なくて、罪を償う気持ちが大きかった」
罪を、償う気持ち。
すとんと、心のもつれをほどく鍵が胸に落ちてきた。眉の開いた奏音に、レミンも頷く。
アーニキが言っていた〝償い〟。それは、このことだったのか。
同じ罪悪感でも、イルマイラは関係がなかった……。
奏音をひとりの人間として見てくれていたからこそ、純粋に彼女の心の安寧を強く求めてくれたのだ。
レミンは自嘲的なな笑みを浮かべる。
「だから、カナを責めることもできない」
「―――え?」
(責める?)
レミンの目が、怪訝な顔の奏音を捉える。
「カナを陛下に売るような男だと思ってたのかって、そんなふざけた妄想信じて悩んでたのかって、本当は今日、怒鳴りつけたいくらいだった」
だから帰ってからのレミンは、複雑な顔をしていたのか。
「―――ごめんなさい」
「謝らなくていい。自分で蒔いた種だ。―――カナ」
レミンの声が深くなった。その眼差しは、心を絡めとるように胸に迫る。
「そばにいてくれ」
甘い痺れが走る。意識は囚われ、全身が、思考が、止まる。
「お前を失いたくない。どこにも行かないで欲しい」
「……、……はっくしゅん!」
鼻がむず痒いと思った途端、盛大なくしゃみが出た。身体が冷えたせいもあるのだろうが、なんて間の悪い。
「……大丈夫か? 寒いんじゃないのか?」
「えっと」
「もしかして、廊下にずっといた、とか?」
「それは、えと、その……」
気まずく目が泳いでしまった。
「だめじゃないかそんな格好で。雨も降ってるし、まだ夜は冷えるのに」
軽く責めながら立ち上がったレミンは、着ていた上着を奏音に羽織らせた。
その際、肩に引っかかっていたひと房の髪が、はらりと胸へと流れ落ちた。
小さく動きを止めるレミン。
彼の手が、背後から流れ落ちた髪へと伸びる。
ためらいながらも、そのまま髪に指を絡めていく。
(あ……)
目を上げることができなかった。
背中から、上着に残るぬくもりが伝わってくる。そうして間近なレミン。髪を梳くレミンの指が、一瞬、頬に触れそうになる。
胸の奥が、熱を帯びだしていた。
雨音の中、ふたりは息を詰めるようにただじっと、その場を動けないでいた。
鼓動が胸を破りそうだ。
息も震えて、蕩けそうな全身はレミンのかすかな指の動きを追い続ける。
求めるように強く見つめられているのが、判る。
髪を梳いたレミンの手が、名残惜しそうにするりと離れていった。一歩ぶん、身体を離して距離を作られる。
ほんの僅かな時間だったのだろうが、果てしないほど永遠に思えた。
「明日、陛下のお召しがあるだろう」
くぐもった声。喉の奥に、なにかを堪えているようだ。
「陛下は、さすがに予見を軽視できなくなるほど、追い込まれておいでだ」
ぴりりと、奏音の首筋を別の緊張が駆け上がる。
「でもおれは。―――おれには、予見よりも大切なものがある」
振り仰ぐように、背後のレミンを見上げた。
どこか悲しげな笑みを、彼は唇に浮かべた。
「カナ。お前が好きだ。どうしようもないくらい、愛しくてたまらない」
奏音の表情が、無防備になる。
これは、夢、なのだろうか?
胸の奥から、熱いものが溢れださんとしている。
「好きな男がいることも、おれを父親としか見ていないことも知ってる。でも、止められない。償いのはずだったのに、お前が愛しくてならない」
雨の音が響いていた。なのに聞こえるのは、レミンの声ばかりだ。
「もう、誰かに恋をするなんてことないと思ってた。こんなにも、あたたかな気持ちだったんだな」
「だって、……結婚相手、なのに?」
「それがなんだ。悪いか」
普段のレミンは泰然としているけれど、ときどき、思いがけないほど人間臭くなる。
レミンが好意を持ってくれている。それも、ひとりの女性として。娘としてではなく、女として。
大切にしてくれたのは、〝妻〟だからではなく愛情からだった。
(―――ああ……!)
心に巣くっていた不安な思いが、音をたてて剥がれ落ちていく。身動きができないほどがんじがらめになっていた、レミンの気持ちへの不安な思い。
「あたし。娘としか見られてないんだって、そう思ってました、ずっと」
「カナ……」
「レミンさんは、レミンさんです。父親と重ねて見たことなんて、一度もないです」
レミンは小さく息を呑み、窺うような眼差しになる。
「あたしも……レミンさんが好き」
泣き出したいくらいに。苦しくて胸が張り裂けそうなほど。
「陛下のひとに引き渡されるとしても、どうしても、言いたかった。レミンさんのことが好きだって―――」
奪われるように抱き締められた。レミンは奏音の肩口に顔を埋めながら、声を絞り出す。
「もう二度と、おれ以外の男のところに行くなんて言うな。魂が、引き裂かれるかと思った」
「……」
強く抱き締められ、思考が飛んだ。身体を固まらせていると、レミンははっと身を離した。
「済まない! つい、思わず」
王によって植えつけられた、彼女の無意識に眠る男性への恐怖心。触れてしまうことでそれを刺激しないよう気をつけていた。それなのに、感情にまかせて抱き締めてしまうとは。
しかし奏音は、高まる鼓動を感じながら、自分の中の変化を自覚する。
ひとを愛する気持ちはあたたかいと、レミンは言った。
確かにそうだ。彼に抱き締められて、こんなにも心は潤み、熱い想いがとめどなく溢れている。
好きなひとに抱き締められることが、これほど幸福なものだとは。
好きなひとだからこそ、触れられることがこんなにも嬉しい。
大丈夫です。なんともないです。
嬉しくて心地よくて、微笑がこぼれた。
「カナ……?」
頷く奏音。
その表情の意味するところを確認するかのように、恐るおそる、まるで薄いガラス細工に触れるかのごとく、レミンの手が伸びた。
髪をかき分けるようにして差し伸べられた手に、そっと頬が包み込まれる。
意識のすべてがそこに集まり、心地よい感触に蕩けそうになる。ごくごく自然に、レミンの大きなてのひらに、頬を寄せる奏音。
一瞬一瞬の仕草に、レミンは奏音の表情を窺う。
「怖くは、ないのか?」
「怖くなんて……」
ゆっくりとレミンの顔が近付いてくる。なにが起こるのか、奏音はそっとまぶたを伏せてそれを受け入れる。
額にやわらかな感触があった。レミンの唇が触れていた。
そっと触れられるただそれだけで、心のひだが甘く震える。
「これは……?」
「大丈夫、です……」
伏せたまぶたに落ちるぬくもり。
「これは」
唇で触れられるたび、一枚一枚、なにかが剥がされていく。
頷いて見せる奏音。
耳たぶに。甘く、噛まれる。囁き込まれる吐息にうっとりと力が抜ける。
「これも……?」
耳元への深く甘い声もあいまって、身体は恍惚に震え、熱い息が漏れた。
そうして、唇に。
愛しい感覚が、全身に広がっていく。
レミンはもう問うこともなく、突き動かされるように唇を重ねた。
(―――ああ)
奏音は、甘い痺れに冒された指先を、レミンの背へとまわした。
結婚式のあのとき、一度だけ交わしたことのあるレミンとのキス。
いま、初めて知った。
愛に満たされたキスがこんなにも心震わせ、もどかしいほどすべてが流れ出していくものだったなんて。
―――奏音はこの日、初めてレミンの寝室で夜を明かした。
彼の腕や背中には、火傷の痕が大きく残っていた。アーニキが言っていた、事故の傷痕だ。
奏音がその傷に不快な思いをしないかと、レミンは怖れた。
確かにひどい傷痕だったが、それだけでしかない。
「生きていてくれてるんだもの。助かってくれて、本当によかった」
彼の肌を辿る指先の感触に、そう言わずにはいられなかった。不思議なほど、傷痕が愛しくてならない。傷痕のひとつ、火傷痕のひとつが、レミンの歴史を物語っている。
涙さえこぼれる。
くちづけを落とさずにはいられない。
不快な思いなんて、あるわけがない。
(だってこれは)
レミンがここにこうして生きていてくれている、その証なのだから。




