表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/44

08-2

「―――レミンさん?」

「あ。ああ」

 奏音をじっと見つめたままだったようだ。

 出逢った当初肩を過ぎる程度だった髪も、いまでは腰にまで伸びている。フィザーンでは珍しい癖のないまっすぐな黒髪は、まるでオーロラを透かしたように輝いている。

 黒髪のひと房が肩に引っかかっていて、あとほんの僅かなきっかけで胸へと流れ落ちそうだった。

 安堵の表情を浮かべる奏音だが、それでも、どこか痛みを抱えるような色が、黒い瞳に浮かんでいる。

 憂いを帯びたそんな奏音と雨の夜、自分の私室でふたりきり。そう考えると、どうにも(なま)めかしく感じてしまう。

「先を、越されたよ」

「え?」

「ひとりで悩ませてしまって、悪かった」

「……」

「不安だったろう?」

「……はい」

「カナの部屋に、行くつもりだった」

 鼓動が大きく胸を打つ。

 レミンがまっすぐに見つめてきたせいだ。まるで〝男〟のように。

「最初は、同情だった」

 膝の上でレミンは指を組み合わせ、視線をそこへと彷徨わせる。

 浮かれだしていた奏音の気持ちが、すっと引き締まる。

「あのとき、初めてカナと逢ったあのとき、陛下のもとにお連れすれば辛い思いをするとは判ってた。でも予見に逆らうことは、どうしてもできなかった。逃がしたいと思っても、できなかった」

 奏音の記憶に、あの夜のことがよみがえる。

 帰してと必死で訴えた。逃がしてと懸命に頼んだ。

 だがレミンは涼しい顔をしながらそれを拒絶し、奏音は悪夢の日々を送ることになった。

「だけどまさか、言葉を失くすまで打ちのめされるとは思いもしなくて。再会したとき愕然とした。あんな姿、正直、辛かった。結婚を命じられて、なんとしてもこれからは幸せにするんだって誓った。自分のすべてをかけて守っていかなければ、って。あのときカナを見逃さなかったから、魔術で無理やり従わせて、おれのせいで辛い思いをしたんだと思うと」

「そんな……」

 レミンはあのとき見逃してはくれなかった。けれど、奏音に降りかかった苦しみは、決して彼のせいではない。

日本(ニホン)から離れて、言葉を手放すほど苦しめられたんだ。可哀相だと、なんていう運命を背負ってるのか、言葉まで失ってどんなに辛かったろうと思った。でも、苦しまずに済むのなら、言葉なんて戻らなくてもいいと、そう思ったこともある」

 世界と自分との間を隔てていた見えない闇。奏音にとって世界はまったくの他者であり、通り過ぎていくだけの事項であって、存在しないも同義だった。

 そんな日々の中で意識を引いたレミンの存在。その優しい眼差し。

 その奥に、負い目を抱いていたなど。

「結局、自分勝手なんだよおれは。カナが辛い思いをすると、責められている気がするんだ。あのとき、逃がさなかったから」

「レミンさんのせいじゃないです」

 フィザーンに無知なあのときとは違う。

 いまは自分の立場を知っている。待望の王太子を産むと予見された娘を見逃す国民が、いったいどこにいよう?

「あたし、レミンさんを責めたことなんてないです、そんなこと思ったこともないし、そんなつもり全然ないです」

「悲しい思いや辛い思いは、させたくなかった。いつも楽しくいてもらいたかった。笑っていて欲しかった。だから最初は、本当に申し訳なくて、罪を償う気持ちが大きかった」

 罪を、償う気持ち。

 すとんと、心のもつれをほどく鍵が胸に落ちてきた。眉の開いた奏音に、レミンも頷く。

 アーニキが言っていた〝償い〟。それは、このことだったのか。

 同じ罪悪感でも、イルマイラは関係がなかった……。

 奏音をひとりの人間として見てくれていたからこそ、純粋に彼女の心の安寧を強く求めてくれたのだ。

 レミンは自嘲的なな笑みを浮かべる。

「だから、カナを責めることもできない」

「―――え?」

(責める?)

 レミンの目が、怪訝な顔の奏音を捉える。

「カナを陛下に売るような男だと思ってたのかって、そんなふざけた妄想信じて悩んでたのかって、本当は今日、怒鳴りつけたいくらいだった」

 だから帰ってからのレミンは、複雑な顔をしていたのか。

「―――ごめんなさい」

「謝らなくていい。自分で蒔いた種だ。―――カナ」

 レミンの声が深くなった。その眼差しは、心を絡めとるように胸に迫る。

「そばにいてくれ」

 甘い痺れが走る。意識は囚われ、全身が、思考が、止まる。

「お前を失いたくない。どこにも行かないで欲しい」

「……、……はっくしゅん!」

 鼻がむず痒いと思った途端、盛大なくしゃみが出た。身体が冷えたせいもあるのだろうが、なんて間の悪い。

「……大丈夫か? 寒いんじゃないのか?」

「えっと」

「もしかして、廊下にずっといた、とか?」

「それは、えと、その……」

 気まずく目が泳いでしまった。

「だめじゃないかそんな格好で。雨も降ってるし、まだ夜は冷えるのに」

 軽く責めながら立ち上がったレミンは、着ていた上着を奏音に羽織らせた。

 その際、肩に引っかかっていたひと房の髪が、はらりと胸へと流れ落ちた。

 小さく動きを止めるレミン。

 彼の手が、背後から流れ落ちた髪へと伸びる。

 ためらいながらも、そのまま髪に指を絡めていく。

(あ……)

 目を上げることができなかった。

 背中から、上着に残るぬくもりが伝わってくる。そうして間近なレミン。髪を梳くレミンの指が、一瞬、頬に触れそうになる。

 胸の奥が、熱を帯びだしていた。

 雨音の中、ふたりは息を詰めるようにただじっと、その場を動けないでいた。

 鼓動が胸を破りそうだ。

 息も震えて、蕩けそうな全身はレミンのかすかな指の動きを追い続ける。

 求めるように強く見つめられているのが、判る。

 髪を梳いたレミンの手が、名残惜しそうにするりと離れていった。一歩ぶん、身体を離して距離を作られる。

 ほんの僅かな時間だったのだろうが、果てしないほど永遠に思えた。

「明日、陛下のお召しがあるだろう」

 くぐもった声。喉の奥に、なにかを堪えているようだ。

「陛下は、さすがに予見を軽視できなくなるほど、追い込まれておいでだ」

 ぴりりと、奏音の首筋を別の緊張が駆け上がる。

「でもおれは。―――おれには、予見よりも大切なものがある」

 振り仰ぐように、背後のレミンを見上げた。

 どこか悲しげな笑みを、彼は唇に浮かべた。

「カナ。お前が好きだ。どうしようもないくらい、愛しくてたまらない」

 奏音の表情が、無防備になる。

 これは、夢、なのだろうか?

 胸の奥から、熱いものが溢れださんとしている。

「好きな男がいることも、おれを父親としか見ていないことも知ってる。でも、止められない。償いのはずだったのに、お前が愛しくてならない」

 雨の音が響いていた。なのに聞こえるのは、レミンの声ばかりだ。

「もう、誰かに恋をするなんてことないと思ってた。こんなにも、あたたかな気持ちだったんだな」

「だって、……結婚相手、なのに?」

「それがなんだ。悪いか」

 普段のレミンは泰然としているけれど、ときどき、思いがけないほど人間臭くなる。

 レミンが好意を持ってくれている。それも、ひとりの女性として。娘としてではなく、女として。

 大切にしてくれたのは、〝妻〟だからではなく愛情からだった。

(―――ああ……!)

 心に巣くっていた不安な思いが、音をたてて剥がれ落ちていく。身動きができないほどがんじがらめになっていた、レミンの気持ちへの不安な思い。

「あたし。娘としか見られてないんだって、そう思ってました、ずっと」

「カナ……」

「レミンさんは、レミンさんです。父親と重ねて見たことなんて、一度もないです」

 レミンは小さく息を呑み、窺うような眼差しになる。

「あたしも……レミンさんが好き」

 泣き出したいくらいに。苦しくて胸が張り裂けそうなほど。

「陛下のひとに引き渡されるとしても、どうしても、言いたかった。レミンさんのことが好きだって―――」

 奪われるように抱き締められた。レミンは奏音の肩口に顔を埋めながら、声を絞り出す。

「もう二度と、おれ以外の男のところに行くなんて言うな。魂が、引き裂かれるかと思った」

「……」

 強く抱き締められ、思考が飛んだ。身体を固まらせていると、レミンははっと身を離した。

「済まない! つい、思わず」

 王によって植えつけられた、彼女の無意識に眠る男性への恐怖心。触れてしまうことでそれを刺激しないよう気をつけていた。それなのに、感情にまかせて抱き締めてしまうとは。

 しかし奏音は、高まる鼓動を感じながら、自分の中の変化を自覚する。

 ひとを愛する気持ちはあたたかいと、レミンは言った。

 確かにそうだ。彼に抱き締められて、こんなにも心は(うる)み、熱い想いがとめどなく溢れている。

 好きなひとに抱き締められることが、これほど幸福なものだとは。

 好きなひとだからこそ、触れられることがこんなにも嬉しい。

 大丈夫です。なんともないです。

 嬉しくて心地よくて、微笑がこぼれた。

「カナ……?」

 頷く奏音。

 その表情の意味するところを確認するかのように、恐るおそる、まるで薄いガラス細工に触れるかのごとく、レミンの手が伸びた。

 髪をかき分けるようにして差し伸べられた手に、そっと頬が包み込まれる。

 意識のすべてがそこに集まり、心地よい感触に蕩けそうになる。ごくごく自然に、レミンの大きなてのひらに、頬を寄せる奏音。

 一瞬一瞬の仕草に、レミンは奏音の表情を窺う。

「怖くは、ないのか?」

「怖くなんて……」

 ゆっくりとレミンの顔が近付いてくる。なにが起こるのか、奏音はそっとまぶたを伏せてそれを受け入れる。

 額にやわらかな感触があった。レミンの唇が触れていた。

 そっと触れられるただそれだけで、心のひだが甘く震える。

「これは……?」

「大丈夫、です……」

 伏せたまぶたに落ちるぬくもり。

「これは」

 唇で触れられるたび、一枚一枚、なにかが剥がされていく。

 頷いて見せる奏音。

 耳たぶに。甘く、噛まれる。囁き込まれる吐息にうっとりと力が抜ける。

「これも……?」

 耳元への深く甘い声もあいまって、身体は恍惚に震え、熱い息が漏れた。

 そうして、唇に。

 愛しい感覚が、全身に広がっていく。

 レミンはもう問うこともなく、突き動かされるように唇を重ねた。

(―――ああ)

 奏音は、甘い痺れに冒された指先を、レミンの背へとまわした。

 結婚式のあのとき、一度だけ交わしたことのあるレミンとのキス。

 いま、初めて知った。

 愛に満たされたキスがこんなにも心震わせ、もどかしいほどすべてが流れ出していくものだったなんて。



 ―――奏音はこの日、初めてレミンの寝室で夜を明かした。

 彼の腕や背中には、火傷の痕が大きく残っていた。アーニキが言っていた、事故の傷痕だ。

 奏音がその傷に不快な思いをしないかと、レミンは怖れた。

 確かにひどい傷痕だったが、それだけでしかない。

「生きていてくれてるんだもの。助かってくれて、本当によかった」

 彼の肌を辿る指先の感触に、そう言わずにはいられなかった。不思議なほど、傷痕が愛しくてならない。傷痕のひとつ、火傷痕のひとつが、レミンの歴史を物語っている。

 涙さえこぼれる。

 くちづけを落とさずにはいられない。

 不快な思いなんて、あるわけがない。

(だってこれは)

 レミンがここにこうして生きていてくれている、その証なのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ