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07

 レミンは、夜遅く邸に帰って来た。玄関広間に迎え出た奏音の心は、彼の姿にいっそう乱れてしまう。

 彼の優しさを疑う思いと、信じたい気持ち。ふたつの心がせめぎあって、いつものようにそばに駆け寄ることができない。

「ん? どうした、カナ?」

 今日もきっとどこか貴族の邸に足を運んだのだろう。疲れているだろうに、彼はおくびにも出さない。むしろ、出迎えた奏音の様子に目敏く訊ねてくる。

「なにかあったのか?」

 レミンの瞳が、まっすぐに奏音を見つめる。この表情が、裏のあるものだとは思えない。思いたくない。

「いえ……」

 奏音はとりつくろうように笑みを顔に貼りつける。

 瞬き数回ほどの沈黙のあと、レミンは不審そうに顔を覗き込む。

「……そうか?」

「そうです」

「そうか……」

 それ以上、追求はなかった。

「姉上来たんだよな。いじめられたりしなかったか?」

 クラヴァットを緩めながら、レミンは階上の自室へと向かう。

「いえ、そんなことは。あの、温室に呼んでくれました。レミンさんと一緒に是非にって」

 無難な話題で誤魔化す奏音。しまったと顔を軽くしかめるレミン。

「カナをだしにするとは……。他に、なにか言ってたか?」

「いえ……。あ、えっと、あたしが猫舌だってこと、覚えててくれました」

「いま頃姉上があっちやこっちでカナの猫舌をネタにして、いろいろ噂話を吹聴してるぞ」

 軽く笑ったレミンだったが、奏音は笑えなかった。階段下で足を固まらせたまま、昇っていくレミンを見上げることしかできなかった。

 レミンはいつも夕食をとりながらその日の出来事を奏音に話し、ゲームをしたり奏音に文字を教えたりなどをして明るい夜の時間を過ごしている。

 けれど、今日ばかりは気が重い。

 アーニキが帰ってから、レミンの優しさは偽りだったのか、いや本物だ、信じてもいいのか、信じられる、本当に信じてもいいのか……ありとあらゆる感情と理性とが荒れ狂い、自分を見失いそうだった。

 レミンと顔を合わせるのが怖かった。

 アーニキの話がどこまで事実に迫っているかは判らないけれど、もし本当で、それを聞いたとレミンに知れたら―――。

 レミンはどう出るのだろう? 

 その先を考えるのが怖くて、意識の外に感情を無理やり押しやるしかない。

 なのに帰って来たレミンはあまりにもいつもと同じで、嬉しくてならない。

 視界からレミンの顔が消えた瞬間、背を向けた瞬間、その姿が見えなくなった瞬間、しかし押しやったはずの不安に呑みこまれそうになる。

 これから、どうすればいい?

 それを訊くわけにはいかない。

 見捨てられるかもしれない。

 そんなことはないとも信じている。

 奏音の内側を、言いようのない恐れが不安に冷たい爪を立てる。

 結局その夜、不安をレミンに告げることはできなかった。次の日も、その次の日も。



 そうこうしているうちに、式典が翌日にまで迫っていた。

 式典の打ち合わせもあり、レミンはその日も朝早くから邸を空けていた。

 さすがにこの数日、物言いたげでありながら視線を合わせようとしない奏音に、彼も気付いているようだった。だがなにも言わない。おそらくは、奏音が口を開くのを待っている。

 無理やり聞き出そうとしないその優しい態度は、けれど奏音にとっては拷問にも思えた。訊かれなければ、口を閉ざし続けるつもりなのだろうか。それとも、奏音がレミンの真意を知らされたことに気付いておらず、まったく関係のないことについて思い悩んでいると考えているのだろうか。

 なにも知らされないまま、自分は王に献上されるのだろうか。

(―――そんなことない。あたしを売るつもりはないって……)

 レミンは、そう言った。

(でも)

 次第に判らなくなってくる。

 頭は混乱して、考えは堂々めぐりをし、なにが真実なのかが判らない。

 優しいレミン。その裏にある顔。

 裏の顔は存在しているのか、しないのか。

 安穏とした時間の先に、王へと献上させられるのか、たんなる貴族たちの思い違いなのか。

(誰か教えて……!)

 レミンに対して不信感を抱き続けるのは、身を削られるようで苦しかった。

 なにより、彼に疑いの眼差しを向けてしまう自分が一番醜く、嫌でたまらない。

 否定しては疑い、疑っては否定しを繰り返し、ようやくその果てに、ひとつの答に辿り着いた。

 短い時間だけれどレミンと時間を過ごしてきて、彼がどういう人間なのかが判ってきている。

 これまで向けてくれたあの優しい眼差しが偽りだとは、やはり思えない。

 奏音を売るつもりがないのは、真実だろう。

 大切に思ってくれているのも、アーニキが言ったように本当なのだろう。妻として、本当に大切にしてもらっている。

(妻、だから―――)

 レミンは、〝結婚相手〟である奏音に義理立てをしているのだ。

 辺縁から落とされ、王に蹂躙された末、捨てられるように妻となった奏音に、同情をしているだけ。

 魔術学院で貴族以外のひとたちと接したせいもあるかもしれない。貴族の常識にとらわれず、結婚相手を、政略結婚の相手を、ひたむきに、まっすぐに、大切にしてくれる。

 奏音だから、ではなく、妻となったのが他の女性であっても同じだったろう。

 想いを寄せる女性がいてもその想いを抑え、結婚相手への義務感で、真実愛している女性と一緒にはならない。

 そのチャンスがあるのに。

 長年の想いが叶うというのに。

 妻に義理立てをして、せっかくのチャンスを手放そうとしているレミン。

 貴族なのに。妻への義務感などないはずなのに。

 幸せになれるのに敢えて苦しい道を選んでいるのなら。


 彼に、幸せになって欲しかった。恩返しがしたかった。

 レミンが好きだから。

 レミンがイルマイラを愛しているのなら、求めているのなら―――奏音がすることは、決まっている。

 自分にできることは、たったひとつだけ―――。



 レミンは夕方には帰って来た。その頃には、曇っていた空から湿るような雨が降りだしていた。

 思いを伝えよう。

 そう決意したものの、やはり帰って来たレミンの顔を見ると勇気は萎えてしまう。失いたくない。離れたくなかった。

「おかえりなさい」

 だからなにもなかったように、自分自身を演じてしまう。

 いつもなら帰りの挨拶と他愛もないことを二言三言話しながら自室に向かうレミンだったが、今日は違っていた。

 出迎えた奏音をじっと見つめ、なにかを(こら)えるような顔になってすっと目をそらすと、言葉もなくそのまま階上へと行ってしまったのだ。

 その、彼の遠い背中の広さ。

(ああ……!)

 見捨てられたと、奏音は悟った。

 式典を明日に控え、とうとう切り捨てられたのだ、と。

「―――はは」

 あまりのことに、乾いた笑いが喉をつく。

(あたし……捨てられちゃったよ……)

 こうなることは覚悟していたのに。レミンの幸せのため、自分から申し出ようと決めてもいたのに。

(結構……辛い……)

 奏音はぽつんとひとりきり、泣くこともできず、その場に立ち尽くすしかできなかった。

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