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03

 時は静かに過ぎゆき、夏至まで一ヵ月を切った。

 レミンと奏音は、式典の半月前に王都の邸に移る。

 そこは結婚直後を過ごした邸だったが、当時月の痛みに苦しんでいた奏音はあまり覚えていない。

 今回も、邸に着いてすぐ月のものがやってきた。予定ではあと数日あるはずだったが、身体は正直だ。式典への緊張は、思った以上に強かったらしい。

 王都に集う他の貴族たちは、二年ぶりに田舎から出て来たハイカイネン伯爵夫妻―――というよりリュシアン公爵カナデに、募る興味を隠せない。奏音が言葉を取り戻したことを、彼らは既に知っていた。

 なんやかんやと理由をつけて訪問の約束を取りつけようとする貴族たちを、しかしレミンはことごとく断り続けた。

 奏音の体調のせいもあるが、国王謁見の前に他の貴族たちにやたらに顔を見せるなという、ふざけた通達を受けていたためでもある。莫迦ばかしい命令も、ときには役に立つらしい。

 おかげで、奏音は二年ぶりのオルボリンナを穏やかに過ごすことができた。


 窓の外では、白く眩しい陽光が庭の木々の緑を輝かせていた。北の領地から南部の王都へ移ったこともあり、日差しはいっそうあたたかい。庭で過ごせば、さぞ気持ちがよいだろう。

 そう思いながら外を眺めていると、アーニキの訪問が告げられた。

『義姉』は、『他の貴族』にはならない。奏音が寝込んでいたときも、顔を見せに来てくれたという。

 玄関広間に迎えに行った奏音は、庭へとアーニキを案内した。

「身体の具合はどう?」

「もうすっかり大丈夫です」

 月のものは、ほとんど終わっていた。

 木陰の席を勧める奏音に、アーニキは顔をほころばせる。

「本当によかった。それにしても大変よね。毎月のことなんですもの」

「レミンさんやみんなには、本当にいつも迷惑をかけてしまってます」

「一番辛いのはカナデさんだもの、気にすることなんてないわよ。まぁ、あのこの過保護っぷりも度を越してるけど」

 アーニキが先日やって来たとき、レミンは痛みに苦しむ奏音が気になり、心ここにあらずな応対をしたのだという。

 しばらく落ち着いてはいたのだが、久々に痛みで気を失ってしまったせいだろう。

「それにしてもカナデさん、そうやって話すのね。声を聞くの初めてかもしれないわ。かわいらしい声ね」

「え。……あの。あ……ありがとうございます」

 面と向かって言われ、なんとなく照れ臭い。

 さらりと風が庭を渡る。庭木は優しい葉擦れを奏で、少し強めの陽射しに木陰を揺れ重ねる。

 これからの季節、外に出て陽光を浴びるのは本当に気持ちがいい。長い冬を抱えるフィザーンの人々がこの時期を心待ちにし、庭先や街中でゲームや読書、アルコールをあおりながら一日を過ごすのも判る。日焼けは気になるものの、この清々しさに、部屋の中でじっとしていることなどできない。

「そういえばカナデさん、猫舌だったわよね」

 メイドが紅茶を用意するのを見て、思い出したようにアーニキ。

 濃く淹れた紅茶を氷室の氷で割って飲む習慣が、真夏のフィザーンにはある。まだその季節には早かったが、この邸で出される紅茶は、既に冷水で割ったものだった。

 メイドに軽く頭を下げる奏音。伯妃という立場上、そういう気遣いは必要ないと教えられているものの、たった十八年とはいえ身体の隅々にまで沁み込んだ日本人魂でなかなかそれに馴染めない。「ありがとう」という言葉とともに、頭は自然に下がってしまう。

 義妹が辺縁から来たという背景があるせいか、アーニキはそれを身分不相応とは思えず、逆に微笑ましく感じて、その頬を緩ませる。

 ほのかに笑みを浮かべる様子は、さすが姉弟だと思わせるほどレミンとそっくりだった。だが、猫舌のことで微笑まれているのかと、奏音は恥ずかしくなってしまう。

「子供みたいで恥ずかしいんですけど、なかなか治らなくて……」

 つい二日前も夕食に出たスープで舌を火傷してしまい、レミンを心配させた。まったくもって心配のかけどおしだった。

 レミンは、毎回の月の痛みにも呆れることなく奏音をいたわり、胸に沁み入る気遣いを見せてくれる。月のものが来る前、情緒不安定になって乱暴にふるまっても、怒ることもなくなんでもないことのように受け止めてくれるのだ。

 敵わないくらい大人だと、本当に思う。申し訳ないほど、彼はあまりにも優しい。

 思考に沈んで遠い目になった奏音に、アーニキは尋ねる。

「レミンは、出掛けてるの?」

「―――あ。はい。魔術学院に呼ばれたみたいです。そのあと、大聖堂にも行くとのことで」

「あら、そう。まあ、予想はしていたけど」

 少し残念そうな声。

「毎日いろいろと出掛けているんです。せっかく来ていただいたのに、すみません。レミンさんも謝ってました」

 この日にアーニキが屋敷を訪れるという連絡は、数日前に受けていた。ひとりでアーニキに応対することになる奏音を、レミンは気にしてくれていた。

 レミンは昨日もオルボ大聖堂に足を運んでいる。昨日だけではなくその前日も、更にその前の日も。オルボ大聖堂へは、王都に来てから毎日足を運んでいた。

 彼は、奏音がフィザーンにやって来たときの所持品を譲ってくれるよう、請願してくれているのだ。

 公爵の持ち物は辺縁の至宝。大聖堂で管理をすると教会側は主張しているが、それらはもともと奏音の持ち物である。執着はないが、自分のルーツに繋がるものとして、できれば手元に置いておきたかった。

 レミンはそういった気持ちを汲み取り、あちこちから呼び出しや招待が舞い込む中、教会への交渉を続けてくれている。

 どうしてそこまで、優しくしてくれるのだろう?

 どうしたらその優しさに報いることができるのだろう?

 なにも返せない自分が、痛いほど情けなくてたまらない。

「気にしないで。忙しいのも仕方ないわ。田舎貴族が、身の程を過ぎた結婚をしたんだもの」

「……すみません……」

「カナデさんが謝ることはないのよ。それにむしろ、レミンというより、カナデさんに会いに来たわけだから」

「?」

 目を(しばたた)かせる奏音。

「ほら。他の貴族たちはカナデさんに会うことができないでしょう? だからレミンの姉であるわたくしに、様子を見てもらいたいと白羽の矢が立ったのよ」

「そ、そうなんですか」

 まさかそれほど皆の興味を引いているとは思わなかった。王宮にいた頃は、あんなにも無関心だったのに。

「ええ。結婚をしてどんな女性になったのか、どんなに美しくなったのか、なにを考えているのか。いろいろとね。でもそんなことより、あらためて挨拶しておきたかったっていうのが正直なところかしら」

「……あ。済みません。わたしのほうがお伺いしなくちゃならなかったんですよね」

 アーニキは義姉に当たるのだから。しかし爵位でいけば奏音のほうが上だ。こうして訪問を受けるほうが普通なのだろうか?

 訪問ひとつとっても、なにも知らない自分を思い知らされる。

 気落ちして伏せ目がちになる奏音に、アーニキは穏やかに微笑みかけた。

「ではいつか、わたくしの邸にもいらして。自慢の温室があるの。案内させて」

「ええ、はい。是非、お伺いします」

「そのときはもちろんレミンも一緒にね。あのこ、主人のことが苦手みたいで全然顔を見せてくれないんだもの。娘たちも会いたがってるのよ。カナデさんが『連れて行って』って頼めば、一緒に来てくれるはずだわ」

「そう、でしょうか……?」

「もちろんよ。あなたのこと、大切に思っているんだもの」

 アーニキは『大切』を強調してそう言うが、かえって奏音の気持ちは重たく沈む。

 確かに十中八九、奏音が頼めば一緒に行ってくれるだろう。けれど、その優しさをあてにするのは気が引けた。そんな勇気がわかない。

 自信がなかった。

 いまでも、充分すぎるほど苦しいのに。

 レミンの絶対的な優しさに触れれば触れるほど、後ろめたい気持ちに苛まれる。

 彼に気遣ってもらえるだけの価値を、自分に見出せなかったから。

 レミンの完成された大人の眼差しは遥か彼方にあり、どれだけ背伸びして手を伸ばしても、届かない。

 自分と結婚させられる以前、きっと彼には両想いの相手がいただろう―――いたに違いない。そう思ってからは、まるで絡みつく鎖のように彼の過去が頭から離れてくれない。

 ずっと独身だったというのは、相手がいないという意味ではない。

 優しくされるたび、卑屈な気持ちになっていく。

 彼は、誰を想っているのだろう。いまでもその相手を想っているのだろうか。自分の向こうに、誰かを見ているのだろうか。

 知っているひとだろうか、知らないひとなのか。

 見えない相手のことを思うたび、奏音は胸が締めつけられて苦しくなる。

 彼の心には誰が住んでいるのだろう。確かにいまは自分を第一に考えてくれている。でも、こうして優しくされるべきひとが、本当は別にいるのではないのか、自分はその身代わりなのだろうか。

 レミンの優しさはすべて、自分を通した向こう側にいる愛しい相手に向けられたものではないのか。

(あたしと結婚させられたせいでそのひとと一緒にいられないのかも。……もしかしたら―――)

 ―――もしかすると、王都に来てからの忙しい日々は、恋人と逢っているためかもしれない。

 アーニキに返答も相槌もできず、奏音はどんどん暗い考えに陥りそうになる。

 どうしようもないくらい、レミンのことばかり考えてしまう。そうして考えれば考えるほど、暗い感情と不安が深まっていく。

「―――どうしたの? なにかあったの?」

 黙り込んでしまった奏音に、アーニキは怪訝に声をかける。

 消え入りそうに首を振る奏音。しばらく俯いたまま唇をきゅっと結んでいたが、ややして覚悟を決めたように顔を上げた。

「あの、お聞きしたいことがあるんです」

「?」

「その……。レミンさんのこと、なんですけど……」

「レミンのこと? どうしたの? 喧嘩でもしたの?」

「いえ。えと、喧嘩とか、そんなんじゃないんです。そうじゃなくて……。その……、どうしてレミンさん、あんなにも優しいんだろう、って……、ずっと、思ってて」

 うまく自分の気持ちを伝えられない。アーニキは、続く言葉を待っている。奏音はテーブルに落ちる葉の影を目で追いながら、気持ちに意識を重ねていく。

「貴族の結婚は、愛情がなくて当然って、聞きました。レミンさんが……あたしを娘としか見ていなことも、知ってます、判ってます。だけど……、レミンさんすごく優しくて。あたし迷惑しかかけてないのに許してくれて、いつも『いいんだよ』って微笑んでくれるんです」

 レミンの真意が、見えない。

「苦しいんです。あたし、レミンさんの人生を狂わせてるかもしれないのに、なのにすごく優しいから」

 迷惑だと素っ気ない態度を取られたほうが、どれほど楽だったろう。

「―――いつだったか、レミンが言っていたことがあるわ」

 しばらくの沈黙のあと、思い出すようにアーニキ。

「カナデさんはフィザーンでは辛い思いしかしていない。だからこれからは幸せにならなくてはならない。そのためならなんだってするって。償いとも言っていたわ。あのこ本当に感心するくらいカナデさんに尽くしてる。―――実際、宮廷ではそういう見方をされているし」

 言葉の最後はほとんど呟きだったこともあって、奏音の耳には届かなかった。何故なら、

「―――つぐない……?」

 その言葉が、打ち込まれた楔のように奏音の意識に深く喰い込んでいたからだ。

「償うって、……レミンさんが? 償う……?」

「あ……」

 声を震わせる奏音の様子に、アーニキは顔色を変え言葉を詰まらせた。

 償い。

 思ってもみない言葉だった。聞き間違いかと思う。

(どういう、こと?)

 それが、優しくする理由なのか?

 だが、償いが理由ならば、説明がつく。

 償いのために。

 彼の底知れない優しさは、あの胸震えるほどの深い眼差しは、償いからのものだった―――。

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