01
光が差し込むとは、こういうことなのかもしれない。
昨日までと同じ光景も、眩しく輝いて見えた。
自分の手足、爪の先。頬に触れる優しい風も煌めいて感じる。
慣れ親しんだコイヴァリンナのすべてはあまりにも新鮮で、あまりにも自然に奏音を受け入れてくれた。
礼拝に毎週訪れる村の人々も、話せるようになった奏音を我がことのように喜んでくれた。
サテュベルから帰ってしばらくして、奏音は月のものを迎えた。身を削る痛みも、生理痛だと認識しているから、苦しいが不安はない。「痛い」と声に出すだけでも、痛みは多少薄らぐ気がした。そういえば日本にいたときも、痛い痛いとうめいていた。
奏音は時間をかけ、取り戻した言葉と声を、自分のものにしていく。
焦らなくてもいい。ゆっくりと向き合っていけばいい。
いつもそばで、レミンはそう助けてくれた。
いままでは彼が一方的に話しかけるしかなかった会話も、そこに奏音の相槌や、ときには意見が返されるようになった。
そうやって、とりとめのない事柄が普通の会話になっていくことがレミンは嬉しかったし、そんな彼を見ると、奏音も満たされるように嬉しかった。
コイヴァリンナの冬は、凍てつくほどに寒い。王都の冬もかなり寒かったが、ここはそれ以上だ。気温だけでいったら、日中の明るい時間でさえ平気でマイナス二桁行っているのではないだろうか。
逆に雪は少なかった。『家が雪に埋もれるほどの豪雪』が奏音の持っていた北国のイメージだったが、そこまで深く積もることはない。
「雪下ろしをするんです。そうしないと、雪の重みで家が潰れちゃうんです」
あのオーロラから、ふた月が過ぎようとしていた。季節は既に四旬節に入り、日もかなり長くなっていた。
久しぶりに降る雪を窓越しに眺めながら、奏音は故国のことを思い出す。
「北の国は『豪雪で雪下ろし』って思ってたから、なんだか意外な感じです」
「フィザーンでも、もっと北や西のほうなら雪下ろしはするよ。かなり重労働らしいね」
「魔法で、雪下ろしはしないんですか?」
「貴族や富裕層の一部はそうしてる」
レミンは読んでいた書物から目を上げ、懐かしそうな顔をした。
「魔術学院でも融雪魔術の習得は必須だった。おれは苦手だったけど」
苦笑うレミンが意外だった。
ふたりは居間にいた。
凍てつく寒さに閉じ込められる冬の季節、巡回裁判官の地方をまわる頻度は落ちる。そのため、コイヴァリンナやルヴァネリンナなど周辺地区で起きる訴訟の一部は、領主が裁くことになる。この日もレミンは判決を下すために朝から調書を読んだりとしていたのだが、法律関係の書物を確認しに図書室へ行った帰り、なにげなく覗いた居間で、窓の向こうを眺めやる奏音を見つけたのだった。執務室で読もうと思っていた判例集も、結局奏音のいるこの居間で開いている。本人曰く、「法律用語は難解な呪文だ」とのこと。難しい顔で書物に没頭しているレミンの姿は、奏音には新鮮だった。
「レミンさん、魔法はなんでも得意なイメージなんですけど」
「そうか? 成績は、イマイチだったな。……一応言っておくけど、転移魔術に関しては学院始まって以来の天才だって騒がれたんだぞ」
言い訳するように念を押す。
転移魔術―――あの魔法陣のものだ。
「あれ……綺麗ですよね。足元から光が立ち上がってくるの、すごくかっこいいし」
魔法陣なんて、映画やアニメでしか見たことがなかった。
もちろんレミンの魔術は特殊技術とは違う。光の噴水に包み込まれると、実際に別の場所へと移動をする。
「あの魔法で、外国とか行きたい場所に行けたりするんですか?」
「―――日本、とか?」
奏音が生まれ育ったのは日本という国であることを、レミンは彼女から教えてもらっていた。
奏音は不意をつかれる。
レミンは気にしてくれている。故国に帰れない奏音のことを。日本が懐かしくて恋しくてときどき泣いてしまう奏音のことを、ずっと。
確かに言葉を取り戻し、家に帰ることができない現実にあらためてショックは受けたけれど、いつも気遣いと思いやりを見せてくれるレミンの存在に、次第に以前ほどの郷愁は感じなくなっていた。
奏音はやんわりと首を振る。日本を思っていたわけではなかった。
「あたしのいた世界では、外国とか遠くに行くには飛行機を使うんです」
「ヒコウキ?」
それに当たる言葉がないのだろう。レミンは奏音の言葉をそっくり繰り返す。こういうときの彼は、日本語を初めて口にする外国人のような発音になる。
「魔法を使わずに空を飛ぶ乗り物のことなんです。羽が生えた船みたいな形をしてて」
「羽が生えてるのか?」
「鳥とかのじゃなくて、形がです。鉄でできてて、胴体から羽が伸びてるんです」
宙に飛行機の形を、指で描く。その軌跡を難しい顔で見つめるレミン。。
「鉄が、空を? 魔術も使わずに?」
「あたしも、どうして鉄の塊が空を飛べるのかは判らないんですけど、そうなんです」
揚力がなんとかかんとかという説明を父親から聞いたことがあるが、そもそも『揚力』自体が意味不明だった。
「それでもやっぱり十何時間も乗ってなくちゃならなくて、すごく疲れるんです。船や鉄道もあるんですけど、もっと時間はかかるし。でも、転移魔法があったら、一瞬で行きたい国に行けるでしょう?」
そういうことか、とレミンは納得する。
「行こうと思えば、そりゃあ行けるよ。入口と出口が魔法陣で繋がってたらね。でも決まりごとがあって、国境や領地の境界を越えての転移は禁止されてるし、王宮内での転移はもちろん―――」
レミンは言葉を止めた。
『王宮』という単語に、奏音の表情がさっとこわばったからだ。過去の経験に関わる単語を聞くと、彼女の意識はいまだに恐怖に凍ってしまう。
ふたりの間に、沈黙が下りる。雪まじりの風が、窓ガラスを揺らした。
「―――カナ」
「はい」
声に、緊張が隠せない。レミンがこんな難しい顔をするのは、いつ以来だろう?
「夏に、王都に行かなきゃならない。王朝開闢三百年を祝う式典が、夏至に王宮で開かれる」
「!」
背中に冷たい怖気が広がる。自分で、表情が硬くなるのが判った。
「あたしも、行くんですか?」
「ああ。おれたちに、拒否権はない」
脳裏を駆け抜ける、王宮での辛い日々の光景。
邪魔者扱いの女官たち。忌々しげに歪む白い眼差し。ないものとして素っ気なく無関心な貴族たち。そして、―――残虐な国王。
彼らと顔を合わせなければならないのか?
窓辺に置いていた手を、奏音は知らずきゅっと握り締める。
あそこに、また足を踏み入れると。
国王の乱暴な腕。抵抗を抑えつける怒声と暴力。悪魔とも鬼ともつかない、ぎらついた眼差し。
自分を否定し、悲鳴も希望もすり潰す場所。
「カナ」
奏音のそばに、レミンは歩み寄る。
「おれたちがどれだけ遠ざけようとしても、カナが『辺縁の姫君』であることに変わりはないんだ。国中が、貴族たちがカナに寄せる期待も、……変わっちゃいない」
一瞬、気が遠くなる奏音。
「それ、って……」
自分に課せられている、予見。
最後まで言わせず、レミンははっきりと首を振る。
「『主の姫宮』として式典に出席するだけだ。それ以上のことはさせやしない。国中がお前にどんな期待をしようと、おれはお前を売るつもりはない」
「……」
きっぱりとした断言に、不覚にも胸がじんと熱くなる。
なにものにも負けないというひたむきな眼差しが、思いを強く揺さぶる。
自分のことを、娘としか見ていないことは知っていた。村人やルヴァネリンナの人々が、親子だと誤解していたことも。
十二歳―――ひとまわりも年上のレミン。
確かに言葉を失っていた頃は、奏音自身レミンを保護者として、父親のような存在として位置付けていた。
けれど、こうしてまっすぐ見つめられると、胸の奥底が波立って判らなくなってしまう。
整った顔立ちのレミン。宮廷的な甘いものではなく精悍さを漂わせている。高校時代恋心を抱いていた齋藤蓮とは、まったく異なるタイプだった。欧米人のような顔立ちだというせいもあるけれど、これまで胸がときめいたどのひとたちとも全然系統が違っている。
ひととしてもレミンは素敵だった。奏音には遠く及ばないほど、広くて深い心の持ち主。十二歳も年上なだけあって、奏音をあたたかく見つめ、すべてを受け入れてくれている。いつだって奏音を優先し、なにからも守ってくれている。
眩しいひと、レミン。この彼が、
(あたしの、旦那さま、なんだよ……ね……?)
このひとと、結婚をしているだなんて。
いまだに、信じられない。
それは、レミンが奏音に〝妻〟としての義務を求めないせいもある。
こちらの一般的な夫婦はどうなのかは知らないけれど、少なくとも寝室は別々の場所にあるし、それ以前にレミンは奏音に触れようとしない。どうしても触れなければならない場合は、必ず事前に確認を取る。
どんなに贔屓目に見ても、奏音は自分がほかの女性たち――貴族であるないを問わず――より優れているとは思えない。日本人の扁平な顔立ちは、どうしても彫が深く肌も透きとおるほどに白いこちらのひとたちからすれば、凡庸だし、埋もれてしまう。毎月のものも、容赦ない痛みで必ず寝込んでしまう。かといって妻としてなにかができるわけでもないし、実際、なにもできていない。
まったく釣り合いのとれていない奏音。
レミンは、どう思っているのだろう。
言葉を失くした小娘の面倒を見なければならない自分自身を。異性を怖れるばかりの十二歳も年下の小娘に付き合わねばならない己の境遇を。
王命による、政略結婚。
反発を感じなかったのだろうか。
―――感じないはずが、ない。
(好きなひととか……いたかもしれないし……)
両想いだったかもしれない。
突然頭に浮上してきた両想いという言葉に、胸はざわざわして落ち着かなくなる。
(そうよ……)
どうしていままで気付かなかったのか。レミンにそういうひとがいて、当然ではないか。
戸惑いを悟られないよう、奏音は視線をそらした。
レミンはそれを王宮への不安のせいだと受け止める。
「大丈夫。おれがいる。もう二度と、あんな目に遭わせたりしない。おれが守る」
力強い言葉に、ざわめく気持ちはいっそう強くなる。
「カナ。辺縁の姫君であっても、お前はおれの妻。ハイカイネン伯妃だ。あの頃とは違う。独りで立ち向かうわけじゃない」
ハイカイネン伯妃。
名前だけの、伯妃。ちりりと、胸の奥が痛む。
「お前は独りじゃない。独りじゃない。おれがいる」
レミンの、まっすぐな眼差し。
ハイカイネン伯妃。
この眼差しに晒されてしまうと、暗い思いも霧散してしまうから不思議だ。
彼に、両想いだったひとがいたとしても、この眼差しはいま、いまは、自分だけを見つめてくれている。
少なくとも彼は、自分を一番に思ってくれている。大切に守ってくれている。そのことに、変わりはない。
(都合よく、解釈しすぎかもしれないけど)
―――夏至に開かれる、王宮での式典。
レミンの言うとおり、もはや奏音は独りきりではない。
以前はたった独りで国王や宮廷に立ち向かわねばならなかったけれど、いまは、レミンがいる。そばにいてくれる。
こちらにじっと向けられる眼差しのひたむきさに、奏音は気持ちの底に炎が点る思いがした。
独りじゃない。
その思いは、なににも代えられないほど強い勇気を生み出していく。
レミンが、いてくれる。
奏音はレミンに視線を戻し、頷いた。
「行きます。あたし、出席します」
決意を伝える声は、恐ろしさで震えそうだった。
辺縁の姫君として、国の式典への出席はどうしても避けられない。王宮で見捨てられていたときでさえ、重要な式典は欠席できなかった。今回の出席を見送ることができたとしても、王宮への出仕は、いつかは必ずやってくる。
避け続けることは、できない。
しかも、これはハイカイネン伯妃として初めて出席する公式の式典でもある。
なにもできない自分だから、せめて伯妃として、レミンのそばに立ちたいとも強く思った。
奏音の覚悟に、レミンはゆっくりと眼差しを深め、ありがとうと小さく呟いたのだった。




