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久遠の夜 千夜の果て  ―――辺縁の姫君  作者: トグサマリ
【第四章 オーロラの洗礼】
23/44

07

 気付くと、犬たちの声が聞こえてこない。レミンの声も。

 耳を澄ましてみても、物音ひとつない。

 急に訪れた静寂に、奏音は落ち着かなくなる。不安にすべての意識がさらわれそうだった。

 たまらず、外套を羽織ってイグルーを出た。

 ―――途端、叩きつけられるような痛みに襲われた。

「!?」

 全身が割れそうだ。そこからまるで侵蝕してくる痛みに、身動きが、取れない。

 イグルーからひょっこり現れた奏音に、(わら)に丸くなっていた犬たちが軽く身を起こした。

「? ―――カナ!」

 犬たちに視線を動かしたレミンは、その先で固まる奏音の異常な様子に慌ててやって来た。

「寒さのせいだ。ああ、ほら、しっかり着込まないとやられてしまうんだ。いいか、少し触るぞ」

 レミンは文字どおり凍りついた奏音に、手袋やネックウォーマー、帽子も深くかぶらせ、二枚の外套の前をしっかりと留めさせた。

「大丈夫か?」

 完全防備のレミンは深くフードをかぶっているせいもあって、目の辺りしか外に出ていない。月明かりと星の光が雪を照らしているとはいえ、さすがに表情を読み取るのは難しい。

 ただ、その声はひどく狼狽していた。

 申し訳なさが胸に広がる。しゅんとうなだれ、奏音は弱々しく首肯する。

「どうした? 眠れない?」

 レミンはそれまでいた場所に奏音を手招く。ためらいを見せたものの、奏音はひょこひょこといまだ雪に慣れない足取りでそばまで来て、彼と肩を並べて腰を下ろした。隣に座ってほんのり寄り添うふうの奏音に淡い笑みを浮かべ、レミンは空を見上げた。

「普段なら、もう眠りについている時間なんだけど……、まぁ、おれも、目が冴えて眠るどころじゃないんだけど」

 そう、ひとりごちるように話しだした。

「こうしてさ、オーロラを探して空を見上げているだけでも癒されていくんだ。空と大地と、光と闇と、静けさ。自然の中にたったひとりでこうしてじっと待っていると、心細くなって押し潰されそうになる。……ああ、今日はカナとふたりだから、ひとりきりじゃないな」

 ただでさえ艶のあるレミンの低い声は、凍った夜空に静かに吸い込まれ、奏音の胸にもしっとりと沁み込んでいく。

 いまにもこぼれ落ちそうな星の量に、奏音は瞬きも忘れる。

 とにかく寒かったが、ただ遠くへとひたすらに延びてゆく天と大地に、心のすべてを鷲摑みにされていた。大きくて広く果てしない星空の海。こんな壮大な光景は、初めてだった。

 広く暗い星の世界に、辺縁(へんえん)はどこにも見当たらない。

 だからこそかえって、星降る空をなんのわだかまりもなく見つめることができた。



 ふたりは、言葉もなく空を見続けた。

 どれくらいの時間が経っただろう。一頭の犬がそわそわと身じろぎをしだし、遠吠えを始めた。

 レミンは腰を浮かす。

「カルフ?」

 一頭が吠えると、他の犬たちも空に向かって遠吠えをし始める。

 レミンは一番最初に吠えた犬、カルフのそばにいき、首筋をそっと撫でた。

「―――来るのか?」

 カルフはなにかを呼ぶように――それとも応えるかのように――腹の底からの声を、遠く雪原の向こうにまで響かせていく。

 犬たちは天のひとつの方向へと声を振り絞っている。

 カルフの視線を追うレミン。その目が、大きく開かれる。

「カナ―――」

 奏音も、レミンの見遣る上空に目を向けた。

「!」


 漆黒の空の向こうから、青白い光が揺らめき、近付いてくる。

 音もなくそれは、あっという間に頭上いっぱいに広がった。


 月を透かし、青や緑、赤い色も帯びながら、光のカーテンは揺らめき、踊る。

 奏音は目の前の光景に、突き動かされるように立ち上がった。

 目が、離せない。

 瞬きすら惜しまれるほど、それはあまりにも神々しく、美しすぎた。

 犬たちも、遠吠えを忘れている。

 青みを帯びた緑色の光の端が震えひらめくと、それは全体に波のように伝わり、全天に翻る。


 天上から光が、矢のような勢いで降り注いでくる。

 身体が震えた。

 レミンが言っていたような、気持ちが洗われるなどという穏やかな存在ではなかった。

 全身全霊を、揉みくちゃにするほどの強く激しい衝撃が貫き、揺さぶり、すべてを持っていかれる。


 光があった。

 天に、光の向こうに。


(―――ああ)


 音楽が聴こえる。

 天上に音楽が、溢れている。

 光の束。

 壮大な光の色。

 胸を震わす、幾億もの調べが。


 魂を貫き通す。


 意識のすべてを、突き抜けていく―――。



 ―――現れた反対側の方角へと、オーロラは流されるようにして去っていった。

 今夜のオーロラは、レミンにとってもこれまで見た中でも長く、美しかった。

 オーロラを浴び、気持ちがすっきりしたレミンは、立ったままの奏音の様子がおかしいことに気付いた。

「カナ……?」

 魂を抜かれたように立ち尽くす彼女に、レミンはそっと声をかけた。

 奏音は頬に涙を凍りつかせながら、オーロラが激しくも優雅に踊っていた空を見上げていた。

 レミンが間近に来ても微動だにしない。泣いていることにも気付いていないのだろう。

 伝説の妖狐に、魂を抜かれてしまったのでは?

 そう思えるほど、彼女は自失していた。

(生きて……る、よな?)

 顔を覗き込むと、ゆるやかに瞬きはしている。

「カナ。カナ?」

 何度か名前を繰り返すと、夢から覚めるように彼女の焦点は戻り、レミンを捉えた。

 内心、胸を撫で下ろす。

「すごかったな」

 平凡な言葉しか出てこなかった。

 世の中にはもっと気の利いた言葉があるのだろうが、大自然の中オーロラを目にしてしまうと、どんな言葉も色褪せてしまう。

「久しぶりにあんなオーロラを見たよ」

 興奮が覚めないのだろうか。ぼんやりと奏音の視点は定まらず、あまり反応を示さない。

 まだ次のオーロラがやって来るかもしれなかったが、長い間外にいて身体が冷えきってしまったことと、奏音が先程の衝撃から抜けきれずにいることから、いったんイグルーに戻ることにした。

 レミンに連れられて覚束ない足取りで自分の小部屋に戻った奏音だったが、結局、他のオーロラを見ることもなく夢うつつのまま、そのまま沈むように深い眠りについたのだった。



 ―――犬たちのはしゃぐ様子に、レミンは目を覚ました。

 辺りはまだ暗い。だが、身体の感覚から、既に朝は迎えているようだ。

 壁の向こうから聞こえてくる、嬉しそうな犬たちの声。犬たちだけであんなにはしゃげる理由が思いつかない。

 いぶかしみながら外に出てみると、犬たちに囲まれた奏音の姿があった。

 自分で用意をしたのだろう、地面に置いた角燈が、犬と戯れる彼女を浮かび上がらせていた。

 その様子は―――いつもと、違う。

 ずっと引きずっていた重たい影のようなものが、なくなっている。気が、する。

 頭を撫でられ喜んでいたカルフが、レミンに気付いて駆け寄ってくる。他の犬たちも、尻尾をちぎらんばかりに振って迎える。

 歩み寄るレミンに、奏音はまろやかに微笑んだ。

「おはよう。寝坊しちゃったかな?」

「―――」

 首を振りながらも、奏音はかすかすと喉を鳴らした。

 はっとするレミン。

 いまのは、もしかして―――?

「カナ……いま、言葉……?」

「―――」

 頷く奏音。喉を震わせきれない空気の音。口元はネックウォーマーで見えないが、その目は晴れやかで、いままでにないくらいに澄んでいた。

「―――」

 奏音が、喋っている。

 自分の意志でなにかを伝えようとしている。

 自分の口を使って。

 言葉を使って!

 レミンは抑えきれず、奏音を抱き締めた。

「!」

「よかった……、よかったな、カナ!」

 奏音が戻ってきた。どれだけそばにいようとも、届かなかった。

 いままでは。

 ようやく取り戻せた。やっと、帰ってきてくれた。

 厚着の上に毛皮の外套を重ねているふたり。奏音はレミンの毛皮に埋もれながらも、おずおずと彼の背中に腕を伸ばした。


 長い長い、暗く圧迫感のあるトンネルを抜けたような気がしていた。

 世界は自分の外側にあって、そこと自分に関わりがあるとは思いもしなかった。

 このひとが―――レミンがいつもいつも見守ってくれていたことは、判っていた。いつだって、いたわるような優しい声と眼差しを注いでくれていた。

 オーロラが自分を突き抜けたあのとき。

 唐突にすべてが戻ってきた。自分自身を認識した。

 現実を拒絶しどれだけ足掻いても、踏みしめている足元に広がるのはこちらの世界。こいねがい渇望する日本ではない。

 日本ではない。

 その現実は、けれど以前ほどの寂しさをもたらしはしなかった。

 奏音は背にまわす腕に力を込めた。

 ひとりきりじゃない。

(レミンさんが、そばにいてくれる……)

 この力強い腕で―――。


 いまだ暗い極夜の朝。

 無心に抱き合うふたりのまわりを、犬たちが餌はまだかまだかとせわしなく様子を窺っていた。

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