06
雪原を走り、幾つかの丘を越え、犬ぞりは雪に沈む森の間を駆け抜ける。
耳に届くのは犬たちの息遣いや雪の大地を踏みしめ蹴りだす音、雪の波をかきわけ滑る橇のしなる音、木々の枝にうず高く積もっていた雪がなにかの拍子に落ちていく音。そして時折、犬たちを操るレミンのかけ声。
それらの音はすぐに雪に吸い込まれ、一瞬後には静寂に還ってしまう。
月は半月だったが、森に差し込む光は目が慣れてしまえば充分なものだった。芯を極力短くした角燈の明かりが、逆に眩しいくらいだ。
森を抜け、緩やかな丘を従えた雪原に出た。
月光を受ける雪原は、まるで銀の海のように、地平の先へと広がっている。
「何年か前から」
犬たちに声をかける以外ずっと黙り込んでいたレミンが、穏やかな声を静けさに溶け込ませる。
「ときどき、こうしてサテュベルに来るんだ」
レミンを振り仰ぐ奏音。彼は橇の行く先を、遠い目で見つめていた。
「オーロラっていうのを、知っているか?」
尋ねる形をとってはいたが、答えを求めているようではなかった。
「いろんな色の光のカーテンが、大空を踊るんだ。言い伝えでは、妖狐の尻尾の先に灯った炎が、天に映った姿なんだそうだ。冬のサテュベルでは、それが見られる」
雪原を抜けると、再び森が現れた。今度は森には入らず、迂回する道を進む。
「いつも出現するわけじゃないんだけど、あれを見たら、苛ついて荒れた気持ちなんてどうでもよくなってくる。ちっぽけで、取るに足りなくて。だから、こうしてときどきオーロラに会いに来る。オーロラはすべてをまっさらに洗い流してくれる。……そんな気分だったから。怒鳴って、悪かった」
レミンは巧みに手綱をさばき、犬たちを操る。森を左手に進んでいくと、やがてだだっ広い氷の湖が現れた。短く鋭い声が犬たちに飛ぶ。犬ぞりは浅く雪を積もらせた氷の湖へと進路を変える。
湖心あたりに辿り着くと、レミンのかけ声とともに犬たちの足が止まる。橇のブレーキから足を離したレミンに、犬たちは走り足りなさそうに抗議の眼差しを向けた。
「お疲れさま。ここが終点だよ」
奏音にかけた言葉を、レミンは犬たちにもかける。
犬たちをねぎらうかたわら、空を見上げるレミン。
澄み渡った空に、雲は見当たらない。砂を撒いたような星々が瞬くばかりで、オーロラの気配はどこにもなかった。
レミンは犬たちに餌をあげると、降り積もった雪に向かって腕を差し伸ばした。
呪文なのか静かな呟きが彼の口からこぼれ落ちる。すると周囲の雪が音もなく集まってきて、みるみるうちにドーム――イグルー――が形作られた。ぽかりと奏音に向かって開いていた入口の前に、風除けの壁が立ち上がる。
「オーロラが現れるまで、ここで待ってるといい」
両手に荷物を抱え、レミンは中へと奏音を誘う。
入口をくぐると短い通路の先、一段上がったところに部屋があった。更にその奥に、小部屋がふたつ顔を覗かせていた。
「好きなほうを使うといい」
レミンは小部屋を目で示す。
「まぁ、どっちも狭くて寒くて硬いけどな。この寒さがあるからこそ、オーロラも醍醐味が出るんだ。我慢してくれよ」
言われるまま、小部屋を覗いてみる。大人ひとりが横になって寝返りがうてるゆとりはあるものの、決して広くはなかった。
「どっちにする?」
それぞれを指で示し、レミンは訊く。ふたつの小部屋に違いはない。イグルーの出入口に近いか遠いかだけである。
奏音が入口近くの小部屋を選ぶと、レミンはそこに寝袋や毛皮などの荷物を運び入れた。
「外套は両方とも脱いでおいて。外にオーロラを見に行くとき、そのままだとかえって寒さがきつくなるし、汗をかいて風邪をひくから」
言って、レミンはネックウォーマーを下ろし、下の外套も脱いだ。奏音もそれにならう。痛みのような冷たさに身体は震えたが、すぐに馴染んできた。
レミンは荷物を広げたり片付けたりと、慣れた手つきでイグルー内を整えていく。
なにをするでもなく手持ち無沙汰にそれを眺めていると、レミンは困ったようにイグルー内を見まわした。
「すること……ない、もんな。オーロラが現れたら教えるから、休んだほうがいい。犬ぞり、疲れただろ?」
言いながら部屋に薄い敷物を敷き、灯した蝋燭を乗せた幾つかの小皿を、邪魔にならない場所に置いていく。
レミンの手際はあまりにもよくて、奏音が手伝えるような隙はどこにもなかった。
けれど、指示されるまま小部屋に引き上げることができない。
「―――大丈夫。置いていったりなんてしない」
奏音の曇った表情を、レミンはすぐに理解する。
「ここにいる。すぐそばにいるから」
いつものレミンに戻っていた。まっすぐに目を覗き込まれ、ようやく奏音の肩から力が抜けた。
ここは初めて見る場所。初めての乗り物でやって来た、凍てつく場所。レミンはたったひとりでなにからなにまでを行っている。
誰もいない場所。
そんな状況で闇の中、独り放り出されるのは、恐怖以外のなにものでもない。
「ん?」
なのに、こちらへと向けられる彼の大きな眼差しと穏やかな口調は、不思議なほど孤独への恐れを和らげてくれる。
奏音は、素直に頷いた。
レミンは寝袋の使い方を教えると、遊びたがっている犬たちと戯れるため、外套を着て外に出ていった。
それを見送った奏音は小部屋に行き、教えてもらったようにトナカイの毛皮を敷いた上に寝袋を広げた。
袋状になっている寝袋は、外も中も柔らかな毛皮だった。抱き締めて頬擦りをすると、ふわふわしていて気持ちがいい。
雪の壁一枚を隔てた外からは、犬たちのはしゃぐ声と、レミンの楽しそうな声が遠く聞こえてくる。
あのとき、いつになく声を荒げたレミン。緊迫した空気をまとっていた。
―――怖かった。
初めて見る彼の険しさに、胸の奥底が凍りついた。
レミンはずっと、とげとげしい空気を漂わせていた。あの明るいひとが帰る頃からだ。
奏音は、整った顔立ちの青年を思い浮かべる。
仲が良さそうだった。ふたりがともにいるときの空気は、とても心地よいものだったのに。レミンのまとう空気の変化に、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
けれど、もう、あの引き絞られるような表情も空気も、どこかに消えてしまった。
レミンの穏やかな表情は、胸をあたたかくさせる。
寝袋を抱いたまま、奏音は過去の情景にぼんやり意識を浸らせ、そうしてそのまま、ゆるりとしたまどろみへと沈んでいった。




