04
レミンは奏音に厚着させるようエレネに指示を出した。下着を重ね、顎まである地の厚いドレスを着る。その下に、裾を足首で絞った厚手のキュロットのようなものをはき、耳まで覆う深い帽子と、二枚重ねの手袋をはめる。更に、肩から鼻の上まで隠れる固く編んだネックウォーマーと、毛皮の外套も二枚用意された。
過剰なまでの万全な防寒対策に、レミンの行き先はここよりももっと寒いところなのだと奏音はぼんやり感じる。
着替えを済ませ居間で待っていると、レミンがやって来た。彼もまた、同じように厚く着込んでいる。
「ん。こっち」
奏音の格好を目で確認し、彼は手招きをする。それについて居間を出ると、玄関とは反対の廊下を進んでいく。
奥まった部屋の扉を開けると、そこは壁際の床に燭台を幾つか置いただけのがらんとした部屋だった。
その光景に、奏音の背筋は凍る。
板張りの床に描かれた、曲線や直線を組み合わせた円形の図形。
青白くほのかに発光しているそれは、記憶の奥に埋もれていた光景を引きずり出す。
奏音は怯えに突き動かされ、たまらずレミンを仰いだ。足は凍りつき、動けない。
しかしレミンはそのまま、円陣―――魔法陣の中へと歩を進める。中心まで行くと、くるりと奏音を振り返った。
「おいで」
レミンのその声が、頭の中でわんわんと重たく重なり響く。
動けなかった。
頭の先から踵までを冷たい針に貫かれたように、一歩も踏み出せない。
息は出口を失い喉の奥でわだかまり、胸の内側では声にならない悲鳴がはちきれんばかりに暴れている。
「カナ?」
奏音は首を振った。あの場所はいけないのだと、本能が叫んでいた。
あの光の形。記憶に生々しく刻み込まれた恐怖への入り口。
レミンは奏音の恐怖に気付き、戻ってきた。
「あのときのこと思い出したのか?」
嫌がる奏音を無理やり魔法陣で王宮に連れた。そうして始まった、残酷で堪えがたい日々―――。
足を止めたレミンを奏音は怯える眼差しで見上げ、怖いのだと首を振り続ける。
レミンは困惑し、持て余し気味に奏音を見下ろした。
気持ちは判らないでもない。しかし普段ならもっと柔軟な思考回路で思いやれたが、いまはそんな余裕自体がなかった。
「ここで待つか?」
この先にある地を求めているのはレミンであって奏音ではない。もともと彼女を置いてその地に赴くつもりだった。
レミンの言葉の温度を食い入るように読み取る彼女は、しかし予想に反し頷かず、首を左右にぎこちなく動かしてすがるように見つめてきた。
置いていかないで。
胸元で握り締められた手は所在無げで、ひとりになることを怯えていると窺わせる。
どうして足を引っ張るような真似をするのだろう。
レミンの中で、苛立ちの小さな炎が閃く。
「なら、来るんだ」
言った自分自身が、その声に混じる刺々しさに愕然とし、うんざりする。もちろん奏音もその険を感じ取り、ためらいを見せた。
違う。怯えさせるつもりではないのに。
自己嫌悪に陥りそうだ。
レミンは荒れ狂う自分の感情を、拳を握り締めることで懸命に御そうとする。
いまここで感情をぶつけては、これまでのすべてが崩れてしまう。奏音はまだ、自分を取り戻したわけではない。一方的に突き放しては、だめだ。
けれど。
自分は聖人君主ではない。見守ってやりたくても、どうしてもできないときもある。
(だめだ。感情に、負けてはだめだ)
奏音を失うわけにはいかない。
判ってる。
判っているけれど。
レミンは目を閉じて深呼吸を繰り返す。
「―――カナ」
幾度か深呼吸を重ね、彼は自分をなだめながら奏音を見据えた。
「この向こうにあるのは、サテュベルという北の土地だ。王宮じゃない。あのときみたいなことは絶対にない。でも怖いのなら、やめればいい。すぐに帰ってくる。どうする?」
レミンは思いを堪えた口調で、奏音の目を覗き込む。
足を引っ張っていると、奏音は感じていた。
レミンの向こうにある魔法陣は、視界に入ってこなくとも、そこにあるというだけで強い恐怖心を胸に沸き起こさせる。
レミンはどこかに行きたがっている。あのときのように、無理強いはしていない。ただ思いつめた目で、強くなにかを問いかけてきている。
そばにいたいだけなのに。
青白く光を帯びる魔法陣へと奏音は目を転じた。
たったそれだけで、どうしようもなく震えが足元から這い上がってくる。止まらなかった。
「―――ん。じゃあ、一日二日で帰ってくるから。待ってて」
レミンの手が、優しく奏音の頭に乗せられた。
手のひらの軽いその重みが、遠く響くように胸を震わせた。
レミンに目を戻したとき、彼は魔法陣に向かって歩きだしていた。
「早ければ明日の昼には帰れるから」
魔法陣の中央に立ち、レミンはそう強く笑んで見せる。
奏音がまだ自分の気持ちを決めかねているうちに、彼は呪文を唱えだした。魔法陣から、光が立ち上がる。
レミンの姿が、膝、腰、胸と、光に包まれていく……。
弾かれるように奏音は駆けだした。
「―――ばッ!?」
光の中、レミンは青ざめ、声を詰まらせた。発動中の魔法陣に駆け込もうとするなど。
慌てて転移魔術を解除する呪文を唱えた。
立ち上がっていた光がすとんと足元へ落ちると同時、奏音は足を止めた。魔法陣のすぐ外側だった。
本能で発動中の魔法陣に飛び込む危険性を察知したのかもしれないが、レミンは生きた心地がしない。
「な、なしてるんだ、莫迦ッ!!」
たまらず、責める声になる。
「あのまま飛び込んでたら、身体がばらばらになってたんだぞッ!?」
レミンの怒声を浴び、奏音は身をすくませた。
彼に怒鳴られたのは初めてだった。
「ここで待ってろって言っただろ!?」
激昂するレミンに、しかし奏音は怯えながらも気丈に首を振る。なにかを決意した顔で、まっすぐに見上げてくる。
その強い表情に、レミンははっとした。
「―――来る……のか?」
奏音はこくりと、頷いた。
思わず吐息をつく。
魔法陣の危険性を奏音が知っているとは思えない。自分の気持ちに一生懸命になって、駆けださずにはいられなかったのだろう。
感情的になっていたとはいえ、声を荒げてしまった自分を密かに後悔し、レミンは手を差し伸べた。
「……おいで。この光は踏んでも大丈夫だから」
レミンの声から激しさが消えたことに、奏音はほっと眉を開く。
差し伸ばされたその手を奏音は取り、恐るおそるといった体で魔法陣に足を踏み入れた。恐怖と戦っているのか、呼吸が浅くなっている。
「大丈夫。カナが恐れることはなにも起こらないから。外套を。あとそれもおれが持つから貸して。ん。ほら、ここ。この円の内側にいるんだ。裾がはみ出ないように気をつけて。こう、寄せて、そう。前で手で押さえてて」
魔法陣の中心には、両手を広げた大きさにやや満たない円が描かれていた。
何枚も重ね着しているせいで膨らんでしまうスカート部分を、身体の前に寄せるよう身振りでレミンは伝える。外套やネックウォーマーを落としてしまわないよう、慎重に預かって、奏音の足元を覗き、完全に円の内側に収まっていることを確認する。
「ちょっとだけ、腕で囲うよ」
確認を取るレミンをじっと見つめ、小さく頷く奏音。
「行くよ」
レミンは奏音を胸の中に囲うと、その背に手を添えた。彼の唇から、転移魔術の呪文が紡がれる。
足元から光がわき上がる。
奏音がそっと頭を上げると、軽く目を伏せたレミンが唇を動かしていた。レミンの声は心地よく深く響いて、胸の内を甘く満たしていく。
視界に、白い光が広がってきた。スカートを押さえる手に力がこもる。
奏音は目をぎゅっと閉じ、息を止めた。




